2025年12月7日礼拝 説教要旨

人の正しさ(マルコ7:1~13)

松田聖一牧師

 

初めて聞いた時に、びっくりした言葉がありました。それは「やばい!」ということを、高校生の子たちがお互いに友達同士で、話しておられるのを耳にしたことでした。それまでやばい!というのは、何か怖いと感じるものや、感じることに対して、やばい!と言っていたのが、今は、全然違う意味になっていますね。ご飯がおいしいと言う時も、「やばい!」とか、「やば!」と言っていますね。何か凄いことでも、「やばい!やば!」です。びっくりした時にも「やばい!やば!」と、何に対しても、使える言葉になっています。そういう意味で、この頃の若い方々が使う言葉は、どんどん短くなっていると思いますが、やば!だけではなくて、「ありがとうございます」もそうです。では、何というかというと、「ありがとうございます」は、「あざす!」です。その他にもいろいろありますが、そういうやばいとか、やば!とか、あざす!といったことを、それまでとは違った意味で、あるいは使い方で、使い始めた時、最初に使い始めた人が、必ずいます。それを誰が、またいつ、どこでなのか、誰に対してなのか?は、分かりません。でも誰かが、最初に言い始めた時、それがいいとなって、それが広まり、今日に至っているわけですね。

 

それは、ユダヤ人が皆、念入りに手を洗ってからでないと食事をしないということに関しても、です。まずはここで、念入りに手を洗うこと、洗わない手では食事をしないという意味と目的を確認しましょう。1つは、食事の前に、念入りに手を洗うということは、衛生面で、それが必要だということと、そして日常の手から清めると言う意味があります。ただ、当時の手を洗う水が、本当に清潔であったかというと、荒れ野が広がるところでわき出る水は、水道水のような透明な水ではありません。オアシスにある水は、確かに水ですが、泥水のような濁った水です。それで念入りに手を洗うということが、果たして手が綺麗に、清潔になるのか?というと、逆に汚れてしまうのではないでしょうか?しかしその一方で、そういう水であっても、手を洗うということが、清めるということになりますので、現実は、より汚れてしまうような水であっても、その水で手を洗うことで、清めることになるんです。そのことを、どれくらい昔の人だったのかは分かりませんが、昔に生きた人の、誰かが、最初に念入りに手を洗ってからでないと、食事をしないということを決めて、言い始め、そのことを聞いた人々も、しっかりと固く受け継いで、守り続けていくんです。

 

それは手を洗うということだけではなくて、「市場から帰って来たときには、身を清めてからでないと食事をしない。」ことや、「そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど」も、清潔にし、清めるということから来ています。しかし、そこで使われる水も、綺麗ではありません。泥水に近いものです。だからそういう水で、杯や、鉢、銅の器、寝台を洗うことによって、手と同じように、ますます汚れてしまいますし、病気の原因となるようなばい菌も、ついてしまうのではないでしょうか?その結果、伝染病が流行ったり、それで命を落としてしまうということが、あったと言えるでしょう。

 

ですから、衛生面で清潔な水にしようとすれば、その泥水のような水を、何度もろ過して、その水を沸かして、沸騰させるくらいのことをしなければならなくなります。そういう意味では、水で洗うのはいいけれども、どんな水で洗うのか?ということが、ないがしろになってしまうと、どんな水でもいいということになりますから、意味としては、手を清めるとか、身を清めることになるとと言っても、現実は、それとは真逆のことが起きてしまうのではないでしょうか?

 

それなのに、昔の人の言い伝えとして、それを受け継いだ人々は、徹底的に守り続けて来たんです。そのことが、「固く守っていること」すなわち、つかんで、握って、すがりついているということであり、それらのことが「たくさんある」ということですから、誰がどこで言い始めたのかは分からなくても、それを聞いた人たちは、他にも固く守り続けていたことがたくさんあるんです。

 

それがファリサイ派の人々と、数人の律法学者たちの中にもあったので、イエスさまの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるというところに目が向くんです。そこでイエスさまに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と、尋ねていくのですが、彼らが指摘する、手を洗わない手が、汚れた手なのかというと、洗うことで汚れてしまう手になったら、洗うことで汚れてしまうのに、洗わない手が汚れた手だ、という意味を、どう説明するのでしょうか?洗うことは、清めると言う意味そのものです。しかし実際の手を洗えば洗うほど、清められるどころか、洗えば洗うほど汚れていきますから、そこに矛盾が出てしまいます。

 

つまり、昔の人の言い伝えを固く守っていくというのには、手を洗うとか、身を清めるとか、杯、など洗うということだけではなくて、誰かは分からないけれども、昔に、こうしなければいけないと言ったことを、固く守っていくことによって、本来の意味と目的から離れてしまうこと、最初はそれでよかったとしても、時を経ていく中で、矛盾が生じてしまうということは、他にもいろいろあるのではないでしょうか?

