2021年8月22日礼拝説教要旨

主のたとえ(マタイ13:24~43)

松田聖一牧師

私たちが毎日必ずしていること、必ずしなければならないことの一つに、寝るということがありますね。必ずどこかの時間で寝ます。夜が一般的ですが、夜以外にも昼寝をしたり、いろいろな時に寝ます。そのように寝ることで、疲れをいやし、体も心も頭も休ませることができます。そして寝ている時は、自分の意思を持って何かをしようとしてはいません。自分から何かをしようとして、自発的にしているという時ではないですね。ただ自然体で寝ている状態です。そして、その時は、神さまに一番近い関係の至福の時でもあります。しかしその一方では、寝ている時というのは、一番無防備な時です。だから寝ている時に敵に襲われやすいので、敵から身を守るために寝ている人を守る人たちを、寝ている人の周りにつけたこともありました。王様など、権力の座につく人たちはとりわけ、寝ている間に命が狙われないように、寝ているその王さまの周りを兵士たちが寝ずの番をして守るということが、なされていました。そういう意味では、寝るということは、私たちにとって本当に大切なことであると同時に、そのために必要なことも同時にあるということです。

 

そういう寝ている間のことが、イエスさまの譬えの中で、こう語られています。(25)「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」とある通り、敵が毒麦を蒔いたのは、眠っている間の出来事です。無防備になってしまっているその時に、自分からは自発的に何も活動できていない、その時に、敵が来て「麦の中に」蒔いて行ったのです。そして「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」とありますが、この毒麦が蒔かれた場所である麦の中に、について、詳しくこの言葉を見ると、小麦の中央、真ん中の、その真ん中へ蒔いて行ったということです。つまり、小麦の中にあちらこちらに、バラバラに毒麦を蒔いて行ったのではなくて、小麦の真ん中の真ん中にですから、分かりやすい場所ではないかと言えます。そしてその毒麦が現れたという言葉も、毒麦は光り輝き見えて、表れたとか、自分を見せたという意味ですから、毒麦が光り輝いて見えてくるもの、現れるものとして、人の目には映るのではないでしょうか?その姿は毒キノコのような、毒々しいものとしてであったのか、具体的には分かりませんが、どこにあるのか、見つけやすいかどうかと言えば、光り輝いて見えて、現れてくるものですから、見つけやすいものではないでしょうか?明らかに、あれだ!という感じで、人の目に留まるものではないでしょうか?

 

そんな毒麦は、抜いてしまいたくなるのではないでしょうか?それもどこにあるか、人目に映るものであれば、すぐにでも抜き集めたくなるのではないでしょうか?そしてその毒麦が、「どこから」誰から入ったのか?どういうわけで、どうして入ったのか、ということと、誰からなのかということまで突き止めたくなるものではないでしょうか?

 

なぜならば、それは小麦とは違う、毒麦だからです。あってほしくないものだからです。毒ですから、抜き集めたいものです。だから僕たちが「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うのも当然のことです。自分たちでどうにかしないと、だれが、どのようにしたのか、どうやってしたのかと自分たちで、突き止めないといけない、自分たちでそれをしないと、ということになります。

 

ところが、主人は、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。」と答えていかれるんです。毒麦をそのままにしておきなさいです。でも見るからに毒麦と分かるものです。どこにあるかも分かります。それを自分たちで抜き集めたい、取り除きたい、悪い毒ですから、毒をあっちへやりたい!そこにあるのに、しようとすればできるのに、主人は、「いや・・・刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」とおっしゃられるのなぜか?

