2021年12月5日礼拝説教

その心は(マルコ7:1~13)

松田聖一牧師

この2年を振り返るときに、新型コロナのことで、生活スタイルが大きく変わりました。その変わったことの1つに、手を洗うということ、手を消毒すること、アルコール消毒が、普通になりましたね。その通り、感染を防ぐためには、手を奇麗に洗うということ、消毒を徹底すること、これにつきます。体の中に入らないように、そのために手を洗うのです。もちろん100%完全に防げるとは言い切れませんが、手を洗うということ、手を奇麗に消毒することは、必要なことですね。今日は聖餐式が式久しぶりに行われますが、その際にも手や指を消毒いただけるように準備いただいております。

 

イエスさまのもとに集まったファリサイ派と律法学者の人たちも手を洗っていました。しかも「念入りに手を洗って」いたとありますが、どのように手を洗っていたのかというと、こぶしで洗うということです。つまり一方の手をにぎりこぶしにして、そしてもう一方の手を開いて、その開いた手を握りこぶしで、一生懸命に一方の手のひらにこすりつけて、一生懸命に洗うのです。そういう洗い方で、彼らは手を洗っていましたが、それは「昔の人の言い伝え」であり、それを彼らは「固く守って」いたということです。つまり、手を洗うという行為そのものを守っていたというよりも、その洗い方、こぶしで片方の手のひらを一生懸命に、こぶしをこすりつけて洗うという昔の人の言い伝えの、そのやり方を、固く守っていたということです。

 

そういうやり方、作法というのは、こぶしでこすりつけるようにして手を洗うということだけではなくて、(4)にあるように、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんあるーとある通り、他にもいろいろありました。そういうことは今もいろいろとありますね。

 

例えば、お正月の三が日には祝箸というのがあり、それを使うご家庭が一般的にあります。そのおはしですが、正月三が日は全く洗わずに、そして三日が済めば捨ててしまうというやり方が残っているところがあります。

 

そのことについてある方が、こんな質問と感想を寄せておられました。

 

お正月のお箸のことです。以前、お正月にお泊りに行った時の事です。おせち

料理と一緒に、割り箸(上等な感じのもの)を出されました。箸の袋には、全員の名前(●●子とか▲▲男とか)が書かれていて、それを使いました。で、食事が終わったら、袋に入れて回収。で、次の食事には、前に使った洗ってない箸が出されました。質問したら、1月1.2.3の間は同じ箸を洗わずに使い、3日の夜に捨てるそうです。気持ち悪いなぁとは思いましたが、我慢して使い、翌日帰りました。これって、一般的な風習ですか?こういう風習はどこの土地のものですか?3日間も洗わないことに抵抗を感じるのは、私だけでしょうか?

 

この問いに対する返答の一つには、こうありました。

 

うわ・・・、ごめんなさい、ちょっと気分が悪くなってしまいました。でも、有るようですね・・・同じ箸は良いとして、せめて洗いたいですね・・・。昔は、お茶碗やお箸をを食後にお茶ですすいで飲み干したりしたようなんで、そう言う風にしていたら、分からないでもないですが、それすらしてなかったら、ちょっと私はなみだ目になっちゃうかも・・・。

 

そんな昔から言い伝えられている、お箸を洗わないで使う習慣も、いつからかは分かりませんが誰かが、どこかでそれを言って、それを言われた通りにした人がいたから、続いていることです。反対に、そんな習慣は嫌だわということで、なくなっているところもあると思います。いずれにしても、細かい作法も含めて、昔の人の言い伝えを守る人と、守らない人、守りたい人と、守りたくない人がいるということです。でもどうして守ろうとするのでしょうか?昔の人が、誰だかよく分からない人が、どこかで言ったことをなぜ守ろうとするのでしょうか?

