2026年2月1日礼拝 説教要旨
よく聞きなさい(マルコ4:1~9)
松田聖一牧師
ラジオ体操と言う体操がありますね。この体操には、第一と第二がありますが、ラジオでもテレビでも、毎日、朝からやっていますね。ラジオは朝の6時半から。テレビであればEテレ、教育テレビで午前と午後の時間やっているかと思いますが、テレビのラジオ体操を見ると、1つの変化があります。それは、体操される方々の中で、椅子に座って体操されている方がお一人おられます。以前は立って体操される方だけでした。でもこの頃は、椅子に座ったまま体操ができるように、座ってもできるラジオ体操のお手本を見せています。きっと立ったままの姿勢がしんどい方のために、椅子に座ってもできるよ~ということで、視聴者に合わせておられるからだと思いますが、この体操を見ていると、手を開いたり、伸ばしたりしながら、姿勢を元に戻すということを繰り返しています。そしてこの体操を毎日やっているのは、毎日体操をやってほしいということと、毎日毎日繰り返さないと、身につかないことでもあるからです。それはそうですね。一回やったから、もうそれでいいというのではなくて、毎日同じことを繰り返さないと身に着かないものです。それは、ラジオ体操だけではなくて、他の体操でも、スポーツもそうですし、楽器もそうです。その他、何かの技術を身に着けていく時も、毎回基礎練習、トレーニングを、何度も何度も、同じ形、同じところに戻りながら、繰り返しています。
そのことが、イエスさまの「再び」という言葉に現れているんです。というのは、この再びという言葉には、繰り返して、もう一度、という意味と、元の通り、後ろへ戻って、という意味もあるからです。つまり、イエスさまが、「再び湖のほとりで教え始められた」のは、集まって来たおびただしい群衆に、神さまが何をおっしゃっているか?神さまの言われるその意味は何かということを、群衆に何度でも何度でも教えたい!と願っておられたということなんです。そのためにイエスさまは、いろいろなところに行かれたその先で、そのまま向こうに行ってしまうのではなくて、もう一度、湖に向きを変えて、湖のほとりに、何度も戻って来ているんです。
それはイエスさまだけではなくて、群衆もそうです。群衆も、何度も何度もイエスさまのところに、繰りかえし向きを変えて来ているんです。というのは、この「再び」という言葉は、イエスさまの、教え始められたとか、向きを変えて湖にもう一度戻って来られたという、イエスさまの行動にだけではなく、群衆にも繋がっている言葉だからです。その理由はというと、「教え始められた」には、〇がついて、「おびただしい群衆が」と続いていますが、実は、「教え始められた」は、〇で終わっているのではなくて、もともとの言葉を見ると、「教え始められ、そして、おびただしい群衆がそばに集まって来た」と1つの文章になっているんです。つまり、この「再び」が、イエスさまだけのことではなくて、群衆にもかかっているということになりますから、群衆も、繰りかえし、何度も、何度も向きを変えてイエスさまのもとに来ているということなんです。
それは群衆も、イエスさまが教え始められた、その教えの意味を、もっと知りたいと願っていたからではないでしょうか?もっと知りたいということは、もっとわかりたいということです。ということは、群衆にとって、イエスさまの教えには、分からないことがあるんです。だから、分かるようになりたい、もっと知りたいんです。そういう群衆だからこそ、イエスさまは「再び」何度も繰り返し教え始められたんです。
それはそうですね。分かりたい、分かるようになりたい!という思いと願いを持っておられる方が、目の前にいたら、イエスさまは教えたいと思います。それはイエスさまだけではなくて、教えると言う立場にある方々にとっても、学ぶ立場にある方にとっても、何度も何度も、繰り返し元に戻っていくのではないでしょうか?
