2024年6月23日礼拝 説教要旨

畑を見るがよい(ヨハネ4:27~42)

松田誠一牧師

 

ある一人の高校生が、全国の高校の校則を調べて、そこに協力くださる方と一緒に、全国の高校校則を、自由に見られるようにしようとしています。その切っ掛けと、その作業の中で、気づいたことを、次のようにおっしゃっています。

 

校則に関心をもったのは、中学生のとき。「登下校のときの靴の色は白のみ」「学校から帰宅後、午後4時までは自宅から外出してはいけない」当たり前のようにあった、こんな校則を疑問に感じたからです。「午後4時まで外出禁止の『4時禁ルール』のために、部活がない日は、先生たちが生徒に念押ししたり、校外パトロールをしたりしていました。でも正直、意味がわからなかった。本来なら学校が責任を負わなくてもいいはずの放課後の過ごし方にまで、あえて踏み込むのはなぜなんだろう、と不思議でした。・・・校則を変えるプロセスが不明なこと。「校則を変える校則がないんです」一般的な契約書や利用規約では、契約や規約の変更に関する項目が必ずあります。しかし、ほとんどの学校の校則にはその項目が見当たりません。生徒会で決めればよいのか、校長に決定権があるのか、教育委員会や保護者に働きかけが必要なのか。校則を変えるために必要なプロセスがあらかじめ開示されていない状態なのです。

 

ここで語られている通り、その学校の決まりだけではなくて、一般的にも、その決まりを誰がどこで、変えることができるのか、その項目が、ないということは、決まりとしては、実は成り立たないものです。

 

そういう視点で、4章9節にある、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」は、書かれている決まりではなくて、誰かが、どこかの時点で、それなりの理由で、言い始めたものに基づいたものです。それは、口伝律法と呼ばれるものですから、その決まりにはもちろん、誰がどこで変えることができるか、という項目はありません。それは決まりとしては、誰が責任を持っているのか?その責任の所在がはっきりしませんから、そもそも成り立ちません。しかし、それが、一度決まりとして決まってしまうと、みんなで守らなければならないという空気が生まれてしまうのです。そういう決まりが、口伝のままではなくて、聖書に、「交際しないからである」と、はっきりと書いてあるということは、神さまが、目には見えない口伝えの、誰がどこで決めたのか、またいつどこで変えられるのか存在しない、ある意味では無責任な決まりを、はっきりと現わして、目に留めておられるということなんです。

 

そして、その決まりによって、ユダヤ人とサマリア人とは交際しないということを、その通りしないといけないという、圧力が、弟子たちにも、かかっていることに、神さまは目を留めておられるのです。

 

この圧力とは、同調圧力と言っていいでしょう。一般的に、同調圧力は、1つの集団の中で、みんなで同じ意見や、行動をしなければならないといった、心理的圧力です。その結果、個人が他人と意見を合わせるように誘導させられてしまい、集団の中で、その人らしさという、個性が消えてしまうのです。その結果、自分の気持ちといったことが出せなくなってしまい、一斉に同じ方向に向けられやすくなってしまいます。だからその集団の中にいる一人一人には、そんなことは思っていないのに・・・そんなことはやりたくないのに・・・という思いがあったとしても、周りの意見に合わせなければいけないとか、みんなと同じように行動しなければ・・というプレッシャーに従ってしまうのです。それは別の見方をすれば、その決まりの内容にそうだそうだと同意しているのではなくて、そうだそうだと同意し、納得できない者もいる集団に、自分が流されて。負けてしまっているとも言えるでしょう。

 

それは、弟子たちだけのことではありません。私たちにも同じことがあるのではないでしょうか?

