2021年10月17日礼拝 説教要旨
迎えに出なさい(マタイ25:1~13)
松田聖一牧師

人間は寝ないと生きてはいけません。また寝てしまうものです。その寝るとい
うことが、イエスさまの譬えの中にも出てきます。
それは、ともし火はもっていたが、油の用意をしていなかった5人のおとめた
ちと、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた5人のおとめた
ち、ぞれぞれ、愚かなおとめたち、賢いおとめたちとありますが、その両方、1
0人共、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。その理由は、「花婿
の来るのが遅れたので」ということですから、何かの事情で花婿を出迎えるおと
めたちのところへの、花婿の到着が、予定時間から、遅れてしまったということ
です。どれくらい遅れたのかは分かりませんが、愚かなおとめも、賢いおとめも
同じように、眠り込んでしまったのです。
花婿が遅れた~その理由で、眠り込んだということになると、おとめとしての
仕事、役割をしていないということになります。というのは、おとめたちのする
ことというのは、花婿が来た時に出迎えることと、花婿が来るまでは、花嫁にも
付き添うことであるからです。

アレキサンダー・フィンドレという学者が、ユダヤ・パレスチナでの経験を次
のように語りました。
「わたしたちがガリラヤの町の門に近づいたときに、10人のおとめが華や
かに着飾って、何かの楽器を奏でながら、わたしたちが乗っている車の前を、踊
りながら歩いていくのを見た。あのおとめは何をしているのかと尋ねると、案内
人は、あの女たちは花婿が来るまで、花嫁に付き添うのだと言った。そこでわた
しは、何とかして結婚式が見られないものかと尋ねると、案内人は首を振って、
「それが今夜なのか、明日の夜なのか、それとも2週間後なのか、その時間は誰
にも分からないのです」と答えた。

すごい時間感覚です。時間に追われるのではなくて、その時が来れば、その時、
そうなるという感覚です。つまり、その時間に追いかけられるのではなくて、与
えられた時がくれば、その通りになるという、時間に身を任せている感覚です。

おとめたちの役割というのは、そういう時の流れの中にあります。しかしそれに
しても大変です。花婿を迎える花嫁に付き添うことはもちろんですが、その花嫁
を迎えに来る花婿がいつ来るかわからないということは大変です。それを待ち
続けることと、いつ迎えに来ても、対応できるようにしておく必要があります。
すぐに花婿が来てくれたら、おとめたちの仕事、役割は終わりますが、来るのが
遅れてしまうと、花婿が来る時ではないということではありますが、しかし迎え
に来るまでは、花嫁に付き添いつづけないといけないですし、花婿が来た時に出
迎えないといけませんから、その花嫁もちゃんとしておかないといけないとい
うことになります。というのは、この時花嫁は、普段の格好をしているわけでは
ありません。ウェディングドレスではなくても、それなりの衣装を整えて、結婚
式、婚宴、披露宴に臨むわけですし、沢山のお客さんを迎えるわけです。それな
りの準備をずっとしてきたと思います。当時の結婚式は、婚宴、披露宴を家です
ることになっていましたし、それも、新しい家庭の家に、お客さんを1週間迎え
るということですから、1週間家を開放します。その間、花婿と花嫁は特別待遇
を受けながら、一週間祝宴が続きますから、準備する側は大変です。1週間、誰
が来られてもいいように食べ物から何から何まで準備をしておかないといけま
せん。

結婚式は、喜びです。しかし同時に大変です。そういう結婚式と祝宴、披露宴
が控えている中で、花婿の到着が遅れ、おとめたちは10人共皆眠り込んでいた
ということは、おとめたちもいろいろあって、疲れ切ってしまっていたのではな
いでしょうか?いつ花婿が来るか分からない中で、ずっと花嫁の付き添いをす
る、衣装を整え、今でしたら、髪のセットやら、メイクやら、花嫁のためにはい
ろいろがある、その間花嫁はじっとしていないといけませんから、それが長く続
けば続くほど、花嫁も大変、おとめたちも大変です。

ですから「眠気がさして眠り込んでしまった」というのも、怠けているわけで
はなくて、結婚式の準備と、いつ来るか分からない中でのことが、続いていたた
めに、眠くてどうしようもないという状態ではなかったでしょうか?
私たちにも、眠くて眠くてどうすることもできない、ことがあります。いいと
か悪いではなくて、眠いものは眠いんです。眠いときには、眠くないなんてなり
ません。眠いから、こっくりこっくり、舟をこいでいくのです。そういう眠り込
んでしまった中で(6)真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
彼女たちは、おとめとして与えられている役割を果たすために、寝てしまって
いたけれども、「花婿だ。迎えに出なさい」との呼びかけで起きて、それぞれの
ともし火を整えていくのですが、(8)愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに
言った。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」賢いお
とめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、
自分の分を買ってきなさい」

この愚かなおとめたちと、賢いおとめたちの共通点は、皆、眠り込んでいたと
いうことです。もちろん、花婿を迎える準備はしていたでしょう。花嫁のお世話
もしていたでしょう。でも「迎えに出なさい」と言われた時には、皆眠り込んで
いて、ちゃんと仕事はできていませんでした。眠り込んでしまうほどに、大変な
中にあったということでもありますし、眠り込んでしまうほどに、余裕もなかっ
たと言えるでしょう。そういう余裕がないときには、人間はどうなるかというと、
とんでもないことを言い、とんでもない行動に出たりするのではないでしょう
か?

