2021年10月10日礼拝 説教要旨
神のものは神に返しなさい(マタイ22:15~22)
松田聖一牧師

本当のことを言われると、いろんな反応があります。怒り出す方もあります。
それはその人にとって、本当のことですから、それが、いやと言いますか、受け
入れられないから、あっちに行ってしまったり、怒り出したり、場合によっては、
本当のことを言う人を何とかしたいと思うようにまでなります。でも言われて
いることは本当のことです。しかしそれが自分にとって都合が悪いと、本当を言
う人に対して、亡き者にしようともするのです。
そのように、イエスさまは本当のことをおっしゃいました。その人にとって都
合が悪いことも、嫌がるようなことも、イエスさまは、本当を、言いました。相
手がファリサイ派の人々であろうが、イエスさまにとっては関係ありません。し
かし言われた側のファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスの言葉じりを
とらえて、罠にかけようか」と、イエスさまの言葉じりをとらえて、イエスさま
を罠にかけて捕まえよう、やがてイエスさまを亡き者にしようとするんです。そ
れを彼らは「相談した」とありますが、どのように罠にかけようかという相談止
まりではなくて、彼らの相談というのは、イエスさまを罠にかけて捕まえるとい
うことを、相談の上、協議の上、決議しているということです。どのようにして、
と相談しながら、彼らの中では、捕まえるということを決議しています。
それは自分たちのプライドが傷つけられたと彼らは思っているからです。自
分たちの立場が危うくなると感じているからです。ファリサイ派という立場は
しっかりある方々なのに、まるでガラスのハートのようです。そして、本当のこ
とを言われれば言われるほど、自分たちが責められているかのように、思ってい
るのかもしれません。けれどもイエスさまは、本当のことは言いますが、その人
自身を否定しようとはしていません。その人自身を傷つけようとし、全部だめな
んておっしゃっていません。しかし、受ける側にとっては、本当のことを言われ
ると、自分たちが責められている、自分たちが傷つけられていると受け止めてし
まいます。だからそういうことを言っている、イエスさまを何とかしたいのです。
そうはいっても、一人ではしません。同じ仲間で集まって、自分たちだけで、群
れて「相談した」一人で立ち向かえない何かがありますね。ガラスのハートです
ね。さらには、イエスさまの言葉尻をとらえて、罠にかけようとしている彼らが、
直接イエスさまのところに行って、イエスさまの言葉尻をとらえて、罠にかけよ
うと、直接イエスさまに立ち向かうのではなくて、(16)その弟子たちをヘロ
デ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。

ファリサイ派の弟子たちをイエスさまのところにやって、自分たちがしよう
としていることを、自分たちではなく、弟子たちにやらせていきます。そればか
りか、自分たちの弟子たちと、ヘロデ派とを組ませていくのです。このヘロデ派
という方々とファリサイ派との関係はどうか?というと、思想的には対立しま
す。それはヘロデ派のグループが、ヘロデ王というこの地を治めていた王を支持
するグループであるからです。ファリサイ派の人々にとっては、ヘロデ王はロー
マの手先の王ですから、ヘロデ王を支持はできません。ところがここではファリ
サイ派の弟子たちとヘロデ派と一緒になってイエスさまのところに遣わしてい
くのは、ヘロデ派が、軍隊でもあるからです。ヘロデを支持するグループとして、
ヘロデの親衛隊、ヘロデ王を守る軍隊の機能を持っていたと言えるからです。
ということは、イエスさまを亡き者にしたいという彼らの願いは、軍隊まで巻
き込んでいくくらいに、すごいということですし、それほどにイエスさまは彼ら
にとっては、脅威となっているからです。イエスさまの存在が彼らにとっては、
自分たちを脅かす存在であるから、怖いのです。すごいですよね。軍隊まで使っ
ていくほどにイエスさまが怖いのです。でもイエスさまは怖いことを彼らにし
ているわけではありません。恐ろしい思いをさせたわけではないです。けれども、
彼らにとっては、本当のことを言われ、本当のことを明らかにしようとするから、
それが怖いのです。だから普段は仲が悪い、一緒にはなれないのに、軍隊として
巻き込んで、一緒になって、でも、自分たちは前面には出ないようにしていく、
そして弟子たちをして「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づ
いて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を
分け隔てなさらないからです。」と言わせるのは、自分たちが思想的にも合わな
いヘロデ派と一緒になっている事実を踏まえて、あなたが真実な方で、真理に基
づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを私たちは、知ってい
ます。人々を分け隔てなさらないからです。とイエスさまに、自分たちは一緒で
す。自分たちはお互いの違いを受け入れて、はばからないでいますし、お互いの
顔も含めて分け隔てをしていませんという姿で、イエスさまのところに来て、イ
エスさまについて、私たちは「だれをもはばからない方であること」「人々を分
け隔てなさらない方であること」を知っていますと、あたかもイエスさまを持ち
上げているような言葉のようであるかもしれませんが、実際には、イエスさまが
はばからない方であるとか、分け隔てなさらない方であるということを、彼らの
物差しで量って、私たちは知っていますと言っていますので、イエスさまの評価
を、自分たちの物差しでしているということです。

