聖書:サムエル記 5:1~5、ルカ 23:35~43

 

本日の聖書箇所サムエル記5章1節~5節で、イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデの許に来て、こういいます。「我が民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる。」と。とうとう神が定められた時が来たのです。神にとって不可能なことはない。神の御心は必ずなるのです。ですから、その時まで神を信頼して待つことが大切です。自分の願いではなく、神様の御心がなりますように、との祈りは大切です。ダビデは素晴らしい王でしたが人間でした。自分でも気付かない罪を犯しました。が、ナタンにその罪を指摘されて悔い改めます。

新約の聖書箇所には、十字架にかけられたイエス様の様子が書かれています。三度も「自分を救え」という言葉が出てきます。議員たちは「他人を救ったのだから、もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言います。次に兵士たちが近寄り侮辱して、「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と言います。罪状書きにはユダヤ人の王と書かれた札が掲げてありました。そして十字架にかけられた二人の犯罪者の一人がイエス様をののしって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言います。イエス様は人々を救うために来られたのであって、自分を救うことはなさいませんでした。もう一人の犯罪人が罵った犯罪人をたしなめて、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、この刑に服するのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言ったのです。ここに一条の光を見出します。この犯罪人はカナンの女性のように、「立派な信仰」と認められました。そして、「イエスよ、あなたの御国にお出でになる時には、わたしを思い出してください」と謙虚に願いました。イエス様は「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。この世での死の間際で、一人の犯罪人をイエス様は救ってくださったのです。

ダビデは罪を犯しましたが、それを認めた立派な王でした。イエス様は王の中の王であり、罪を一つも犯さなかったお方です。「王の職務」とは、神の前に正しい指導者であることです。混迷している時代にあって、決して変わることのない愛を持って、私たちを愛してくださり、守ってくださるイエス様が、今も生きて私たちと共にいてくださいます。このことは何事にも代えがたい大きな喜びと支えです。栄光が神様にあるようにと賛美いたしましょう。

加藤智恵 牧師

説教要旨(11月25日(日)の礼拝説教より)