ある夜間中学に通われている方がいました。60を過ぎて、中学に入学され、84歳で中学生でいらっしゃいました。その方は、家が貧しかったことで、学校でいじめに遭い、それが切っ掛けで、学校に行けなくなってしまいました。小中学校を卒業できませんでした。そのため読み書きができなくなりました。それでも仕事につかれ、結婚され、家庭が与えられましたが、自分には読み書きができないということで、仕事でも苦労され、ずっと劣等感を持っていました。そんな中、自分の名前を、自分で書けるようになりたい!と願われ、夜間中学に入学したのでした。そこで1から文字を習い始めましたが、お年を召されていたために、なかなか覚えることができません。先生も一生懸命サポートしてくださり、何度も何度も字を覚えようとしますが、うまくいかないこともしばしばでした。それでも、何とかして読み書きができるようになりたい!と願ったのは、いつも支えてくれた奥さんに、自分の字で手紙を書きたかったからでした。そして中学に入って、5年目、やっと手紙を書くことができ、それを奥さんに渡すことができました。奥さんはすごく喜ばれたとのことでした。その手紙を2回、3回渡して、4回目を書き終えて、渡そうとした矢先、奥さんが急に亡くなられてしまい、悲しい思いもされました。それでも学校を何とか卒業しようと思ったのは、これまで読み書きができない自分のために、本当に手となり足となってくれた奥さんへの感謝の思いがあったからでした。やがて卒業式を迎えた時、娘さんご家族が卒業式に来られ、初めての卒業式を一緒に祝ってくれました。それからこの方は、いろいろな理由で学校に通えなかった若い方々に、自分の経験を語るようになりました。その中で、初めて自分の名前を書くことができたときのことを、こうおっしゃっていました。「字を書いたり、読んだりできることは、ほんまに尊いことです!何でもないように見えることでも、字が読めるというのは、ホンマにうれしいことです!そのために一人でも勉強してもらえたらと思っています。」やがてこの物語が、「35年目のラブレター」という映画となりました。
分かるようになりたい!もっと知りたい!それがこの群衆です。でもすぐにイエスさまのおっしゃっておられることが分かったかというと、分からなかったんです。分からないと、どういうことなのか、分かりませんから、迷うこともしばしばだったのではないでしょうか?そういう意味で、群衆は、イエスさまから学べることの幸せを感じながらも、それこそ紆余曲折、困難と忍耐が求められることもあったでしょう。
それは、イエスさまの語られる種蒔きの譬えにある、いろいろなところに蒔かれた種にも、通じる事ではないでしょうか?
なぜかというと、種を蒔く人によって蒔かれた種にとっては、芽が出て、花が咲いて、実が実るということが、そもそも種に与えられた目的です。それなのに、道端に落ちて、鳥に食べられてしまうということは、鳥にとっては、美味しい、美味しいですが、蒔く人にとっては、また種にとっても、蒔かれた種が、そこから取られて、なくなってしまうことですから、挫折です。こんな具合の悪いことはありません。その挫折は、「石だらけで、土の少ないところに」落ちた種にとっても、そうです。すぐに芽を出しても、日が昇ると焼けて根がないために、枯れてしまったということは、種の成長が止まってしまったということですから、種本来の目的を果たしたことにはなりません。また茨の中に落ちた種も、せっかく芽が出て伸びても、茨が伸びて、覆いふさがれてしまい、実を結ばなかったことも、これもまた挫折であり、残念な結果です。そういう意味で、道端に落ちた種も、石だらけのところに落ちた種も、茨の中に落ちた種も、せっかく蒔かれた種なのに、うまくいかなかった!という挫折が続いているんです。
しかし、イエスさまはそれで終わりにしないんです。なぜならば、「また他の種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは百倍にもなった」と、おっしゃられる中の、「また他の種は」という言葉の意味は、食べられてしまう種、枯れてしまった種、茨で覆いふさがれてしまう種とは、違う別の種ということではなくて、それまで挫折ばかりを繰り返していた、ところから、全く新しい逆転劇が始まるという意味で、「しかし、そうではなく、それどころか逆に」ということなんです。