 

この4年間でマスクが普通になりました。この頃マスクもファッションの1つになっていますが、今は、つけても、つけなくても、どちらでもいいことになっています。先日所用で神戸に行きましたら、マスクをしている人をほとんど見かけませんでした。満員電車でもマスクをしている人はほとんどいません。そういう中で、自分一人だけマスクをしていると、なんだか自分だけが目立っているような感覚になりまして、恥ずかしいような、自分だけ違うというなんだか変な気持ちになります。その時、着けていていいのか?外した方がいいのか?と感じながら、こちらに帰ってきますと、だいたい皆さん、つけておられる。歩いている人もつけています。そうすると、自分だけじゃないということで、安心するのです。不思議です。場所によって、こんなに違うのかと思いますが、いずれにしても、マスクだけではなくて、全体がそうしないといけない・・という空気になりますと、みんなと一緒じゃないといけないという思いに縛られてしまい、そこから外れることが、なかなかできなくなります。それは結局、みんなと一緒じゃないと・・・という空気、そうしているみんなという集団に、自分が負けてしまっているのです。

 

だからイエスさまの方から、サマリアの女性と関わり、彼女に話をしておられるだけではなくて、同じ水を汲む物から、「水を飲ませてください」と願っていることに、弟子たちは「驚いた」驚き怪しみ、不思議に思っているのです。それは、イエスさまが交際しないという決まりを破っていると、受け止めていたからでしょう。イエスさまが一人、周りと全く違うことをしていることに対して、イエスさまの弟子として、どうふるまったらいいのか、分からなくなってしまったのではないでしょうか?

 

その時、単刀直入にイエスさまに、意見具申する弟子は誰もいないのです。ただですね、「しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった」とありますから、弟子たちは、イエスさまがなさったことに対して、何か御用ですか、何をこの人と話しておられるのですか、ということを「言う者はいなかった」だけであって、彼らの中には、そういう思い、疑問があるのです。ところが、それを口に出してはいないのです。

 

しかし彼らは、イエスさまの弟子ですから、弟子として、感じていることをイエスさまに言ってもいいのではないでしょうか?イエスさまに、言ったらいけないという決まりはないし、イエスさまは、彼らの疑問を何でも聞いて下さるお方です。それなのに、どうして思っているだけで、言わないのか?そこにも、思っても言ってはいけないのではないか?イエスさまには、何も言うべからずという決まりを、彼らが作ってしまっているのではないでしょうか?そしてそれが彼らの中での同調圧力のようになっているのではないでしょうか?

 

そう言う意味で、弟子たちのこの姿は、何にでも縛られてしまうことを示しているのではないでしょうか?別の見方をすれば、どんなものでも、人を縛る可能性があるということです。人は、人を縛るものを、自分たちで作りあげてしまうことがあるのです。

 

その中で、イエスさまは、縛られていないのです。とらわれていないのです。そしてイエスさまに出会った、サマリアの女性も、自分を縛っていたものから解放されているのです。そして、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と、町に行って同じサマリア人の人々に、イエスさまを、さあ、見に来てくださいと語るのです。その結果、その人々も、「町を出て、イエスのもとへやって来た。」とある通り、ユダヤ人はサマリア人とは交際しないという決まりから解き放たれているのです。そして、イエスさまが神さまだということを知って、神さまであるイエスさまと向き合っていくのです。そして神さまと共に歩んでいくのです。

 

でも弟子たちは、交際しないからである、に縛られているのです。その結果、この言葉「ラビ、食事をどうぞ」です。これは丁寧に、イエスさま食事をどうぞと言っているのかというと、自分たちが町へ買いにいったその食べ物を、あなたが食べなさいと、イエスさまに命令し、イエスさまを自分たちが縛ろうとしているのです。これもイエスさまに対する同調圧力です。

 

それに対して、(32)イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。」弟子たちが知らない食べ物があるとおっしゃられるのですが、「あなたがたの知らない食べ物」とは何でしょうか?イエスさまは、その食べ物の名前など、何もおっしゃっていません。ただ「あなたがたの知らない食べ物」だけです。でも、それは食べることができる物であることと、同時に、この「食べ物」には、さびとか、さびつきとか、腐蝕(ふしょく)という意味もあるのです。

 