しかし実際に彼らが一緒になっているのは、イエスさまを同じ敵としている
から、一緒になれている(ように見える)だけです。一緒になっていますが、利
害関係が一致しているところでの一緒であり、でもそれは一致しているように
見えるだけです。
会社同士が一緒になったり、合併したりするときには、それぞれの会社の社長
さんが会見場に現れますね。そしてこの度会社同士を合併しましたということ
を公にします。その時に、社長さん同士がニコニコしながら、握手を交わして、
そしてそのニコニコしている姿を、報道各社が写真に撮っていきます。そのニコ
ニコしている社長さん同士が、お互いに、仲がいいからニコニコしているかとい
うと、そういう面もあるかもしれませんが、お互いの会社の利害関係が一致した
から、具体的には、お互いに儲かる方法、お互いに生き残れる方法が、一緒にな
ることだという点で一致しているから、ニコニコしているわけです。本当に仲の
良い友達同士ということではないと言えるでしょう。そういうことってありま
すね。共通の何かを前にして、一緒になる、でもその時のお互いは一緒になって
いるように見えてもそれは見えているだけですし、そう見せているだけなのか
もしれません。
イエスさまはそれを見ておられるんです。そして(17)ところでどうお思い
でしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょ
うか。適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽
善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
彼らの問いは、皇帝に税金を納めることと、それが神さまの律法に適っている
かどうかという、2つのことを一緒にしたら、イエスさまはどう答えるかという
問いです。そしてその答えたその言葉尻をとらえて、イエスさまを捕まえていく
という問いです。そもそも、この2つの事を一緒にするという意味は、彼ら自身
の姿でもあります。つまりイエスさまというお方を彼らの共通と敵としたとき、
それで彼らは普段は一緒にはなれないのに、一緒になっている、ように見える、
でも一緒にはなっていない。一緒にはなれない事実がそこにはあります。でも彼
らは自分たちがそういう姿であるにもかかわらず、自分たちは一緒になってい
るんだと思い込んでいるところから、この皇帝に税金を納めることと、神さまの
律法にかなっているかという問いも、彼らが一緒になれていると、思い込んでい
るところからの問いに、イエスさまはそれが彼らの悪意であることを気づいて
いるんです。つまり、皇帝に税金を納めることが正しいのか?神さまの律法にそ
れが適っているか?という2つの問いかけというよりも、その問いかけをする

彼ら自身が、悪意で2つなのに、1つになっているかのようにイエスさまの前に
いる、しかもそれはイエスさまを共通の敵として、イエスさまを捕まえるという
イエスさまへの悪意という、共通点で一緒になっているだけの姿に、イエスさま
は気づいているのです。
そもそも、本来2つのことを一緒にできるか?2つのことを1つにまとめら
れるかというと、2つは2つです。2つは1つにはならない。1つは1つです。
でもそれを一色単にとらえて受け止めてしまうと、矛盾やひずみが出てきます。
そのひずみの中には、悪意があるんです。悪意があるからこそ、矛盾もありなが
らも1つになっているかのように見えるのです
イエスさまはそれを分けようとしておられます。本来は2つである、それなの
にそれを1つにしようとしていること、それも悪意で1つになろうとしている
ことを、2つに分けていく、もとに戻そうとされるのです。
それで税金に納めるお金を見せなさいとおっしゃられて、彼らが「デナリオン
銀貨を持って来ると、イエスは『これはだれの肖像と銘か』と言われた。彼らは
『皇帝のものです』と言った。するとイエスは言われた。『では、皇帝のものは
皇帝に、神のものは神に返しなさい。』この意味は、そもそも皇帝におさめる税
金はお金ですることであり、そのお金、デナリオン銀貨は、皇帝の肖像があるか
ら、あるいはローマ帝国が、これはこの帝国の中で、価値あるお金として使えま
すよということを、皇帝が認め、法律で定められているから、それが価値あるお
金として流通しているわけです。つまりお金という形、姿で税金を納める時、そ
れは皇帝がこれはお金ですよということを認めたからこその、そのお金で、納め
ることができるので、それと、税金を皇帝におさめることが神さまの律法に適っ
ているかどうかということの問いは、一緒にはできないし、一緒にはならないと
いうことを、イエスさまは、示しておられます。そういう意味で、「皇帝のもの
は皇帝に、神のものは神に返しなさい」2つのことを1つにまとめることではな
くて、2つのことは2つに分けて受け取ることだということです。1つにまとめ
ても、それは1つにまとまっているように見えるだけ。一緒になっているように
見えるだけ。実はごちゃごちゃになっています。説明がつかない、ごちゃごちゃ
した一緒のような、得体のしれないものになり、何がどうなのか、分からなくな
ります。迷いの中に入っていきます。そういう意味でイエスさまは、分けていか
れるんです。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。
そしてイエスさまは、神さまのものは、神さまのものだとおっしゃられるのは、

