2021年12月26日礼拝 説教要旨

すべてを遥かに越えて(マタイ2:1~12)

松田聖一牧師

イソップ物語にこんなお話があります。肉をくわえたイヌが、橋をわたっていました。ふと下を見ると、川の中にも肉をくわえたイヌがいます。その犬に向かって、犬は右や左を向いたり、あっちにこっちにと向きを変えますが、水面に映っている犬は、全く同じ動きをします。逃げようとしません。全く同じに動きますから、その犬は、水面に映った犬を、ますます意識してしまいます。そしてあいつの肉の方が大きそうだとか、いろいろと思います。でもあれこれしても相手は、全く同じ動きをしてしまうので、とうとうイヌは「そうだ、あいつをおどかして、あの肉を取ってやろう」ということになり、川の中のイヌに向かって思いっきり「ウゥー、ワン!!」と吠えたその途端、くわえていた肉はポチャンと川の中に落ちてしまい、もう水面に映っていたその犬ももういませんでした。「ああー、あ」川の中には、がっかりしたイヌの顔がうつっています。さっきの川の中のイヌは、水にうつった自分の顔だったのです。というお話ですが、

 

このお話が指し示す内容は、同じものを持っていても、人が持っているものの方が良く見え、また、よくばると結局損をすると言うお話として紹介されていますが、それだけではなくて、なぜ川の中の犬に向かってワンと言ったのか?そうさせるものは何か?ということです。それは水面に、肉を加えた犬を、その犬が見た時、肉だけが大きく見えたのではなくて、その犬が、自分にとって、大きく見えたからです。全く同じ犬なのに、自分よりも大きく見えたのは、肉やその犬が本当に大きかったのではなくて、肉をくわえた本物の犬自身が、水面に映っているその犬を自分よりも大きな犬と、受け取っているからです。それが、自分にとっての脅威となっていくのではないでしょうか?もちろん、相手の方から、私はあなたの脅威です。あなたのお肉が欲しいです、と本物の犬に向かっていっているわけではありません。でも本物の犬にとっては、水面に映ったその犬は、自分の肉が取られるのではないか?とか、自分に立ち向かってくるのではないか?など、脅威に繋がる出来事が、まだ何も起こっていないのに、その実在しない、水面に映った犬を、自分の中で大きくしていくのです。

 

それは犬だけのことではなくて、私たち人間の姿でもありますね。自分にとって相手を、同じであっても、大きいと見るかどうか?そして自分に脅威として受け取るかどうか?そういうことがらが、人にもあるということです。

 

それはヘロデ王のことでもあります。というのはヘロデ王が、「不安を抱いた」

別の言い方では、恐れ惑ったとか、かき乱され、狼狽したとありますから、王の不安は、とんでもないほどです。それは何がきっかけであったかというと、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」という占星術の学者たちの問いと、博士たちが「拝みに来たのです」ユダヤ人の王として生まれた方を、ひざまずいて礼拝するために来たと言ったことに始まります。そのことを、聞いてヘロデは、自分にとって代わる王がいるということ、その王の星を見たのではるか東方からやってきたという証言に、ヘロデはイエスさまが、自分以上の王であることを感じたからではないでしょうか?自分の手中に収めることができたら、自分の言うなりになる存在であれば、脅威とは感じませんし、脅威にはなりません。痛くもかゆくもなりません。でもヘロデが、かき乱され、狼狽するほどになったということは、ヘロデ自身が、自分よりも大きな王だということを、認識しているからです。

 

一方でイエスさまは、ヘロデの脅威になろうなんて思っていませんし、そんなことをしようとも思っていません。この時生まれた赤ちゃんが、私あなたの脅威となって、脅かそうと思うけれど、なんて言いません。しかし、ヘロデは、生まれたイエスさまを、ヘロデの、王としての立場を脅かすものとして受け取っているのです。

 

そのように、相手がそんなことを思ってもいないのに、自分にとって、自分以上の存在として相手を受け取った時、それが、自分にとっての脅威となります。脅威と感じた時、恐れや不安が出てきます。

 

ある時に、住んでいたところのご近所に、すごいこわもてのおじさんがいらっしゃいました。毎日、毎日、黙って植木鉢を手入れしておられました。でもすごいこわもてです。内心「えらい方が近所におられる~」と思いました。でもご近所にお住まいですから、顔を合わせるんです。向こうもこちらを見ておられます。そのまま進めば、そのおじさんの近くまで行くことになります。ところが近づけば近づくほど、そのこわもてが、さらに輪をかけたこわもてが見えてきます。内心、ドキッとしましたが、近所だから、挨拶もしないといけない、と思いまして、「こんにちは」と声を駆けましたら、そのおじさんも挨拶を返して下さいました。そしたらあんなにこわもてな顔なのに、声はすごく優しい声でした。優しい声で「こんにちは~」それがびっくりでした。顔と声は違うんだ~ということを感じた出来事でした。それからは会うと「こんにちは~」と挨拶をかわしあい、ご近所のお付き合いが始まりました。

