2021年8月8日 礼拝説教要旨

遣わすということ(マタイ10:16~25)

松田聖一牧師

 

「えらいこっちゃ」という経験は私たちも経験するところです。「えらいこっちゃ」ということは、自分の想定を超え、想定外のことです。その多くは、自分が希望していないこと、望んでいないことが起きた時に、そう受け止めることですね。ですから具体的には、その時は大変です。大変に思います。これ以上大変なことはないと言えるほどのことかもしれません。

 

イエスさまが弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃられたとき、それは彼らにとって、いいと感じられるようなところでは決してありません。というのは、イエスさまが「あなたがたを遣わす」とおっしゃられたその場所は、「狼の群れ」であり、その狼の群れに、具体的には「狼の群れの真ん中に」「中央に」、羊を送り込むようなものだということは、この羊は、狼に完全にやられてしまう可能性が極めて高いということです。狼の群れの中で、羊が生き残れるかというと、考えにくいですよね。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とおっしゃいますが、そもそも羊は羊です。蛇にはなれませんし、鳩でももちろんありません。でもイエスさまは、弟子たちに死ぬかもしれない、いや死んでしまうこともある、狼の群れの真ん中に羊を送り込むようなものだとしながらも、同時に、そんな危機迫る状況の中で、どうすればよいか、どうしたら何とかなっていくかを、そのギリギリの状況の中で、教えてくださるんです。それが蛇になれとか、鳩になれではなくて、「賢く」分別のあるとか、思慮深いと言った意味と、「素直になりなさい」にある、悪に対して単純、潔白になれ、悪に染まらないようになれ!ということを通して、イエスさまは弟子たちに、危機のただなかにあると言える、自分にとっての悪に取り囲まれ、どうすることもできないような中にあったとしても、分けて考えて、分けて捉えていくこと、同時に、悪に染まらないよう、悪に足を引っ張られないようにと、おっしゃっておられるんです。それは分けて考えることで、悪が何であるか、が分かるようにしてくださるからです。悪が何かを見分けられたら、染まってはいけないもの、引っ張られてはいけない悪に気づけるからです。

 

しかしこういったことが、現実に目の前で起こったら、大変ですね。イエスさまが言われたその通りにできるかと言われれば、出来ないと思いますし、その時にならないと分かりません。

 

それは続けてイエスさまがおっしゃられること(17)においても同じことが言えます。(17)人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。とある中の、「人々を警戒しなさい」という意味は、人々を用心せよとか、注意を向けよとか、警戒せよという意味と共に、良く聴きなさい、傾聴(耳を傾けて、聴く)しなさいという意味もあります。つまり、警戒せよというのは、ただ怖がって近寄るなとか、相手にするなとか、そこから逃げよという意味で、警戒せよ、ということではなくて、そこから逃れられない状況、どうすることもできないことだから、弟子たちに、そういう中で、相手が言っている言葉を、良く聴きなさい、耳を傾けて、良く聴きなさいとおっしゃられるのです。

 

その意味と目的は、相手の言っている言葉を、聴き分けていくことで、なぜ人を警戒せよと言われるのか?警戒しなければならないものは何かを、与えてくださるからではないでしょうか?確かに八方ふさがりです。そういう中で、流されてしまいかけたり、自分がどうなっているのか、何をしたらいいのか、分からなくなったり、パニックになってしまうかもしれないです。しかし、だからこそ、そういう中であっても、イエスさまは、良く聴きなさい、悪に流されるな!とおっしゃられるのは、あなたがたは地方法院に、必ず引き渡される、会堂で必ず鞭打たれる、また私、イエスさまのために、総督や王の前に必ず引き出されるということに、導かれるお方が、イエスさまだからです。とはいうものの、目の前の出来事だけを見たら、八方ふさがりです。そういうことでさえも、そこにイエスさまが導かれるのです。そして導かれるということは、狼の群れの真ん中にいる羊のように、まさにどうすることもできない中にあったとしても、あなたがただけにされない、自分ひとりにさせるのでもない、イエスさまがそのただ中に、共にいてくださいます。

 

