2026年9月27日礼拝 説教要旨
弱さを通して(マルコ14:26~42)
松田聖一牧師
お土産物屋さんに行った時の事です。叔父叔母のところに、出かけるということで、手土産を買いに行きました。それで、そのお店にあるものを、いろいろ見まして、これを買おうと決めて、確か8箱くらいだったと思いますが、お店のカウンターの向こうにおられた店員さんに、「これこれを8箱ください~」と言った時、「ああ1箱ですね~」「はいありがとうございます」と返事が返ってきました。でも頼んだのは、8箱です。1箱ではないので、店員さんが聞き間違えたんだと思いましたので、「あの~1箱ではなくて、8箱なんですが・・・」と言った途端、「あっ8箱ですか!ああありがとうございます!」さっきの声と全然違うんです。1箱から8箱になった途端、こんなに変わるんだ!びっくりでした。素直だなと思いますが、分かるような気がします。お店の売り上げとか、儲けとか、いろいろなことがあったと思いますから、1から8になった途端、声も態度も豹変するというのも、自然なことなのかもしれないと、思いましたが、その時、人って、こんなに変わるんだ~というのが、実感でした。
人って、そういうものです。何かあると、すぐに変わります。さっきの表情と打って変わり、豹変するんです。それはイエスさまから、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われた時の、弟子たちも、そうです。彼らは、さっきまで神さまを賛美していたんです。まさかまさかイエスさまを裏切るとは、思ってもいなかったのかもしれませんが、そんな賛美の歌をうたった弟子たちから、あっという間に裏切る弟子たちに変わってしまうんです。
そのことを指して、イエスさまは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたのですが、その時旧約聖書ゼカリア書というところから引用しながら、『わたしは羊飼いを打つ。』すなわち、神さまは、羊飼いであるイエスさまを叩くとか、殴る、打ち倒し、殺すということと、その時「羊は散ってしまう』と語られるんです。つまり、イエスさまを叩き、殴り、打ち倒し、殺していくということが、神さまの約束であり、神さまの計画なんだということを、叩かれ、殴られ、打ち倒され、殺されていく、イエスさまが、おっしゃられるんです。でもイエスさまを殴るといったことを、神さまが直接されるのか?というと、そんなことはありませんし、神さまはそんなことをしたくありません。なぜなら神さまにとっては、イエスさまは愛する独り子です。それは、親子の関係に譬えると、親が、子どもを叩き、殴り、打ち倒し、殺すといったことを、親ができるか?ということにも繋がりますから、神さまが、イエスさまに、それは計画だからといったことで簡単に片づけられるものでは決してありません。
しかし神さまが、なぜイエスさまを十字架につけていくことが、神さまの計画なのか?というと、それは、神さまからずれ、神さまに背を向け、神さまに対して、罪を犯してしまう、人を赦すためです。でもその罪というのは、人が引き起こしたものですから、本来は、その人自身が、自分の罪の責任を取らないといけません。自分のことですから、それは全部自分で引き受けなければなりません。でも神さまは、どんな人でも愛し、どんな人でも赦そうとしておられるんです。赦したいし、その人はこれからも神さまと共に、神さまに愛されて、人生を歩めるようにと心から願っているんです。でも神さまにとって罪は、そのままいいよいいよと見逃すわけにはいきません。なぜならば神さまは愛の神さまであると同時に、聖なる神さまでもあるからです。だから、神さまにとっては、罪は罪です。それがなかったことにはできない。じゃあそれを人にその責任を負わせられるのかというと、負えないことも分かっておられるんです。でも赦したい、救いたいからこそ、誰にその罪の責任を負わせられたかというと、それは神さまであり、神さまの愛する独り子イエスさまに負わせるしか、人を赦し、救う方法がないからなんです。だからイエスさまは、神さまのご計画の中で、十字架へと進まれるんです。
そういう意味で、それまで賛美していた弟子たちが、イエスさまが、十字架につけられていく時、叩かれ、殴られ、打ち倒され、殺されていくイエスさまを裏切り、イエスさまから、離れて行くということも、神さまの約束であり、ご計画であったということをも示しながら、そういうことを、弟子たちがしたから、イエスさまは神さまのご計画の中で、十字架にかかられるんだということも、示しておられるんです。