 

こわもてだと思っていた時には、脅威に感じていた自分がいました。でもそれは杞憂に終わりました。それだけでなく、優しい方だということが、こわもてからは想像もつきませんでした。優しい声を聞くまでは、こわそうな~と思い、脅威に感じていました。

 

相手が脅威と感じさせるようなことを、自分に向かって仕掛けたわけではありません。相手は何もしていません。ところが脅威と感じるのは、自分自身がそう感じているからですし、自分自身の中にある思いの現れです。そして、それだけで終わるのではなくて、そこから自分が脅威を感じたものへのいろいろな出来事に繋がっていきます。その1つが、支配しようとすることです。自分の中でコントロールしようとすることです。

 

それが祭司長、律法学者たちにも及び、そこでヘロデ王は、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」

 

ヘロデはかき乱され、心は揺さぶられ、不安の頂点に向かっています。どこに生まれることになっているのかということを問いただして、救い主の居場所を突き止めようとするのです。

 

そこで、祭司長、律法学者たちは、旧約聖書のミカ書にこう書いているということを、ヘロデに伝えていくんです。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」イエスさまがベツレヘムで生まれ、イスラエルの牧者となる、イスラエルを導く牧者となるということが、ミカ書という旧約聖書に書いてありますよということを、問いただされた彼らは答えていくのです。

 

が、彼らの引用したのはミカ書、5章1,3節からの引用ですが、そこには「こう記されています。『ベツレヘム、エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、最も小さいものだが、あなたのうちからわたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは昔から、永遠の昔からの定めである。彼は立って、主の力と彼の神、主の御名の威光によって、群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ』つまり、祭司長たちや、律法学者たちが、このように書いてあると王に伝えた内容は、ミカ書に書いてある内容をそのままではありません。しかし、彼らが王に伝えていく内容は、メシア、救い主

はどこに生まれることになっているのかという問いの答えだけではなくて、ベツレヘムで生まれる救い主は、確かに小さな存在であるけれども、小さいままではなくて、大きな存在であること、それが永遠の昔から約束された神さまの定めだということを、祭司長たちをして、王に語られていくんです。ヘロデが聞きたかったことは、ベツレヘムだけで十分です。でも、どういうわけか、ベツレヘムで生まれる、救い主イエスさまは、決して一番小さいものではなく、最も大きな存在であり、その大きさは、ヘロデに及ばない大きさであるということも、彼らをして語られていくのです。

 

ご本人たちが意識していたかどうかはわかりません。なぜ王に向かって、決して一番小さいものではないということまで伝えたのか、そんなことまで言ったら、王の不安、恐れに対して、火に油を注いでしまう内容です。でも祭司長たちは、ただ旧約聖書の預言者、と言う神さまの言葉を伝える人が、こう言っていますということを、他のマタイによる福音書では淡々と「こう記されている」と書いてあるのに、この箇所では、この祭司長たちが「預言者がこう書いています」と言う言葉は、他のところとは全然違って、実に、こう書いています!実に、その通り、こう書いています!そしてベツレヘムです!ということを強く強く語るのは、ヘロデが問いただしたこと、ヘロデの恐れ、ヘロデの狼狽、かき乱されているその状態ですらも、用いられて、イエスさまが、永遠の初めから神さまによって、確かに小さな存在であっても、人々の牧者となること、大きな牧者となることが語られていくのです。

 

神さまに用いられていくというのは、そういうこともあるのです。自分が用いられている感じは全くなくても、結果として、神さまが用いて下さるということになっていくのです。どんな状況下であっても、神さまが神さまのご用のために、用いてくださるのです。さらには、東方からの学者たちは、ヘロデ王に送り出されて、イエスさまの所に送り出されます。この時の王は尋常ではありません。恐れと不安に満ちています。イエスさまを亡き者にしたいという悪意に満ちています。

 

