2021年8月15日礼拝説教要旨

家(マタイ12:43~50)

松田聖一牧師

 

今日の聖書の御言葉には、汚れた霊が登場してきます。この汚れた霊とは悪霊とも、不浄な霊とも訳せますが、神さま以外のものを、神さまとしようとするということと関係があります。というのは、汚れたとあるこの言葉は、神さま以外のものを神さまとして礼拝するということと絡めて、使われています。それが具体的に、何を指すのか?神さま以外のものを神さまとしてしまうということが、どういうものなのかというと、私たちの中で、まずは見えない心の中で、神さま以外のものを、どんなものでも、神さま以上に大切にしようとしてしまうことです。逆に言えば、どんなものでも、神さまに仕立ててしまうものが、私たちの中にあるということが言えますから、それらのことが、汚れた霊、悪霊と繋がっていくということです。

 

ある料理が大好きな方がいらっしゃって、パスタでもなんでも、材料から手作りをされる方でした。本当のおいしいものができたと思います。時間をかけて、丁寧に料理を手作りするのが、本当に好きでした。ある時に、その料理の話になったとき、料理を好きだからといって、どんどんやってしまいかけたときがあったようですが、ふと「いかんいかん!料理が僕の神さまになってしまう!」とおっしゃいました。そのように料理は素晴らしいことです。よい事です、必要なことです。でも、そういう良いものであっても、神さま以上に大切にしようとしたら、それは、僕の神さまになってしまう!と言わしめるものが、そこに出来上がってしまうのです。

 

つまり、汚れた霊というのは、神さまではないもの、神さま以外のものでありながら、それを、神さま以上に大切にしようとすることが、汚れた霊そのものであり、その霊のつけ込む隙を与えてしまうのではないでしょうか?そしてその汚れた霊は、神さまから私たちを引き離そうとします。その霊が、今日の箇所では人から出ていくのですから、その人にとっては単純にいいことが起こったのです。神さまから引き離そうとする、悪いものが出ていきましたから、その人にとっては、良いことが与えられたのです。神さまから引き離そうとするものがいなくなりましたから、いよいよイエスさまを神さまとして受け入れ、神さまだけを礼拝できる環境が整いました。

 

そういう中で、この汚れた霊は砂漠から「出てきたわが家に戻ろう」と言って、戻ってみると「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」ということです。つまりこの家は奇麗に掃除され、整えられて、美しくされた、その家に戻ってみたということです。では汚れた霊が出て行った、その人はどこにいったのでしょうか?空き家になっていたということは、もはやその家にはいなくて、どこかに行ってしまったのでしょうか?でも掃除はしてあったし、きれいに、美しく整えられていました。でもその家には、その人も含めて誰もいなかったのです。ということは、その家は、家になっているのでしょうか?

 

ビフォーアフターという番組がありますね。古い家を、大工さん、デザイナーの方々があれこれ考えて、新しくリノベ―ジョンしていきます。その様子が古いところを壊すことから、紹介されて、柱やら、土台、屋根など、いろいろ新しくしていきます。その途中で、もともとその家にあったもの、使い古したものが新しく、生かされてリフォームされた家に取りつけられていきます。例えば、そのお家のご家族の子どもたちの、身長がこれだけ大きくなったことなどが記録されている柱の傷をそのまま生かしたりしていました。他にもいろいろもともとあったものが再利用されたりして、新しくリフォームされていきます。そしてリフォーム前とリフォーム後とを比べて、見違えるように、きれいになった家としてクローズアップされていきます。その家に、その家の家族が再びやって来られて、その家を見るなり感動されますね。さらにその家に入るとまた感動して、その家であれこれする様子が出てきます。そしてリフォームに携わった方が登場して、ありがとうございました~こんなに奇麗にしていただいて~という感動の場面を経て、新しくなったその家で、家族の方々があれこれと楽しそうにやっているその姿で番組が終わります。つまり家がリフォームされて奇麗になった、それだけで終わるのではなくて、その家の家族の方が、新しく、きれいになった家で、過ごすことで、その家の価値、素晴らしさが伝わっていきます。そのように、家は建物だけではなくて、そこに人がいてこそ、家になるのではないでしょうか?きれいになっていたら、それでいいのではなくて、そこに人がいて、人がそこで動いていくこと、人がそこで過ごしていくこと、過ごしていける家になって、初めて、その家は家となっていきます。

 