神さまのものを、私たちは、神さまのものでありながら、いっとき、預かってい
るだけ。預からせていただいているだけだということを与えておられるのでは
ないでしょうか?
なぜならば、すべてのものは神さまのものだからです。その神さまのものを、
神さまが、私たちに必要なものとして貸し与えて下さっています。貸し与えて下
さっているので、いずれかの時には、返さないといけないものです。返さないと
いけないというよりも、返していくものです。どんなに自分の手元に置いておき
たいといっても、私の中では一心同体のように受け止めていることであっても、
1つになって、一緒だ、いつまでも、永遠に一緒だと思っているものでも、それ
は1つではない、一緒だと思っているものも、神さまに返していくものです。そ
うはいっても、なかなかこれは私のものだといつまでも一緒だと、思いますし、
思い続けたいところですが、やがては、これは私のもの、これは一心同体と思っ
ている私も含めて、神さまに返していきます。
ある教会の方が召されて、お葬式をすることになりました。その方は、生前か
ら僕が死んだら棺桶にこれを入れてほしいと、家庭集会でも折々におっしゃっ
ていました。それは何かというと、東京の「とらやの羊羹」でした。とらやの羊
羹が大好きで、お元気なころから、「とらやの羊羹」「とらやの羊羹」を入れてほ
しいとおっしゃっていました。急に召されたのですが、ご家族の方が、約束通り、
とらやの羊羹も入れていかれましたが、虎屋の羊羹のまま天国に持っていけた
かというと、持っていくことはもちろんできませんでした。でもイエスさまを信
じて、イエスさまがおられるところに、今は安らいでおられると信じています。
そして天国でも、イエスさまや先に召された方々と一緒に、こちらからは持って
いくことはできませんでしたが、最高のとらやの羊羹を召しあがっているので
はないかと思います。おいしかった!と天国から地上に降りて来て、説明をして
いただく機会はありませんが、きっとそうだと思います。
「わたしたちの国籍は天にある」という聖書の言葉があります。わたしたちも含
めて、わたしたちに与えられているものもすべて、神さまのものです。そして国
籍を天に持つものとして、イエスさまは、神のものは神に返しなさいとおっしゃ
られました。神さまに返していくとき、本当に国籍が天にあることが与えられて
いきます。そして国籍を天に持つ者が共に、イエスさまと一緒になって共にある
歩みが続いていきます。そのイエスさまをその場に残して立ち去ったとありま
す。イエスさまは、そこで置き去りにされました。置き去りにされたそのところ
に立たれたのです。

わたしたちの国籍は天にあるものだということを、その通りにするために、置
き去りにされたところは十字架です。その十字架の上には、イエスさまの罪状書
きがありました。その罪状書きが、「だれの肖像と銘か」とおっしゃられる「銘」
のもう一つの意味として、ある通り、イエスさまは十字架に置き去りにされ、罪
状書きと共にあります。それが神さまのものは神さまに返しなさいと言われる
イエスさまの私たちへの姿であり、2つにわけることができないでいる、いつま
でも自分のもとに一緒に置いておきたいと願う姿が、イエスさまを十字架の上
に置き去りにするのです。

説教要旨(10月10日)