2021年7月4日 礼拝説教要旨

何を求めるのか(マタイ7:1~14) 松田聖一牧師

 

何かを分けていくこと、物や、食べ物、人、いろいろとありますが、そういう分けることを私たちもしますね。例えば1袋を分けるのであれば、その1袋の中身を分離し、分けていきます。その時、きっちりとそれぞれ同じに分けられるかというと、同じにはなかなかいきません。多い少ないが出てきます。そしてその時に起こることは、少しでも多いものを自分のものにしていきたいという欲が出てきたり、反対に、沢山はいらない、少ない方がいい、ということもあるでしょう。あるいは多い、少ない、ということについて、ぞれぞれに何で多いの?とか何で少ないの?とか、どうしてこの人は多くて、この人は少ないの?といった評価をすることもあるのではないでしょうか?つまり何かを分ける時に、ただ単に分けるだけではなくて、そこに評価が入るのです。それは分ける者の思い、主観、欲望であったり、そして、分けられたものを、それぞれ手に取った時、手に取った自分自身が感じる評価も出てきます。そこから、少ないと感じ、少ないなあと評価したら、自分だけ少し多くしたり、自分にとって劣っていると評価したら、優れている方を選んだり、いろいろしますね。あるいは、それらのこととは別に、単純に分けてもらえてうれしいという評価もあるでしょう。それでうれしくなって、心が温かくなることもあるでしょう。そういうことが、分けることから始まっていきます。そういう意味で、分けるということには、いろんなことがあるということです。いろいろな広がりがあります。

その中で、いいか、悪いか、優れているか、劣っているか、といった評価をすることが前面に、立ってしまうと、評価することが延々と続いていくことになるのではないでしょうか?例えば、いいとか悪いとか、優れているとか、劣っているということに関して言えば、いいということについても、どうしていいのか?どこがいいのか?悪いということについても、どうして悪いのか?どこが悪いのか?といったことに始まって、どうしていいと言えるのか?どうしていいという評価を自分ができるのか?また悪いということも、優れている、劣っていることも、多い、少ないにおいても、そういう評価も、またその評価を評価することも、際限なくどんどん大きくなっていくこと、大きくしていくこともあるのではないでしょうか?

そういうことをイエスさまは、「人を裁くな」の「裁く」という言葉に込めておられるのです。というのは、「裁くな」のもともとの意味は分けるなとか、分離するな、区別するな、選び出すな、優れていると判断するな、と言う意味であるからです。それをするなとおっしゃられる意味は、ただ単に人を区別し、分けるなということではなくて、分けるということから、人に対する自分の評価を、どんどん大きくしていくことがあるからです。さらには、そういう評価をする自分自身はどうなのか?つまり、分けて、区別し、選び出し、優れているということをする自分自身、私自身に起こることも、イエスさまは明らかにしようとしておられるのです。

それが(3)「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の中に丸太があるではないか。」とおっしゃられる言葉にあります。というのは、ここで語られるおが屑と、丸太との関係から言えるからです。おが屑と丸太の関係を見てみましょう。おが屑とは木片とか、木の破片、小片と言った意味であり、丸太とは家の梁のことを指しますが、大きさから見れば、おが屑は、本当に小さくて細かくて、風が吹けば飛んでしまうほどのものです。その一方で丸太、家の梁は、大きくて太いものです。大きくて太い丸太とおが屑の大きさを比べれば、おが屑とは比べ物にならないほど、丸太の方が大きいですし、おが屑は本当に小さくて、微々たるものと言えます。大きさを評価の基準とすればそうなります。では、このおが屑と丸太は大きさという評価の基準だけで量れるのかというと、他にもいろいろな基準があるのではないでしょうか?

例えば、薪ストーブやキャンプファイヤーで、おが屑と丸太を見る時いかがでしょうか?伊那谷の広告を見ますと、家の広告が結構ありますね。その広告を見ますと、薪ストーブを入れている家の写真などが良く出ています。薪ストーブを囲んでいる様子などの写真もありますが、薪を燃やすときには、最初から太い薪に火をつけるのではなくて、最初は燃えやすい木片など、それこそおが屑と訳されている木の破片にまず火をつけて、そして火が勢いよくなって、ようやく太い薪に火が燃え移って、それが種火、となって燃え続けていきます。キャンプファイヤーもそうですね。最初から太い木、丸太に火をつけても燃えてはくれません。最初は、燃えやすい木片、小片、破片に火をつけていきます。ということは、おが屑も、丸太も、大きさでは大きく違いますが、でも両方が必要です。使われるタイミング、用途は違いますが、火をつけ、燃え続けるためには、おが屑も、丸太も、両方、それぞれの場面で必要です。なかったら困ります。おが屑だけではキャンプファイヤーはできません。丸太も必要です。