しかし、そんな尋常ではない王から送り出され、イエスさまを亡き者にしようという殺意、悪意に満ちた出来事の中から、学者たちは星に導かれてベツレヘムにいるイエスさまに出会うことができました。黄金、乳香、没薬という、高価なものがささげられました。そしてそれぞれに意味があります。黄金はイエスさまがまことの王であること、乳香はイエスさまが神さまと、人間との橋渡しであること、没薬は、イエスさまが、全ての人の救い主となるために、十字架にかかられ、葬られた時に用いられるものであること、それぞれが学者たちによって、ささげられました。それによって、イエスさまが、まことの神さまであり、まことの王であること、そしてイエスさまがまことの救い主であることが、現わされたのです。その一方で、そのささげものがささげられる背後には、ヘロデの悪意と殺意があります。ヘロデの不安、恐れがあります。イエスさまに対する命の危険があります。

 

けれどもそんな悪意に満ち、悪意が渦を巻くような中にあっても、学者たちは「ヘロデのところへ帰るな」という神さまからのお告げで、二度とヘロデに会うことなく東の国に帰っていきました。その意味は、

 

学者たちは、ヘロデ王の不安、イエスさまへの脅威、イエスさまへの悪意、殺意、祭司長、律法学者たちの不安とは、別のところにいるということです。いろいろな思いが渦巻いている中で、学者たちは、それとは全く関わることなく、ただイエスさまに会うために、東方から旅をして辿り着いたのです。そしてただイエスさまを礼拝したいという思いで、黄金、乳香、没薬を持ってささげた出来事です。でも自分たちの存在が、ヘロデ王を動揺させ、動かしていくことすら、学者たちは気づかずに、また分からないままに東の国に帰っていったということは、学者たちは、すごいことがうごめいていることすら知らずに、それらに関わることがないままに、神さまに用いられているということなのです。

 

大阪の河内長野に清教学園というキリスト教ミッションスクールがあります。その学校を立ち上げる時に、いろんな方々が尽力され、特に河内長野教会の婦人会が中心となって、バザーやらいろいろなことを手掛けていかれました。そうしてようやく設立した学校のために、祈ってささげておられた一人の女性の伝道師の方がいらっしゃいました。生涯独身で召されていかれた方です。その伝道師がクリスマス前に体調を崩し、床に臥せていた時、教会の青年会の方々が、先生のところに行こうと、夜家の玄関に集まって讃美歌を歌うためにそこに向かうんです。その途中にはいろいろな家が立ち並んでいました。昔のことですから、音が筒抜けです。ある家では夕ご飯の音、食卓を囲んで家族団らんの声、中には夫婦げんかの声、子どもが泣き叫んでいる声、いろいろな声が家々から出ている中を、青年たちは先生の家に向かいました。そして讃美歌を歌い始めると、あれほどに生活音などが聞こえていたのに、それが全くなかったかのような静かなひとときとなり、讃美歌を歌いました。すると、玄関の明かりはつきました。でも病床にあった先生は出て来ることができませんでした。それでも、讃美歌きよしこの夜は、そこで響いたのでした。

 

きよしこの夜、星は光、救いの御子は まぶねのなかにねむりたもう、いとやすく。きよしこの夜、みつげ受けし 牧人たちは 御子の御前に ぬかずきぬ かしこみて きよしこの夜 御子の笑みに 恵みのみよの 明日の光 かがやけり ほがらかに。

 

周りにはいろいろな声がありました。いろいろな音がありました。いろいろな思いや感情、良い思いも、悪意もあったかもしれません。でもそれは確かにあったけれども、それにかかわることなく、とらわれることなく、ただ神さまを讃美できた恵みがありました。

 

神さまが用いて下さるとき、それは、用いられているご本人は全然周りがどうなっているのか、周りがどんなに不安や、動揺があっても、どんなに悪意に満ちていても、そういうことに全く関わらずに済むことも、神さまが与えて下さっているお恵みです。それは向かう方向が神さまに向かっているからです。神さまを礼拝するお恵みに向かっている時、それ以外のいろいろなことは確かにあっても、それにかかわる必要も、またいろいろに向かうその気持ちもどこかに行ってしまうのです。

 

もちろん悪意に気づくこともあるでしょう。いろいろ周りには確かにあるでしょう。しかし、悪意がものすごくあっても、それに全く関わることなく、触れることなく、神さまから与えられたわが道を行くことができ、イエスさまに出会えたことは、枝葉のことに振り回されずに済んだということでもあります。枝葉のことに振り回されず、一番大切で、必要なイエスさまに出会えたというお恵みがあります。

 

この恵みに繋がる出来事、導かれる神さまのなさることは、学者であっても、王であっても、祭司長、律法学者たちであっても、彼らの分からないところで、また彼らの思い、計画を遥かに越えています。

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