そのご計画の中で、弟子のひとりペテロは、イエスさまから「あなたがたが皆わたしにつまずく」と言われた時、こう返しました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」この時、わたしはつまずきません、にある「わたしは」、という言葉は、イエスさまが神さまであるということを、現す時に使われる、エゴーという言葉です。そのエゴーを、ペテロも使っているのは、ペテロにとって、「わたしはつまずきません」ということを、絶対的なものにしているんです。つまり、わたしはつまずきません。みんなつまずいても、つまずきませんということを、自分が神さまのつもりになっているとも言えるでしょう。それほどに、イエスさまにはつまずかないし、イエスさまを裏切ることはしないと、豪語しているんです。にもかかわらず、実際はペテロもまた、イエスさまを3度知らないと裏切り、イエスさまから離れて行くんです。そういう豹変があるんです。
それなのに、絶対つまずきませんとイエスさまに返していくのは、彼自身の中にある、私は正しい!私には間違いがない!間違うことはない!と、自分自身を神さまのように仕立ててしまい、神さまのつもりになって、そこに立っているからではないでしょうか?そこから自分の正しさをより正当化し、自分が正しいということを、より強くアピールしてしまうではないでしょうか?それは、自分の正しさを絶対的なものにしてしまってるからです。
それはペテロだけ、弟子たちだけのことではなくて、わたしたちにも同じことがあるのではないでしょうか?しかし実際に、本当に間違えないのか?本当に正しいを貫き通せるのかというと、どうでしょうか?
先日の教会学校の礼拝で、いつくか地名を紹介させていただきました。今日は、それに加えて紹介させていただきます。先週は、外山(とび)、帯解(おびとけ)を黒板に書いて、どう読む?と尋ねたことでしたが、それに加えて今日は、この地名です。多武峰(とうのみね)、下り尾(さがりお)、忍阪(おっさか)、五百野(いおの)、十六島(うっぷるい)などなどですが、地名というのは、なかなか正しく読めませんので、地元の方以外の人は、どうしても間違って読んでしまいます。
それは、正しい読み方を知らないからです。それだけのことです。そういう間違いは、地名だけのことではなくて、いろいろなこと、いや、すべてにおいて、どんなに間違えないようにしていても、間違う時には間違うんですね。しかし、そうであっても、自分が正しいと、自分を正当化しようとする時、間違うことが、自分にもあるんだと言うことを、知らずに、あるいは、知ろうとしないでいることが、神さまの約束された「羊は散ってしまう」ということに対する反応にも現れているんです。だから「羊は散ってしまう」に対して、ペテロは、ハイその通りですではなくて、「わたしはつまずきません」「決して知らないとは申しません」とあらがっていくんです。しかも返していく言葉を見ると、自分で自分を、神さまにはなり得ないのに、神さまみたいにしてしまい、自分が正しくないのに、絶対正しいとなっていくだけではなくて、自分が誰よりも偉い上位に立つ者だと言う勘違いを起こしてもいるんです。
それがこの言葉「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」です。ペテロは、イエスさまに対して、わたしはそんなことはありませんと、否定していますが、その時、「わたしはつまずきません」と、自分のことだけを言っているのではなくて、「みんながつまずいても」と、自分と他の弟子たちとを比較しているんです。つまりペテロは、自分には間違いがない、自分は正しいということを、イエスさまに対してだけではなくて、人と比べて、自分の方が優位であり、自分の方が正しいと、言っていくんです。さらには、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が2度鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」とイエスさまが言われたことに対しても、(31)力を込めて言い張った。言っただけではなくて、さらに強めて「言い張った」になって、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えていくことで、自分の正しさを益々アピールしていくんです。
それは、ペテロだけなのかというと、「皆の者も同じように言った」と続きますから、ペテロ以外の弟子たちも、ペテロと比較されて、ペテロだけが間違えないと言っていることに対して、負けていないんです。自分たちも、イエスさまのことを知らないなどどは、決して申しませんと、イエスさまに答えながら、ペテロにも対抗し、ペテロよりも優位に立とうとしているんです。
