2026年8月9日礼拝 説教要旨

誰が妨げているのか(マルコ10:13~16)

松田聖一牧師

 

学生時代、当時は養護学校と呼ばれていた学校に、教育実習をした時のことです。高等部のクラスを担当することになり、どんな子がいるんだろう?と、少々不安もありましたが、良き指導の先生に恵まれ、良き学びと、楽しいひと時を過ごしました。その実習の初日だったと思います。朝、受け持ちクラスの教室に行きましたら、1人の女の子が入って来て、私のところに来ました。私はおはよう~と声を掛けますと、その瞬間に、くるっと向きを変えて、向こう側にお辞儀をするんです。こちらにとっては、背中を向けられている格好なので、最初は何のことか分からなかったのですが、後から、先生がこう言われました。「あの子はね、背中を向けて、おはようって挨拶しているんだよ。背中を向けて、あっちに向かってお辞儀をするのが、彼女の、おはようなんだ~」「へえ~そうなんだ~」と、びっくりするやら、新鮮と言いますか、彼女なりの、おはようが、これなんだ~と気づかされたことでした。それまで、私にとっての、おはようは、その人の方を向いて、その人に向かって、というのが当たり前だと思っていましたが、背中を向けてのおはようも、おはようだということに、気づかされた出会いでした。

 

自分にとっての当たり前とは違うということが、目の前で起きた時、びっくりしたり、なぜそんなことをするのか?と思うこともあります。それは、自分にとっての当たり前とは違うことに、自分が追いついていないからなのかもしれませんし、自分にとっての当たり前とは違うものもあるんだということを知らなかったからかもしれません。いずれにしても、自分にとっての当たり前ではないものに対して、時と場合によっては、自分にとっての当たり前が、壊されてしまうのではないか?という恐れに変わってしまうこともあるのではないでしょうか?その時、自分の当たり前が、壊されないように、その、当たり前を、壊そうとする相手に立ち向かっていくこと、その相手を頭ごなしに違う!と、否定し、壊そうとしてしまうこともあるのではないでしょうか?

 

それは、子供たちを祝福するために、イエスさまのところに人々が子供たちを連れて来たということを、目の当たりにした、イエスさまの弟子たちの、「人々を叱った」姿においても、です。というのは、当時、子供たちが触れてもらう相手、祝福していただく相手は、祭司でした。それが当たり前、当然のこととされていました。弟子たちもそれに倣って、子供たちは、祭司のところに連れて来るということが、当たり前、当然のこととして受け取っていたんです。

 

そんな中で、人々が、子供たちを、イエスさまに触れていただくために連れて来たというのは、弟子たちにとって当たり前ではないことを、人々がしたということになります。そしてその行為が、弟子たちの当たり前を壊してしまうものとして、映り、受け取ったのではないでしょうか?だから、「弟子たちは、この人々を叱った」激しく非難し、叱責し、どなりつけていくんです。でも人々は単純に、子供たちをイエスさまに触れて頂こう、祝福していただこう、そして祈っていただこう!そしてイエスさまに、守っていただこうとしているんです。と同時に、子供たちに触れ、祝福してもらうのは、祭司だ、ということも、分かりながらも、それでも祭司のところに、連れていかなかったのには、何かがあるんです。具体的には分かりませんが、祭司のところに連れて行くのは分かっていても、人々と祭司との関係に何かがあるのではないでしょうか?

 

こういうことは、人々と祭司との関係だけではなくて、私たちの人間関係でもあることです。一般的に、人間関係というのは、化学反応と似ていると思います。それは、いい悪いではなくて、お互いに、合う、合わないという反応が起こるんです。しかも化学反応ですから、あっと言う間、瞬間的に起こる場合もあります。それはほんのちょっとのことかもしれません。ほんのちょっとで、お互いに何かが起こるんです。それは、ラジオの周波数を手動で合わせるということとも、似ています。以前のラジオはそうでしたよね。聞きたいラジオ番組に周波数に合わせるために、微妙に手を動かして、合わせていきますよね。ピタッと合うと、聞きたい音楽、声が綺麗に聞こえていますが、ちょっとでも合わないと、ザーッと言う雑音になります。そういうことが、人と人との関係にあるんです。そういう意味で、人々と、祭司との間には、何かしらあったし、それで、連れて行かなかったということもあるのでしょう。