一人ではないのです!イエスさまが一緒におられます。それら一切のことが、「わたしのために」導かれ、そしてその導かれたその所で「彼らや異邦人に証しをすることになる」八方ふさがりの中で、弟子たち自身にイエスさまが呼びかけて下さったことに始まる、イエスさまがしてくださったこと、イエスさまそのものを、弟子たちに向かって、とんでもないことをしている彼らや、また神さまの恵みから外れた存在とされていた異邦人にも、伝えることになるんだということも約束しておられるのです。

 

証しをすることになったとき、十分にできるかというと、十分にできなかったと思うこと、後から、もっとああいえばよかったとか、こういえばよかったという後悔もあるかもしれません。でもイエスさまは、そういう言葉足らずであっても、「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」自分が話しているようでも、実は本当に語ってくださるのは、わたしたちの中で語ってくださる神さまご自身であり、神さまが語ってくださるのです。ということは、わたしたちの語る言葉、を神さまは、いつも超えているということです。どんなに足りない言葉であっても、もちろん精一杯にするでしょうが、でもそれでも十分にできるか、できたかというと、十分とは言えないこともあります。しかしそういうことでさえも、用いてくださり、あなたがたではなく、神さまが語り、神さまがして下さるのです。そういう意味で、わたしたちは最初から、最後まで、神さまを越えることなんてできないし、神さまであるイエスさまと同じことは全くできません。私たちはどこまでも弟子であり、僕です。そして、そういう者をイエスさまが導かれる中で、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われる時、また「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」と言われる時、どちらの言葉にも、その通りにできないこと、できなかったことがあるでしょう。耐えて、持ちこたえなければならなかったのに、持ちこらえられなかったこと、耐えられなかったこと、逃げてはいけなかったのに、逃げてしまったこと、逃げて行ったこともあるでしょう。

 

しかしイエスさまは、わたしたちの主人として、わたしたちの師として、わたしたちができなかったこと、しなかったことも全部、十字架の上で、しりぬぐいくださっています。しりぬぐいは実際には大変なことです。でもイエスさまは、師として主人として、わたしたちがどこまでも大切だからこそ、イエスさまがどこまでも代わってしてくださいます。私たちにできないことも、できなかったことも、しようとしなかったことも、全部私たちに代わって、してくださいます。

 

あるとき久しぶりに会った方とお互いに、神さまが導いて下さったことも含めて、近況を語り合いました。そうすると、お互いに、「いろいろあったんだね~」となりました。でもその時、その時に、神さまが導いてくださったね~神さまが助けてくださったねと心から分かち合うことになりました。そして、その一つ一つを神さまがしてくださったこと、神さまが私のためにしてくださったことを、もう一度受け取りなおす恵みの時にもなりました。神さまが遣わしてくださるということはそういうことなんだと思いました。そしてその後、1つの聖書の言葉に目が留まりました。「神のなされることは、皆時にかなって、美しい。」伝道の書、コヘレトの言葉の1節でした。神さまがなされることは、全部、ひとつ残らず、隅々まで、全部、美しい!のです。もちろん、私たちにとっていろいろな時があります。悪としか言えないような中にある時もある、十分にできなかったときもある、逃げた時もある、その時々に色々感じて、考えてしまう時もあります。でも神さまのなさること、神さまがしてくださることは、時にかなって、全部「美しい」のです。その時には美しいなんて、とんでもないと思う時があっても、神さまは、後からでも、時にかなって、全部美しいものへと造り変えてくださいます。

 

イエスさまを信じて、イエスさまから遣わされるということ、は、わたしたちにとって、これからどんなことがあるのか、どんなところに遣わされていくか、どんな出会いがあるのか、そこで私がどう感じ、どう受け止めることになるのか、分からないことばかりです。予想できることはほんのごく一部です。でもそこに導いて下さるお方は、わたしではなくて、神さまであるイエスさまです。イエスさまが導いてくださいます。イエスさまが主です。主人であるイエスさまがその導きすべてにおいて、共に歩み、すべての責任を取ってくださいます。人生の責任、生き方の責任を、イエスさまは私の主人として、受け取ってくださるので、わたしたちは、一人ではありません。イエスさまと共に、一歩ずつであっても、前に向かって進むことができます。

説教要旨(8月8日)