「神への愛」  加藤 智恵 牧師
ヨハネによる福音書 5章36~47節  列王記 上 22章6~17節

「わたしにはヨハネにまさる証しがある」と主イエスは言われました。その証しは父からの証しであり、それはイエスの奇跡の業の中に現れています。そして奇跡そのものよりも、罪の赦しと救いと永遠の命があります。神はイエスを通して、その業を成し遂げられたのです。そこには神の力が余すところなく発揮されているのです。イエスをお遣わしになった父である神が、主イエスについて証しをして下さっています。それは主イエスこそが真の光であり、救い主であるという証しです。
聖書はキリストについて証しをしている書物です。ところが、律法学者たちは永遠の命を得るために、主イエスの所に来ようとはしません。主イエスは神に遣わされてこの世に来られたのに、律法学者たちは主イエスを受け入れませんでした。それは律法学者たちの内には神への愛が無かったからです。律法学者たちは旧約聖書を重んじていました。しかし、彼らは聖書の内容の本質を見出すよりも、知識を得ることに務めました。知識があることに誇りと喜びを感じました。その結果、彼らの知識は神よりも人からの尊敬と誉れを得ることになりました。それは、空っぽの見せ掛けのものであり、彼らは人からの尊敬を求めることはあっても、心の底から作り変えられるという事がありませんでした。
「モーセはわたしについて書いている」と主イエスは言われます。それは申命記18章15~19節です。出エジプトをしたイスラエルの民は不信仰によって、多くの人がホレブで死にました。そこでイスラエルの民は二度とこのように死ぬことが無いように主に求めました。モ-セは神に執り成しをします。すると神は「イスラエルの民が求めることは最もな事だ」と受け止められました。そして、彼らの為に同胞の中から、モーセのような預言者を立てて、その口にわたしの言葉を授けると約束されました。その預言者とは、主イエスのことです。しかし、「彼らがその預言者に聞き従わないなら、神はその責任を追及する」と言われました。それは彼らは死ななければならないと言うことです。律法学者やユダヤ人は、主イエスを拒絶しました。彼らは死ぬべき立場にあるのです。
しかし主イエスはその罪をユダヤ人の代わりに背負われて死なれたのです。私たちは罪ある人間です。神への愛を持ち得ない私たちですが、神はその罪を赦して、私たちを愛して下さったのです。

次に旧約の列王記から学びます。この時代には、北イスラエルと南ユダに分かれ、またラモト・ギレアドをめぐって、アラム人と戦っていました。北イスラエルのアハブ王は南ユダのヨシャファト王に、一緒に戦って下さい、と求めます。ヨシャファト王は主の言葉を求めることを提案します。400人の預言者は、心地よい預言をします。ここにミカヤと言う神の言葉を語る預言者がいました。ミカヤはアハブ王が戦死することを預言します。ミカヤの預言はその後実現します。それはイスラエルの民にとっては、それぞれ正常な生活に戻るようになり、アハブ王の死が民にとっては、益となることを意味しています。
偽りの預言者400人もいる中で、ミカヤは光のように輝いています。わたしたちの為に死んで下さったイエス様の愛に、心から悔い改める者となりたいと願っています。

説教要旨(12月8日)