この構図は、チキンレースと似ています。チキンレースというのは、お互いに自分が正しいと、譲らない状態になり、どちらも、相手に負けなくないという思いで、相手よりも上に立とうとすることであり、相手から言われたら、こちらからも言い返したり、言われた方もまた言い返していく、あるいはやられたら、やり返していくということが、ドンドン積み重なって、お互いの溝はますます深まり、大きくなっていくものです。これは戦の原理でもあります。でもその時、お互いに、自分は正しいと思っていますし、相手は、正しくない、悪だ!という、論理、思考回路が出来上がってしまうんです。それで突き進んでいくと、お互いに益々傷つけあい、壊し合い、行きつくところは、お互いがお互いを滅ぼしてしまうんです。
イエスさまは、そこにストップをかけられるんです。これ以上エスカレートしないように、お互いを止めようとして下さるんです。では何をもって、どんな手段を使って下さるのかというと、イエスさまが十字架にかかるということで、です。しかも、人がイエスさまを十字架に追いやり、十字架につけていくんです。そういう意味でも、神さまの赦しは、人が犯した罪の責任を、イエスさまが取って下さったということだけではなくて、十字架のイエスさまの前に、ペテロも、弟子たちも、人々も、すべての人も、イエスさまにつまずき、イエスさまを見捨て、イエスさまを裏切っていくということを、それでも神さまは受け入れ、イエスさまも受け入れてくださっていたということでもあるんです。
そういう意味で、お互いに正しいと突き進んでいく、ペテロ、弟子たちが、イエスさまの十字架の前に、そして神さまの約束の言葉の前に、赦しの前に、優劣はなく、お互いに同じであるということではないでしょうか?それはペテロや、弟子たちが、全く同じ人間、同じ性格、同じ個性を持ったものに変わると言う意味ではありません。それぞれが異なるものを持ち、言っていることも、やっていることも違います。しかし、どんなに違っていても、みんな同じ立ち位置、誰もが赦された者となっていけるんです。
その具体的な1つに、イエスさまが、ゲッセマネの園で神さまに、「ひどく恐れてもだえ始め」苦しみの中で、祈られた時、「目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、弟子たちは皆、眠っていました。再び、目を覚まして祈っていなさいとおっしゃった時も、また眠っていました。ひどく眠かったんです。さらに3度目に、弟子たちのところに、イエスさまが戻って来た時にも、眠っていました。その時ペテロには、「シモン、眠っているのか」と問いかけながら、「心は燃えても、肉体は弱い、とおっしゃられるのは、人は弱い者だ、たといどんなに強がって見せていても、弱さがあるということを、眠っているシモン、弟子たちに語られるんです。この時、眠っているペテロをたたき起こして、「眠っているのか。」と語られたのではないんです。眠っているペテロに「眠っているのか」と語られるのは、眠っている時というのは、人が人として最も弱い姿であることと、その最も弱い姿を見せて、さらけ出しているのに、イエスさまは、そういう弟子たち、ペテロを責めないんです。ただ、イエスさまは、十字架の苦しみを前にした弱さの中で、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」すなわち、彼らの弱さ、彼らが眠っていることも、イエスさまは、十分であると、その弱さをも、受け取っておられるんです。
教団の津教会で戦時中から戦後にかけて牧師として奉仕された小島嘉兵衛という先生がおられました。ある時、通っていました教会の礼拝説教に来られたことがありました。中学3年生の頃だったと思います。その説教の中で、ご自分が神さまを信じてみようと思われたきっかけを、お話くださいました。それは、先生のお母さんが病床に伏されて、もう幾ばくも無いという中で、呼ばれて枕元に近づいた時の場面でした。その時、お母さんは、病床にあって、こうおっしゃられたのでした。「この苦しみは、イエスさまの苦しみを思えば、何でもありません。」それが大きな衝撃となって、そこからイエスさまを信じてみようと思われたと、おっしゃっておられました。前後の説教の内容は覚えていません。でも「この苦しみは、イエスさまのお苦しみを思えば、何でもありません」と言われた、その言葉は、ずっと残っています。
イエスさまが、弟子たちにいろいろおっしゃいました。でも弟子たちは、誰一人として、素直に受けとりませんでしたし、受け取れませんでした。しかしイエスさまは、それでも、弱さの中で、弟子たちを受け入れ、また弟子たちも、イエスさまが受け入れて下さったことを、眠っているという、最も無防備な、弱さの中で、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」と、受け入れ、赦してくださったイエスさまを、受け取っていたのです。そしてイエスさまは、神さまのご計画である赦しを完成させるために、十字架に向かって行かれるんです。
祈りましょう。