つまり、どんなに挫折だらけであっても、どんなにうまく行かなくても、何も結果を出せなかった、何もできなかったとしても、その度毎に、辛くて、悲しい思いになったとしても、イエスさまは、そのままにされるお方ではないんです。それで終わりではないんです。それどころか、逆に、その種が、種として最もふさわしい姿、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結ぶこと、30倍、60倍、百倍にもなって、実を結ぶ種に変えて下さると、約束してくださっているんです。
1粒から、30倍、60倍、100倍ですから、これはすごいことですね。種にとっても、種を蒔く人にとっても、思いがけないこと、驚きそのものです。そういう種としてくださったイエスさまが、「良く聞きなさい」とおっしゃられるのは、その種を、私たちも、イエスさまから与えられていること、その種を、受け取っているのだから、だからこそ、その種を、どう用いていくのかということを、イエスさまは、良く聞きなさいと問いかけておられるんです。
ある画家の方が、ラジオのインタビューで、ご自身のことを振り返りながら、こうおっしゃっていました。
洗礼を受けたのは、パリに出発する前の29か30歳の時です。一番大きなきっかけは母の死でした。いかに自分が親不孝だったかと、あの時は参りましたね。どっかに救いがないかと・・・・。僕、キリスト教は大嫌いでした。けれど、教会に誘ってくれる人がいて、何回か通ったその帰り道のことでした。傍らに竹藪があるんですよ。それがザワザワって風で鳴っているんですね。その時、ある聖書の言葉が聞こえて来たんです。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである」と。その時に「そうか」と思った。自分のことを信じられないような自分が選んだ宗教なんて信じられませんからね。ところが、「あなたじゃない、わたしだ」というわけです。だから信じられると思った。もしあの時、信仰がないままで画家を目指してパリに行ってたら、逃げ帰ってましたね。支えられたのは、やっぱり信じるものがあるからです。自分を捉えて自分を生かそうとするものがいたからです。そしてパリでは日本人の留学生のための集会をしました。「トドの会」っていう、自宅でカレーを振舞う集会をしてたんです。段ボールを机にして、椅子も買えないから、来た人は床でゴロゴロして、トドみたいに、日本人もフランス人もいてね。食事は全部僕持ちで僕が作りました。みんなお金のない人達だから。会はまず私が御言葉を自分の身の回りの経験から話しましてね。どういう言葉を彼らは求めているのか、祈りましたね。本当にこの人、命断つんじゃないかってギリギリの人もいましたし。ともかく僕は迎えようと、ただそれだけでした。そして皆でカレーを食べて。30何年つづきましたね。クリスチャンではない方も誘ってくれたりもして、多い時は30人を超えていました。
そして、その画家の方は、アナウンサーからの「苦しい時にはどんな御言葉で立ち上がらされたんですか」に、こう答えておられました。
「強く雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」ですね。恐れてばっかりでしたね。でもやっぱり御言葉ってすごいですよ。目には見えないけど、エネルギーが来ますからね。絶望が砕かれるんですね。だから自分に与えられたタラントをきちんと受け取って、いつもそれにどう応えるんだ?って問われてる気がします。「怠け者よ、アリを見よ」って言われている気がします。苦しい中で苦しいって言えるというのは素晴らしいです。その中で支えているのが信仰ですよね。根底で、「恐れるな」って言ってくれてますもんね。
カレーを作ることが種であれば、カレーを作ったらいいんです。あるいはカレーでなくても、自分では大したことではないと思っていることであっても、与えられているものを、使っていけばいいんです。使えば使うほど、それに見合う必要が、必ず与えられていきます。時には、使ったら減るんじゃないか?と心配になるかもしれません。でもそうではなくて、使えば使うほど、増えていくんです。なぜならば、わたしを選んでくださった神さまだから、どんなに辛い時でも、恐れることがあっても、それでも前に向かって進んでいけるように、わたしを選んでくださった神さまが、その時、その時に、必要なものを、私のために選んで、与え続けて下さるんです。そのことを、良く聞きなさいと、イエスさまは、繰りかえし、繰りかえし、何度も何度も、私たちに与えて下さいます。その時、1回聞いたら、それで終わりではなくて、何度も何度も、イエスさまの元に戻って、聞き続けていくんです。
祈りましょう。