さびるということは、それが鉄であれば、赤茶色になり、穴が空いたり、その部分が弱ってしまい、次第に朽ちていきます。それは金属だけではなくて、体や頭のことでも、能力・働きが鈍くなってだめになるという意味でも、からだがさびてきた~ということも言われます。そういう金属がさびるというのは、ほとんどの金属に言えることですが、水と酸素と結びつくからです。鉄であれば、赤に、10円玉にも使われている銅は、緑色に変わります。それによって、先ほど触れました、金属が弱って、穴が空いたり、朽ちていくのですが、それ以上に、さびる目的は、鉄でも銅でも、他の金属も、もとの状態に戻りたいから、だからさびるのです。鉄であれば、鉄鉱石に戻りたいのです。だからさびるのです。

 

それが、あなたがたの知らない食べ物の意味なのです。その食べ物は、確かにイエスさまがおっしゃった通り、弟子たちは知らないんです。しかし知らなくても、その食べ物を食べることによって、弟子たちは、縛られたり、縛ったりすることのない、神さまから与えられた元の状態に戻ることできるのです。そのための食べ物が、神さまから、イエスさまを通して、与えられていくのです。

 

そのためにイエスさまは、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と、神さまが成そうとしている意図、思い、遣わした方のみこころを、弟子たちがどう自分を縛っていたとしても、また弟子たちにどんなに欠けがあり、足りないところがあったとしても、欠けたところのない、整ったものに、必ず完成し実現し、元の状態に必ずしてくださいます。

 

それは、私たちも弟子たちと同じですね。かけたところがありますね。どんなに努力しても、自分でもどうにもならないことがあります。力不足を感じ、何もできなかった自分を責めてしまうこともあるでしょう。自分がダメなものだと、自分をダメというもので縛ってしまうこともあるのではないでしょうか?しかし、イエスさまを通して、神さまからのその食べ物を受け取った時、どんなに足りない者であっても、欠けたところがあっても、欠けたところのない、整った元の状態に戻して下さいます。そして神さまから、神さまの命が与えられ、神さまと共にある本来のわたしに戻ることができるのです。

 

「たいせつなきみ」という絵本があります。

 

この本にパンチネロという一人の人形が登場してきます。パンチネロは、他の人形とは違って、不器用で、何をさせてもうまくいきませんでした。それで周りからは、ダメだ、ダメだと言われ続けていました。その度毎に、ダメダメシールが、周りから貼られてしまうんです。それが次から次へと、貼られてしまうので、パンチネロはダメダメシールだらけになっていました。そうなると、パンチネロは、自分は何をしてもダメなんだと、落ち込んでしまいました。何をやってもダメ、何をやってもうまくいかない・・・自分には何も価値がないのではないか?何もできないんじゃないか?そう思いながら、とぼとぼと、自分を作ってくれた作り主のおじいさんのところに行きました。扉を開けて中に入ると、ずいぶん貼られたね~と、パンチネロを作ってくれたそのおじいさんは、ねぎらいながら、こう言われたのでした。「僕は、君のことをダメだなんて思っていないよ。僕にとって君は大切なものだよ。ダメじゃない!なぜなら、君は僕の大切な作品だから~君は、大切なものだよ」と励ましてくれるんです。しばらくしてパンチネロは、そのおじいさんの家を出たその時、何だか、心がふっと軽くなったような気がしました。君はダメなんかじゃない!君は大切な者なんだよ~僕の大切な作品だからだ~その言葉を思い出した時、パンチネロの体に張られたダメダメシール1つが、ポトンと地面に落ちたのでした。

 

自分でダメだと縛ってしまう時があります。そして自分に向かって、ダメダメシールを貼ってしまうこと、引き寄せてしまうこともあるのではないでしょうか?そんな私たちであっても、神さまは、ダメじゃない、大切なものだと、いつもおっしゃってくださっています。それは神さまから与えられます。だからこそ、神さまを見上げていくことなのです。

 

そのことを、イエスさまは「目を上げて畑を見るがよい」とおっしゃっいます。それは4カ月後ではありません。たとい私たちが、今ではない、まだ駄目だと思っても、イエスさまにとっては、4カ月後ではないのです。今です。今、色づいて収穫されること、そして食べてもらえることを、待っておられます。

 

神さまの命を受け取ってほしいから、食べてほしい、いただいてほしいから、今、収穫されることを待っています。

説教要旨(6月23日)