 

守らなければならないと思っているからでしょうか?あるいは周りが守らなければならないと受け止めて、守っているから、それに自分も合わせないといけないから、守っているのでしょうか?周りに合わせて、私は守っているということで、自分を守るためでしょうか?でも周りに自分をいつも合わせていくというのは、楽なように見えて、しんどいこともありますね。自分の考えで、私はこうしますということが、なかなかできませんし、いつも周りに合わせ続けていくことは、自分が消えてしまうか、しぼんでしまいます。そうであっても、「昔の人の言い伝えを固く守って」いくんです。なぜそこまでして「昔の人の言い伝えを固く守って」いくのかというと、その言葉の意味である「握っているとか、つかんでいるとか、しっかりと保持して、しっかりと捕まえて、握ってすがりついている」と言う出来事があるからです。つまり、守っていますと言う彼らは、それを握りしめているんです。握りしめて、それにすがりついているんです。守ることにすがりついている、守ることが自分の全てみたいに受け取っているんです。逆に言えば彼らが自分の全て、という言い伝えを守るということを、守らないということになると、自分が自分でなくなってしまうということになります。だから、言い伝えにすがるんですね。

 

そういう意味で守っているということですから、手を念入りに洗うことも(4)にある、市場から帰った時には、身を清めてからでないと食事をしないとか、その他杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんあるというのは、きれいになるために、今のようにアルコール除菌をして、ウイルスが入らないようにするために、昔の人の教え、言い伝えを守っているのではなくて、昔の人から言われていることだから、言い伝えだから、守っているのです。

 

それは誰が守っているのかというと、昔の人が今の人に守らせようと言っているわけではありません。昔の人はとうになくなっています。昔に生きておられて、言い出しっぺのその方が、今、ここに現れて、やってくださいと言っているわけはないです。それはありません。言い出しっぺはもういません。でもなぜそれを守っているのかというと、自分が守っているから、守っているんです。誰が守っているかというのは、ほかならぬ自分自身です。守るか、守らないかは、自分の問題です。周りが守っているということはあっても、最終的には、自分がどうするか?です。

 

その姿にイエスさまは、「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。さらに「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と言われるのは、彼らが大切にしているのは、昔の人の言い伝えではなくて、昔の人の誰かが言ったことであっても、それがもう自分のための言い伝えになっているんです。しかも自分の言い伝えを大事にしているようであっても、実は惰性でやっているだけだと、イエスさまは、おっしゃられるんです。惰性ということは、惰性ですから、意味や、目的を感じていないということです。守っていることは、自らでやろうとして守っているのではなくて、惰性なんです。つまり、言い伝えを固く守っていると言いながら、惰性でやっているだけです。

 

惰性でする時と言うのは、心がこもらなくなりますよね。心がこもっていない状態でもあります。心がそこにない、こもっていないということによって、自分の都合の良いようにいくらでもできてしまうんです。

 

例えば、お掃除にしても、料理にしても、惰性でしていたら、適当になっていきますね。ちょっと汚いかな?と思っても、心ここにあらずですから、まあいいか~になっていきます。それを自分で決めてそうしていくのですが、昔の人の言い伝えを守ることは、そもそも人が言ったことに乗っかるということです。自分からというものではない、自分が言ったわけじゃないのに、誰かがどこかで言ったことを、自分がさせられているということでもありますから、それが惰性になると、心がここにあらずになると、自分の好き勝手、自分の都合の良いように変えてしまい、変わってしまうのではないでしょうか?

 

だから「あなたに差し上げるものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、と言うことに繋がるのです。コルバンというのは、神さまにささげるもの、神さまへの贈り物と言う意味です。神さまへのささげもの、贈り物というのは、神さまに最高のものを贈る贈り物です。心からの贈り物と言ってもいいでしょう。でも心からと言っても、本当に心からの贈り物なのか、ささげものなのかと問われたら、そもそも心というのは、ころころ変わるから心です。ころころかわるので、本当に心から贈り物なのかというと、心と言っていることと違ったり、言っている言葉が、たとい心からと言いながら、実際には、心からのものでなかったりすることがあるのではないでしょうか?

