「神の業とは」  加藤 智恵牧師
ヨハネによる福音書 6章27~35節  出エジプト記 2章1~10節

本日のヨハネによる福音書は罪からの解放について、出エジプト記は奴隷からの解放について書いてあります。
ヨハネによる福音書の聖書個所に入る前に、5,000人の給食の記事が書いてあります。群衆たちが主イエスの教えに聞き入っていると、陽が落ちて群衆は空腹になりました。主イエスは途中で倒れてしまうことを心配して、男だけで5,000人もの大勢の人たちにパンの奇跡を行い、群衆は満腹しました。その場所は草が多かったと書いてあるところから、主イエスは草を求めて捜し歩く、真の羊飼いであることが分かります。パレスチナでは、草の多い所は限られています。大勢の群衆が草原に座って、主イエスが与えてくれたパンを食べて満腹したのです。
その後に命のパンのことが書いてあります。5,000人のパンの給食にあずかった群衆は主イエスを探してカフェルナウムまで来ました。イエスは群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。これこそが主イエスが人々に与えるパンなのです。群衆は「命のパンを得るためには何をしたらよいのでしょうか」と尋ねます。すると今ここに立っているイエスを、神が遣わされた方だと信じる事が、神の業を行なうことである、と宣言なさいました。群衆は「それでは、私たちが見てあなたを信じる事が出来るように、どんなしるしを行なってくださいますか」と聞きます。群衆は自分たちの肉体を養ってくれるパンを求めていたのです。主イエスは話の核心に触れて、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。群衆はこの言葉につまずき、ユダヤ人たちは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と言って、それ以来主イエスの言葉を「実にひどい言葉だ」と言って、聞くことが出来なくなりました。
次に旧約の出エジプト記2章に移ります。エジプトの王はイスラエルの民がエジプトの民より多く強いことを知って、イスラエルの民がエジプトに脅威を与えるようになる事を恐れました。そこでエジプト人はイスラエルの民に重労働を課して虐待しました。しかし、虐待されればされる程、イスラエルの民は増え拡がって行きました。そこでエジプトの王は生れて来る男児殺害を助産婦に命じます。エジプトがそのような時代に、レビの家の男がレビの娘を娶りました。彼女は身ごもり男の子を産みました。母親は3ヶ月の間、男の子を隠しましたが、もはや隠し切れなくなって、パピルスの籠の中に男の子を入れ、ナイル川の茂みの中に子どもを置きました。するとファラオの王女が水浴びしようと川に降りて来ました。王女はパピルスの籠を見つけ開いてみると、赤ん坊が入っていて泣いていました。王女はヘブライ人の子と知りながらも、不憫さと可愛らしさに、その男の子を王女の子としました。ファラオの王女は心優しい女性だったようです。モーセはエジプト王女の子として、英才教育を受け大事に育てられました。しかしイスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放の旅に引率するのです。
神のなさる事はわたしたちの理解を越えています。しかし、神は私たち信じる者に良いご計画を持っておられます。神の業とは「神がお遣わしになった方を信じること」と主イエスは言われました。信じて歩んでまいりたいと思います。

説教要旨(11月17日)