 

毒麦がいいとは言っていません。毒麦は毒麦です。毒は毒です。小麦とは区別されます。まぜていいとは言っていません。一緒に食べていいとも言っていません。ただ刈り入れまで両方育つままにしておきなさいということは、刈り入れの時までは手をかけるな、自分たちでしようとするな、ということではないでしょうか?もちろん、毒ですから、一日も早く取り除きたいという、僕たちの、はやる気持ちは主人も分かっていると思います。でも、その時、僕たちが自分でしようと思えばできることかもしれないけれども、それをするなとおっしゃってくださるのは、毒麦を集め焼くために束にすることも、僕たちにさせるのではなくて、刈り取る者にさせようとしているからです。つまり、主人は毒麦の処理、束にして焼くことは、あなたがたのすることじゃない、主人が刈り取る者にさせるという形で、主人がする、私がすることだと、決めておられるからです。

 

そういう意味から言えば、私たちにとっても、毒麦と同じではなくても、自分たちにとって、どんなに取り除きたい、毒麦であっても、それは私たちにさせない、私たちがするのではなくて、主人がするということを、イエスさまは与えておられるのではないでしょうか?そのために、私たちが手も足も出ない、出さないように、出せないように、あるいは、しようとすればできるかもしれないけれども、あなたがたがすることじゃないと決めておられることは、イエスさまは、私たちにはさせないんです。どんなにしたくても、させてはくれないんです。

 

私たちを守るためなのかもしれません。でもその時には分からないことが多いです。むしろ、しようとすればできるのに、どうしてさせてくれないのか、どうしてできるのに、しようとしないのか!という逆の反発があるかもしれません。でもどんなにしようとすれば、できることであっても、それをさせないでいるということにも、意味と目的があります。それは私たちがそれをしなくてもすむように、それによって、私たちにはその時には分からなくても、守られるものがあるから、主人は、それをするなとおっしゃっておられるのです。

 

そういう私たちの手を離れると言いますか、手も足も出せないということが、からし種の成長です。蒔いた人の知らないところで、どんどん成長します。もちろん種をまくということはします。しかしその成長は種をまいた人の手の中にではなくて、畑という、蒔いた人の手から離れたところで成長していきます。パン種もそうです。もちろんいろいろとすることはします。パン種を取って3サトンの粉に混ぜることはします。でもそこからパン種が成長するのは、混ぜた人の手を離れて、手から離れたところで、初めて成長していくものです。

 

そして毒麦のたとえの説明の中でも、イエスさまが、弟子たちに、毒麦が不法を行う者ということで説明くださっていますが、毒麦にしろ、不法を行う者にせよ、どうにかしようとしても、しようとすればできることでも、それは人の子であるイエスさまがされることです。人の子というのは、神さまであるイエスさまを指し示します。私たちが、どんなに取り除きたい、不法、悪、毒でも、それは、取り除きたいとどんなにか強く願っている、その当事者にさせるのではなくて、イエスさまが最終的に取り除かれるのです。

 

その時がいつかは分かりません。けれどもイエスさまははっきりと「天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と、イエスさまがされるのです。

 

私たちがしなくても、イエスさまがしてくださるのです。なぜならばすべてが神さまの手の中にあります。人が集めなくても、神さまが集め、焼いて、灰にされるのです。

 

でも灰にされるというのは、意味が全くなくなるのではなくて、その灰も、土に混ぜて肥料になっていきます。肥料として再び、別のかたちで、しかも毒ではなくて、悪ではなくて、不法ではなくて、良いものに新しくされて用いられていくのではないでしょうか?イエスさまは、ただ単に焼き尽くしてゼロにされるのではなくて、焼けて灰になることで、あんなに悪いこと、毒が、良いことのために新しく造り変えられて用いてもくださるのです。

 

私たちにとって、毒麦と言えることに対して、毒麦だから抜かないと、焼き尽くさないと、と言う思いに駆られることもあるかもしれません。自分たちでしないと、早くしないと、と焦ってしまうこともあるでしょう。しかしそれらのことを、神さまがすると決めておられる意味は、それはあなたがたがすることじゃない、わたしがすると、神さまが私たちに代わってしてくださるということです。神さまが私たちに代わって、毒麦を刈り取り、火で焼かれ、完全に灰にさせるのです。そして良いことのために、毒麦でさえも、用いてくださいます。神さまは、その場面を目の当たりにさせてくださいます。そして神さまを畏れ敬うという、神さまを愛するということに改めて立ち帰らされていくのです。

説教要旨(8月22日)