 

でもそれに縛られ続けていくと、こうあらねばという人が言ったことに、自分自身も、こうあらねば、そうすべきだというところに縛られ、守り続けていくことになり、その結果、いつしか昔の人が言ったことを、その通りにすれば、それでいいんだ、という形だけのものになってしまうのではないでしょうか?イエスさまはそのことを、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」さらには、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と言われるのは、彼らが固く守っていると言う意味は、昔の人の誰かが言ったことであっても、それは昔の人の言い伝えから、自分のための、自分の言い伝えに、自分の中で変えてしまっているということになり、それを固く守っていても、実は、惰性でやっているだけだ、言葉だけ、言っているだけだということを、指摘されるんです。

 

惰性ということは、昔の人が言ったから、そうなっているから、そういうものだから、いうものに、自分の中で変えてしまっています。その結果、心がこもっているものになっているのかというと、そうではなくなってしまいますね。惰性になり、心がこもっていないということは、いろいろあると思います。

 

例えば、今日は午後から伊那フィルの演奏会に、向かいますが、オーケストラの皆さんが、心ここにあらずという、演奏をしていたら、どうでしょう?もちろん、そういうことにはなりませんが、心がない演奏は、すぐにばれます。それは演奏だけではなくて、讃美歌もそうしてしまうことがあるかもしれません。ただ歌うだけでいいという、形だけになってしまったら、神さまに向かっての讃美と感謝から離れてしまいます。でもそうではないですよね。讃美歌の歌詞を味わっていただくと、どの讃美歌も味わい深いです。今日の礼拝の最後に賛美される29番も、そうです。「天のみ民も、地にあるものも、父、子、聖霊なる神をたたえよ。とこしえまでも。」も、神さまと共に天にあるたくさんの神さまのもとに召された方々も、そして地にあるものも、神さまを、とこしえまでもたたえよ、です。その通り、天国での賛美は、本当にと言いますか、凄い讃美だと思います。天国に行かれた方々は、惰性では決して歌ってはおられません。すべてをささげ、全身で、すべての心で、歌っておられます。その天国で讃美歌を歌う、たくさんの方々の讃美と、祈りに支えられて、何よりも今ここにある私たちを、神さまが、守り支えて下さっているからこそ、「神をたたえよ。とこしえまでも。アーメン」と、毎週、毎週、守られ、ささげられている礼拝は、天国におられる方々と共にある礼拝であり、天国からも応援いただき、支えられています。だから惰性にはなり得ません。

 

しかし、現実には、いろいろなことで惰性になってしまうことがあるでしょう。形としては守っているかのように見えても、心がそこにはないという時、形だけすれば、形だけ言えば、それでいいという、そういう「自分の言い伝え」に変えてしまうこともあるかもしれません。それによって、神さまの掟、神さまがその掟、決まりを与えられた、本来の意味と目的から離れてしまうこともあるでしょう。

 

だからこそ、イエスさまは、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルパン、つまり神への供え物です」と言えば、と、そう言ったら、それでいいんだ!というものに、自分の中で変えてしまうこともある、その姿が、「神の言葉を無にしている」とはっきりおっしゃるんです。それでもイエスさまは、昔の人の言い伝えを固く守り、それを、こうあらねば、こうすべき、あるいはこう言ったら、それでいいという、自分の言い伝えにしてしまうこと、それを正しいと思ってしまうこともある、そんな私たちであったとしても、神さまは、神さまの言葉、命の言葉を語り続け、与え続けてくださいます。そこに神さまの愛が現れ、与えられているんです。

 

ある新聞の声の欄に、こんな投書がありました。「真顔で『忘れるはずない』認知症を患う夫は食欲が旺盛で、食べたい料理を私にいろいろリクエストする。それに応えて作ると、リクエストしたことを忘れて「俺の好みの味をよく分かってくれている」と喜ぶ。だが、時間が経つと食べたことを覚えていない。そんなある日、私はぽつりとつぶやいた。「そのうち、『あんた、誰や?』と言われそうやなあ」すると、夫はすかさず「世界一愛しているのに、忘れるはずがない」と真顔で言った。私は夫からの思いもよらない言葉に、大笑いしながらも、目頭が熱くなった。

 

神さまの愛は、たとい私たちが、その愛を忘れてしまうことがあったとしても、そういう私たちをも、世界一愛してくださり、忘れるはずがない、んです。神さまの愛は、昔の人の言い伝えも、自分の言い伝えも、それを固く守ることを越えて、私たちに与えられ、生きて働くんです。惰性では決してありません。

 

祈りましょう。

説教要旨(12月7日)人の正しさ(マルコ7:1~13)