ということは、イエスさまがここでおっしゃられることは、自分が相手のことを事細かく言って、あれこれと言う時、自分の中には他から言われるようなことがないかのように思っていても、実は、あなたの目の中の丸太があって、それに気づかないだけだという意味で、他人のことばかり言うな、自分を省みなさいということなのかというと、それもありますが、しかし、それ以上にもっと本質的なこと、つまり評価するという時、自分の中にはおが屑のように小さなものから、丸太のように大きな太いものまで物差しがあって、それで評価するということです。しかもそれぞれの大きさは比べられないほど違うのに、どんなに小さなものでも、おが屑のようなものであっても、丸太でも、それぞれ自分の中で必要だと、そのおが屑も、丸太も自分自身が求めていけばいくほど、それが自分の中でますます大きくなっていきます。そうなればなるほど、それがなかったら困るというくらいに、それにしがみつくと言いますか、それを持ち続けていくのではないでしょうか?結果としては手離せなくなってしまうのではないでしょうか?もちろん、それぞれは大切です。必要です。でもそれを自分の手の中に握り続けていたら、手離せないままでいたら、おが屑のようなものであっても、それは丸太となっていくし、丸太であれば、ますます丸太が大きくなっていくのではないでしょうか?じゃあ、大きくなればなるほどいいのかというと、梁も太ければ太い方が家のためにはいいのかというと、太すぎて重くなりすぎると、柱が梁を支えきれなくなって、柱がそれで折れてしまうことにもなるのではないでしょうか?その結果、家が壊れてしまうのです。

つまり、大きい程いいとか、太ければそれでいいというのでは必ずしもないのです。必要なものが、必要なところに、必要な量だけが用いられ、使われていくということが必要であり、そのためにイエスさまは、どんなものであっても、おが屑から丸太になるということを指し示されるのです。

そこから言えることは、自分がしがみついて、手離せない状態であれば、どんなに小さいものでも、大きく大きくなっていきます。それによって、柱が折れて家が壊れてしまうように、壊れていきますし、壊していきます。壊れて、壊して初めて、自分のしがみついていたことに気づかされるのかもしれません。それをイエスさまは「自分の中に丸太があるではないか。」と、他の誰でもない、自分の中に丸太があるではないか、と丸太があるから、またどんな小さなことでも丸太にしてしまうから、イエスさまは「まず自分の目から丸太を取り除け」と語られるとおりに、私たちが握っているもの、手離せないでいるものを、取り除けとおっしゃられるのです。

そして求めなさいとおっしゃられるのです。でも取り除こうとしないかもしれません。自分自身が自分の何かを握ったままかもしれません。でもそういうことをしていたら、求めることにはなりません。求めるというのは自分の手の中にはない、何もない、空の手になって初めて求めていけるものです。けれども、自分でそういうことが、できるかというと、何もない状態にはなかなかならないでしょう。何かしら握り続け、手離せないことがあるでしょう。だからこそ、イエスさまは、逆に、私たちがどんなに自分に求めても、自分の手で握れないもの、自分ではどうすることもできないものを与えてくださることで、自分の手ではもうどうすることもできない状態の中で、手の中に握れるものではないものを与えて下さることで、初めて求めるということへと方向を変えて下さる、導いて下さるのではないでしょうか?

先日エアコン設置工事業者の方が来られて朝早くからしてくださいました。朝の7時ごろから来られて、木曜日中に何とか終われるようにスピード感を持ってしてくださり、午前中に教会の方5台の設置が無事に終わりました。朝7時の時点では土砂降りでした。でも作業が始まる直前に雨が止んで、作業がしやすくなり、スムーズに次々としていかれました。お昼になりまして、作業の方が「ちょっとお昼にします。また戻ってきます」とのことでした。私もどうぞどうぞということと、「このまま雨が降らないといいですね。」「本当にそうです。雨が降ったら、室外機には本当は良くないんです。水が入ると良くないので、雨が降らないことを願っています」とおっしゃられたので、「分かりました。雨が降らないように、作業が終わるまでは雨が降らないようにお祈りしますね~」とお伝えしましたら、作業の方は、「えっ!」とびっくりされていました。私もそんなことを言ったことで、内心、ちょっと言い過ぎたかなとも思いましたが、言っていますので、祈りながら、気にかけていました。午後になり、戻って来られ、残りの作業が始まりました。2階に取り付けるために、はしごを使っていろいろとされていました。しばらくして、教会の方に作業員の方が来られて、「終わりました~最後に確認お願いします」と言われた時には、外は雨になっていて、土砂降りの雨が降り始めていました。雨になった!窓を閉めないと、と思いながら、牧師館に入り、窓を閉めて、そして2階に取り付けられたエアコンを確認しました。そうしますと、その作業の方がおっしゃいました。「作業が終わった途端、雨が降り出しました~本当に良かったです!びっくりしました~」私もびっくりでした。本当に祈りが聞かれたと思いました。そしてその作業された方にとっても、良かったと思いました。正直、雨のことをお祈りしてばかりいたら、神さまは、またどう思われるかな?少し大丈夫かなと思いました。でもお祈りしますねと言えたことは良かったと思いました。神さまは、必要だと判断して、決めてくださったので、作業が終わるまでは雨を降らせませんでした。そのことも感謝なことでした。そして二人の作業された方に、教会は誰でも来られていいところですので、また是非どうぞ。クリスマスのキャンドルサービスも是非どうぞとお伝えすることができ、機会がありましたらと答えつつも、帰っていかれました。

雨を降らせられるかどうか、とか、雨を止めさせるかどうか、とか、お天気のことをどうのこうの、することなんて、私も含めて、人にはできません。人の手には握れないことです。でもそういう自分の手の中にはない、手の中に握れるものではない、ということを、与えて下さることで、自分の手の中にはないけれども、どう考えてもできないこと、どう考えても自分ではどうにもできない、だからこそ、神さまに、イエスさまに求めることができる、求めていいイエスさまへと向きを変えさせてくださいます。

求めること、必要なものを与えて下さる神さま、祈りを聞いてくださる神さまは、本当に与えてくださいます。それは小さく評価するものではなく、大きく受け止めて、大きく受け取っていくのです。

説教要旨(7月4日)