神戸の震災の後、ライフラインが全て止まり、水もガスも電気もない状態が続
いた時、それでもコープさん、生協のスーパーは開店しようとしていました。よ
うやく開店するというその日には、長蛇の列ができていました。半端じゃないく
らいに、何百メートルも行列が続いて、開店を待っていました。朝早くから待っ
ていました。お風呂屋さんもそうでした。ガスが出ない中で、地元のお風呂屋さ
んが再開するというときには、同じように長蛇の列でした。そういう長い行列が
できている中で、ちょっと隙間ができる時がありました。そこに、隙間の後にも、
ずっと行列があるのに、それとは、気づかずに、ちょっとの隙間に、並ぼうとし
た人がいました。そうしたら、並んで待っている方々から、すごい言葉が飛んで
くるんです。後ろに回れとか、何で割り込むんだ!割り込むつもりがなくても、
ついうっかり隙間に並んだだけで、とんでもない罵声が飛んでくることでした。
やむを得ないと言えばその通りです。お互いにその日を精一杯過ごしておられ
ましたから、もう余裕がない状態でした。きちんと並んでいましたが、殺気立っ
ていたと思います。人間の一つの真実がそこにはありました。余裕がないとき、
切羽詰まった時には、思わぬ言葉や行動が出てくるものだということです。

それぞれのおとめたちは、花婿を迎えるということ、花嫁のことでも、そして
ともし火のことでも、油のことでも、精一杯だったと思います。花婿を迎えに出
ないと、その後、一緒に婚宴の場には行けなくなります。しかも真夜中です。と
もし火といっても、暗い中での準備であり、出迎えでもあります。それぞれに寝
起きで、慌てていたかもしれませんが、精一杯です。余裕がない中にあります。
その時に、「油をわけてください。わたしたちのともし火は消えそうです」と、
愚かなおとめたちが、賢いおとめたちに言うのですが、油を分けて下さると言わ
れても、ともし火は消えそうですと言われても、そのおとめたちは、油の準備を
怠っていたことは確かです。賢いおとめたちのように、油を用意して、壺に入れ
ていませんでした。だから愚かなおとめたちのしたことには、まずいところがあ
った。いいとは言えないです。ちゃんと準備できていなかったのですから。だか
ら「わけてあげるほどはありません。それより店に行って、自分の分を買ってき
なさい」と言われるのも、当然です。賢いおとめたちは、そのために準備してき
たのです。

でも賢いおとめたちのともし火も、消えないように準備していた油も、花婿を
出迎えるためには必要ですが、花婿と一緒に婚宴の席に入って、そこで一緒にお
祝いするという時を迎えたら、もう油が足りないとか、油の用意をしないといけ
ないといったことから、解放されていくのではないでしょうか?そして花婿も、
油を切らさないようにしてくださいねとか、賢いおとめたちが、愚かなおとめた
ちに言ったような「店に行って、自分の分を買ってきなさい」ということを、求
めているのかというと、そういう言葉はありません。ただ両方のおとめたちに与
えられている呼びかけは、「花婿だ。迎えに出なさい」というこの呼びかけだけ
です。しかしおとめたちは、花婿を、迎える準備のために、余裕がない状態にあ
り、油を分けてくださいとか、分けるほどはないとか、店に行って、自分の分を
買ってきなさいとか、真夜中にお店があいているかどうかわからないのに、そん
なことを言っていくのです。

確かにともし火が消えそうです。それはそうです。油がないのだから。でも分
けてあげるほどはありません。という賢い、分別のあるおとめたちも、それは当
然のこととして言葉を返していたと思いますが、そもそも、油がなくなったら婚
宴に入れてもらえないのかというと、油のあるなしではなくて、花婿と一緒にい
くこと、花婿を迎えて、花婿と共に婚宴に向かって歩むことではないでしょう
か?花婿と一緒に行けば、一緒にいれば、何とかなっていくんです。
でも花婿と一緒にいなかったから、(11)ほかのおとめたちも来て、「御主人
様、御主人様、開けてください」と言っても、わたしはお前たちを知らないとの
答えが返ってくるんです。

油のあるなしではなく、油を買いに行ったかどうかでもない。花婿を出迎えて、
一緒に行くこと、一緒に婚宴の席に入っていくことを、花婿も、そして「迎えに
出なさい」と呼びかけたその声の主も、それだけを願っているのではないでしょうか?
出迎えること、共に歩むことを、望んでおられるのです。その花婿とは、誰か?
イエスさまです。

共にいると約束されたイエスさまは、その通り、一緒に歩みたいのです。どん
なにお互いに人同士には違いがあっても、お互いに切羽詰まって言ってしまっ
たこと、言われたこと、辛いところを通らされたことがあっても、それでもイエ
スさまは、そんなことよりも、ともかく一緒に歩みたい、一緒に婚宴の席に入ろ
うと、連れて行こうとしておられるのです。だから「迎えに出なさい」なのです。

イエスさまと一緒に歩むこと、それだけがあれば十分です。それだけを受け取っ
ていくこと、イエスさまを出迎えること、その1つのことを願っておられます。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、
主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩篇27編4節)

説教要旨(10月17日)