その反対に、人が住まなくなったらどうなるでしょうか?人が家に住まなくなると、家はだんだん荒れていきます。汚れていきます。人が使っていても、汚れますが、人がいなくなって、誰も何も使わない状態になっても、汚れて、痛んでいきます。ここでは、もちろん荒れないように、掃除をして、整えていたら、建物としての家は、しっかりとそこにあるでしょう。でもそれは建物としては、確かにあっても、そこに人がいなかったら、出入りがなかったら、その家は、家としての機能を果たしていないのではないでしょうか?誰も住まなくなった空き家の問題というのは、ただ単に家が荒れるとか、壊れていくということだけではなくて、そこに人がいないということ、人がいないのに、建物だけがあるということも、物騒になります。人気がないのに、家だけがあるというのは、何とも言えない雰囲気です。

 

汚れた霊は、そういう家に戻ってきたのです。空き家になっていた、掃除はされ、きれいになっていたけれども、その家には誰もいなかったのです。(45)「そこで出かけていき、自分よりも悪いほかの7つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」家が空き家になるということと、かつて汚れた霊がいたその人から、霊が出て行って良くなったのに、前よりも悪くなるということは、その人から汚れた霊が、せっかく出て行ったのに、その後、その人は誰も、私の家に迎えよう、誰も入れようとしなかったからではないでしょうか?

 

いろいろ理由はあったかもしれません。誰とも会いたくないとか、誰ともかかわりたくないとか、関わるのは二度とご免だとか、そう思わしめる何かがあったからかもしれません。でもその家に、誰も迎えいれようとしないように、私たちが誰も迎えいれず、受け入れようとしなかったら、結局は自分が自分でなくなってしまうことに繋がります。誰ともつながりを持たなくなったら、誰も私がここにいることも、私がここで何をしているかも、どれほど成長し、どんな出会いと経験をしたかも、誰も分からなくなってしまうからです。

 

そして家に、その家族として、イエスさまを迎え入れないでいたら、イエスさまを外に出してしまうことになります。どれほど建物があり、その人の中から汚れた霊が出て行っても、イエスさまを迎えいれようとしなかったら、イエスさまがその人のうちに住んで、イエスさまと共にその人が生きることができるのに、それを拒むことになります。この家のこの人はイエスさまを迎え入れようとすれば、すぐにできました。でも彼の中から、神さまが、イエスさまがいない、空き家状態になった、そこに、汚れた霊だけではなくて、7つの霊が一緒に連れてこられて、前よりももっと悪くなるということと同じことが、その人に起きてしまうのです。それ以前よりも、もっと悪くなってしまい、もっと汚れてしまうのです。そういう隙を、誰も迎えいれようとしないこと、イエスさまを迎え入れない空き家が、与えてしまうのではないでしょうか?

 

それはイエスさまの母と兄弟たちも、イエスさまを迎え入れようとしなかったわけではなくても、彼らも、イエスさまと話をしたいのに、イエスさまの外に

立っていることは、結局はイエスさまを迎え入れようとしなかったということです。イエスさまと話をしたければ、イエスさまの外にではなくて、イエスさまを迎えて、イエスさまと一緒にいたら、話せます。ところが、ある人が「母上と御兄弟がお話したいと外に立っておられます」と言う通り、イエスさまの家族は外に立っているのです。それでもイエスさまは、その外に立っている母と、兄弟たちについて、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と、弟子たちの方を指して言われたのは、外に立っている母や、兄弟たちは、わたしの母、わたしの兄弟だということを、自分の弟子たちに紹介します。そしてその母や、兄弟たちが、イエスさまの母、イエスさまの兄弟となるのは、イエスさまの外に立っているのではなくて、イエスさまを迎えて、イエスさまがおっしゃられることをしようとすること、完全にできるか、できたかというよりも、神さまの御心を行うものだということを、母や兄弟たちに伝えられた時となったのではないでしょうか?

 

イエスさまは、その人の家、その家の家族として、その家に住もうとしています。その家に住む方々に、神さまの素晴らしさを与え、神さまがどれほどに大切にしてくださっているかを、伝え与えようとしておられます。そのために空き家状態のままにするのではなく、その家に来て、その家に入って、共に住もうとしておられるのです。

 

一つの絵があります。それはイエスさまが扉の外に立って、戸を叩いている絵です。イエスさまの側に、把手はありません。把手があるのは部屋の中だけです。イエスさまは、その家の人が、扉を開けてくれるまでずっと、諦めないで、たたき続けておられます。そして開けてくれたら、その家に入ろうとしておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3章20)」

 

イエスさまは、扉を開けてくれることを信じて、ずっと戸を叩いておられます。その扉の外に、イエスさまがおられます。こちらから扉を開けば、すぐにイエスさまは来てくださいます。イエスさまがそこにおられますので、扉を開けて、イエスさまを迎え入れてください。

説教要旨(8月15日)