 

それとの関係で、私のお葬式を誰にしてもらうか?ということにも繋がります。これまでいろんな教会に遣わされましたが、行った先、行った先で、お年を召された方々から言われるのは、「私のお葬式!ちゃんとしてね~」です。どっかいってしまわないでね~です。他にも、「死に水をちゃんをかけてね~ちゃんとかけてもらわないと困る!」とか、「お葬式も、普通のお葬式じゃダメ!特上にしてね~並みじゃだめ!特上、特盛じゃないとダメ・・・」などなど、何ともお返事のしようがないことですが、それに対してここまで言いかけてしまうんです。「まだ生きているでしょう?亡くなった後のことは、周りがちゃんとしてくれるよ~」という、やり取りは、良いとか悪いとか、どうとかということではなくて、実際にあることです。

 

そういういろいろな関係の中で、人々は、祭司のところにではなくて、イエスさまのところに子どもたちを連れて来たのは、もちろん祭司との関係はあったにしても、それ以上に、この子供たちを、神さまの前に、イエスさまのところに連れて来たい!んです。それは、人々の気持ちだけのことではありません。そもそも、この子供たちは、神さまから与えられ、神さまから託され、預かっている子どもたちです。人々はそれが分かっていたのではないでしょうか?だからこそ、人々は、子どもたちを与えて下さった、イエスさまのところに連れて来たんです。

 

それはここに出て来る人々だけのことではありません。私たちに連なる子供たちも、神さまであるイエスさまから与えられている子供たちです。だから与えて下さった子どもたちは、主の前に、神さまであるイエスさまのところに連れて来る必要が、イエスさまの側にあるんです。その時、私たちの気持ちとか、子どもたちとの関係がどうとか、ということ以上に、イエスさまのもとに連れて来ることを、誰よりも、イエスさまが願っておられるんです。

 

ところが、そんな人々を、弟子たちが、「叱った」時、イエスさまは、弟子たちそのものを頭ごなしに否定していません。弟子たちに、憤られたのではなくて、「これを見て」すなわち、弟子たちが人々を叱ったと言うその行為と、その行為にある、動機、弟子たちの思いに対しての憤りです。さらには、弟子たちにとって、子供たちを祭司のところに連れて行くことが当たり前なのに、それとは違うことをした、人々を受け入れることができなかったこと、また弟子たちにとっての当たり前が壊されるのではないか?という恐れに対しても、イエスさまは憤られるんです。

 

でも祭司のところに連れて行かず、イエスさまのもとに連れて来た人々を叱った、弟子たちは、イエスさまを信じて、神さまと信じて、弟子となっているんです。だから、イエスさまのところに、子どもたちを連れて来た、ということを、それは良かった!とか、嬉しいとか、喜んでいいことですし、喜べる事ではないでしょうか?ところが、弟子たちは人々を叱った、それは、弟子たちの間違いです。その結果、子供たちを、また子供たちを連れて来た人々を、イエスさまから引き離していくことも、間違いです。それらのことに対して、イエスさまは憤られながら、人々を叱った弟子たちに、「子供たちをわたしのところに来させなさい」と、おっしゃられるんです。そしてそれに続く、「神の国はこのような者たちのものである」は、子供たちだけではなくて、たとい叱った弟子たちであっても、また祭司のところに行かなかったという、当時の当たり前ではない行為をした人々も、イエスさまのもとに集まるようにと、呼びかけておられるんです。

 

その集まりが、教会です。だから、教会に来られる、教会に集まるという時、そこには、いろいろな当たり前を持っている人がいるということなんです。そこには、本当はイエスさま以外の、別のところに連れて行きたかったとか、イエスさまのところではなくて、祭司のところに行くのが当たり前だ、これが正しいと思っている人もいるということなんです。それもまた教会の自然な姿です。しかしそれでいいということではなくて、イエスさまは、そこから「わたしのところに来させなさい」つまり、そこにあるものは、確かにいろいろある。しかしそのいろいろあるものに向かっていくのではなくて、また連れて行くことでもなくて、時には無理やりにでも、イエスさまは、「来させなさい」と呼びかけておられるんです。その結果、いろいろな人が集められ、イエスさまを中心とした教会は、そのいろいろがあるからこそ、教会となっていくのではないでしょうか?