 

それが結果としてイエスさまがおっしゃられる「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」となるんです。神さまの言葉を破っているし、神さまが与えた言葉に、まあいいか~まあまあが入っていくんです。その結果、神さまが与えた言葉から離れていくのです。それも1つや2つじゃない、たくさん行っているという指摘があるんです。

 

どうしてここまでイエスさまははっきりとおっしゃられるのでしょうか?私たちが、神さまの言葉を無にしていることが、山のようになるということを、重箱の隅をつつくように、ほらあれもある、これもあると、事細かくあれこれと指摘するためにでしょうか?もちろん、指摘はされています。でも指摘されても、ほら、ここも、ほら、あそこも、と言われても、それでもなお、聞こうとしないところがあるし、言われても、右から左に抜けていくものでもあります。指摘されても、言われてもなお、右から左になってしまうんです。それでも、イエスさまは、あなたがたは神の言葉を無にしているとおっしゃられるのには、その無にしている、神さまの言葉があっても、神さまの言葉を無にしてしまうことがどんなにあっても、心の中で、ころころと都合の良いように変えてしまうことがあっても、神さまの言葉は真実で、変わることなく、永遠に、とこしえに続くのです。人が変えようとしても、とこしえにずっと、続くのです。そして本当だという真実を、無にしてしまうこと数多しの私たちに、神さまは、神さまの言葉は本当だよということを与えてくださるんです。

 

クリスマスの季節になると思い起こされることがあります。それはある年のクリスマスキャンドルサービスでのことでした。その日の夜は、関西でも大変寒くて、小雪交じりのクリスマスキャンドルサービスになりました。その日は、月曜日の夜で、前日の日曜日にもクリスマス礼拝を守ったばかりでした。その翌日のこと、しかも平日、そして小雪交じりの寒い夜となりましたから、前日礼拝堂に並べた椅子の数では、多く並べすぎているのではないかと思いまして、5脚中にかたづけました。関西では、片づけるということを、「なおす」と言いますから、「いすをなおしておこう~」ということになり、5脚を中に片づけました。そうしてキャンドルサービスを迎えましたら、前日にもまして、次から次へと玄関から人が入って来られるんです。あっという間に一杯になりました。椅子が足らなくなり、片づけたいすをもう一度取り出して、並べて、そこにも来られた方が座りました。その数は、片づけた椅子の数5脚でした。そして無事に終わり、今日もたくさん来られて良かったね~とお互いに言葉を交わし合いました。周りは良かった、良かったでしたが、私の心は、神さまに見透かされたような気持ちでした。「神さま~すみません!片づけてはいけなかったんですね~寒いからとか、前の日にもクリスマスを祝ったからとか、自分でいろいろな自分の理由を付け加えてしまって、神さまを信じていませんでした~」という思いでした。神さまを信じていくという時、それは人が来られたら、椅子を出すということではなくて、神さまはこれだけの方を、与えて下さると信じて、信じたその方々の座る椅子を用意しておくことだ~ということを教えられたような気がしました。それからは、椅子をしまい込むのではなくて、ありったけの椅子を並べて、どれだけこられても対応できるように心をそこに向けるようにと導かれています。ですから、そういう意味で、今年のクリスマスは新会堂初めてのクリスマスですから、並べすぎじゃないかと思うくらいに、椅子を並べておけばいいですね。神さまはこれだけの方を送ってくださると、信じて、信じた椅子の数に見合う方々をちゃんと与えてくださいますから、それをもっともっと信じていくことではないでしょうか?

 

神さまを信じるというのは、具体的です。神さまの言葉を守り信じて、従うことは具体的です。その時の、私たちの心を、イエスさまは見て、こころがころころと動くことも知っておられる上で、それでもなお、変わることのない神さまの真実、神さまの言葉は真実だということを、私たちに与えてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(12月5日)