 

今から、30年以上前、教会では、修養会というものを開いていましたね。毎年だったのでしょうか?講師の先生を迎えて、講演を通して、学ばれたとのことですが、それ以前からも、江連先生の頃にもあったと思います。その修養会に、1994年から1996年まで、毎年、東京神学大学から松永希久夫先生を迎えて「礼拝と教会形成」というタイトルで、講演いただいた記録が残っています。その講演の最後のところで、こんな語り掛けがあります。

 

1つの設計図をもって教会を私どもは造り上げなくてはなりません。牧師が赴任しても、いつでも一人で苦闘するような教会ではなく、教会員たちと協力して主なるキリストの教会を造らせていただく教会です。そして、何人牧師が交替しても同じ1つの設計図によって礼拝が構成され、教会が造られていくのです。「牧師が交替しても、教会員はそのまま残るような教会になる」と、私は教会員たちによく申しました。そういう点で、あの先生ご夫妻が、恐らくこれから10年、15年いて下さる、あるいは一生ここで骨を埋めるという風に迄、この伊那を愛し、伊那坂下教会を愛するようになって下されば一番良いことだと思いますが、そういう形で牧師の部分が定着していく。大切なのは、信徒の部分がそういう形で牧師を支え、あるいは牧師を生かすような形で関わっていかなければならない。

キリスト教の信仰は個人の霊魂の救済信仰にとどまりません。共同体の信仰、神の民、教会の群れに属することにおいて、個人も共同体の命、その救済を与えられるのです。だから、私はもう年をとっているから、あと10年、20年たったらどうしたらいいのかと思う時があるでしょうけど、教会につながっていなかればなりません。それは実感だろうと思います。是非、天国へ行っても伊那坂下教会員であると誇りをもって祈ってほしい。天国では地上の何教会に属していたかなどということはどうでもいいことだ、というのは、ある面、当たっています。しかし、私ども地上のキリスト者としては、将来に対して、本当に地上で信仰と希望と愛を持ってのぞむということが一番大切なことだと思います。具体的な愛の対象がしっかりしていない愛は、愛とは言えないのです。

 

神さまを信じ、神さまであるイエスさまを信じて歩むキリスト教信仰は、独りだけのものでは終わりません。「わたしのもとに来させなさい」とおっしゃられるイエスさまのもとに集められる共同体であり、共同体の信仰でもあります。それを分かってほしかったからこそ、イエスさまは「わたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃられるんです。

 

その時、私たちの当たり前、これが正しいということが、結果としてイエスさまから引き離してしまう間違いにも、気付かせてくださいます。しかしその間違いもまた用いられて、たといどんなに間違ったことをしてしまったとしても、それでも、イエスさまのもとに導かれていくんです。

 

誰が妨げるのか?その問いの答えは、誰もが妨げることがあり、誰もが妨げるものを持っているということです。そこには自分の当たり前、自分にとっての、これが正しいんだという物差しがあることでしょう。それによって、イエスさまのもとへ連れて来ることを、そして自分自身をも、イエスさまのもとに来ることを、妨げているんです。しかしイエスさまは、そういうことを持っていても、妨げるものでさえも、用いて、子供たちと共に、私たちも、イエスさまのもとに、イエスさまが連れて来てくださり、集めて下さり、イエスさまを中心としたイエスさまを信じる信仰の共同体、教会を建て上げてくださるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月9日)誰が妨げているのか(マルコ10:13~16)