2022年5月15日礼拝説教要旨

あなたがたの喜び(ヨハネ15:1~11)

松田聖一牧師

 

以前遣わされた教会に、ブドウの木がありました。そのぶどうの木は小さくまとまっていて、よく見ますと、ぶどうから出るツルも、自由に伸び放題という感じでした。ところがその伸びたつるも、支柱などがありませんでしたから、それ以上伸びようがありませんでした。そのために、そのつるはこれから伸びようとするツルに、からまっていたり、あるいはぶどうの幹や、ぶどうの葉に絡みついていて、ちょうど毛糸が絡まったような感じで、ちいさくまとまっていました。そこでツルを一本一本ほどいていって、支柱に巻き付けたり、枯れてしまっている枝を払い落したり、つるに絡みついた葉っぱも落として、風通しを良くしてみました。それからしばらくすると、つるが一斉ににょきにょき伸び始めました。そして支柱に絡ませたり、柱に絡ませたりしますと、ますます伸びていきました。やがて花が咲き、ブドウの実が次から次へとついていきました。びっくりしました。あんなに小さくまとまっていたブドウの木だったのが、枝を落としたり、風通しを良くした途端、こんなに実がなるんだ~と思いました。早速ブドウを食べたわけですが、そこは売っているぶどうとは違い、酸味のあるぶどうでした。でもこの出来事を通して、ああブドウの木もしどかったんだな。ツルも伸ばしようもなく、絡みついて苦しかったのかもしれないと思いました。

 

手入れをするというのは、そういうことですね。余分な枝を払い落したりしながら、風通しを良くすることで、それぞれに太陽が良く当たるようになると、ブドウの木は、苦しかった状態から解放されたかのように生き生きとなります。それはぶどうだけではなくて、いろいろな作物、果物が大きくなり、実をたくさん結ぶようになるのには、そういう手入れは必要だ、ということを、ブドウを育てたことがなかった私に、見せてくれた出来事でした。

 

イエスさまがおっしゃられる「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」こと、そして「実を結ぶものは、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」ということは、本当にその通りです。実を結ぶものだからこそ、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをされるんです。

 

ただ取り除かれるとか、手入れという言葉だけを捉えて、それだけを見たら、丸裸のようになってしまった~と思われるかもしれません。確かにそういう作業をします。ここまで切り落として大丈夫か?と思えるほど取り除き、手入れをすることはぶどうだけではなく、他のくだものの木でも、他の作物でもあります。

 

今畑には、いちごを植えていますが、いちごのわきから何本も、つるが出てきています。それは子孫を残すためだと教えていただきましたが、それを伸ばしたままだと、これから実るいちごに栄養がいかなくなって、良く実らないから、のびたツルの先を切ってしまったらいいということで、今、いちごから伸びた、つるの先を手で切り取っています。そういうことを知らない時は、わきから伸びたつるは、そのままのばしておいたら、またそこにいちごの花が咲いて、実がついて、よりたくさんのイチゴが出来ると思っておりましたが、実はそうではないということを、体験と言いますか、経験させていただいています。

 

取り除き、手入れをすること、それだけを見たら、せっかくここまで伸びたのに、なぜ取り除くのか?なぜ手入れをするのか?と思うことです。私も切り取るものだということを知らなかった時には、そう思いました。取り除いたり、手入れをしたりすると、その時は何かしら寂しくなりますし、そこまでしなくてもいいのではないか?と思ったり、あるいは取り除かれ、手入れされることで、せっかくあったものが失われるように受け取ることかもしれません。

 

でもそれは、ただ取り除くことや、手入れをするということが目的ではなくて、もっと豊かに実を結ぶために、「わたしの父」すなわち父なる神さまが農夫として、取り除き、手入れをされるのです。

 

そして別の角度から、取り除くこと、手入れをするということを見る時、その必要が出て来るのは、ぶどうの木に繋がっているからこそ、実を結ばない枝が出て来るし、繋がっているからこそ、余計な葉っぱなど、ブドウの実をいよいよ豊かに実らせるのに、差しさわりのあるものが出て来るからではないでしょうか?

 

そもそも、ぶどうの木と枝の関係は、枝がぶどうの木に向かって枝を伸ばして、そして木に繋がるのではないですね。枝が先にあって、それが木になるのではなくて、木があって、その木から枝が繋がって出て来るということです。つまり、イエスさまが「わたしにつながっていなさい」とおっしゃられる時、イエスさまにつながろうとするぶどうの枝が、まずあるのではなくて、ぶどうの木であるイエスさまが、イエスさまの方からつながっていてくださるからこそ、枝があるのです。そして、イエスさまに、つながりながらも、余計な枝、いろいろな枝が、出て来るんです。「わたしにつながっていながら」という意味はそういうことです。だからそれを、取り除き、手入れをされるのです。

 

それはぶどうの木に対してだけではなくて、「わたしにつながっていなさい」とおっしゃられる私たちのためにも、手入れをされるのです。その時、つながっている、実を結ばない枝が取り除かれ、枝が切られていくことですから、それだけを見れば、切られます。手入れをされ、取り除かれます。それだけを見れば、大変痛いことですし、苦しみを伴うことかもしれませんし、あるいは失うと感じることかもしれません。

 

でもそれは、つながっているからです。私たちの方から枝を伸ばし、イエスさまに繋がろうとしたから、繋がっているのではなくて、ぶどうの木であるイエスさまの方から、私たちにつながっているからこそ、枝が伸び、時には、余計な枝、豊かに実を結ぶということを阻害するもの、が出て来るのです。けれども、それはイエスさまにつながっていること、繋がり続けることで、出て来るものであり、その余計な物は、神さまであるイエスさまの手で、取り除いて下さるということではないでしょうか?

 

ちょうどそれは絡まった毛糸がほどかれることと似ています。絡まった毛糸を、絡まった毛糸自身で、ほどけるかというと、ほどけませんよね。ほどいて、解き放つことができるのは、絡まった糸自身ではなくて、絡まった糸の外から、人がそれを一本一本ほどいて、玉になってからみついてしまっているものを、一つ一つ解きほぐし、解き放ってくれるからこそ、ほどけていきますよね。

 

イエスさまがしてくださるというのは、そういうことではないでしょうか?そして、その意味と目的が「いよいよ豊かに実を結ぶため」です。イエスさまの方からつながっていてくださる私たちから、いろいろと出て来るものが、取り除かれ、切り取られる時、もっと豊かに実を結べるものに、光が当てられていくのです。あるいは、いよいよ豊かに実を実らせることのできるものが、それを阻害するものを取り除くことによって、初めて日の目を見るということです。あるいはいろいろなものが絡みついてしまった状態から、苦しみからも、悩みもそこにあるかもしれません。それらのものから解き放ってくださるのです。

 

でもそれがなかなか分からないことも多いです。イエスさまの方からつながってくださっているということに気づかないこと、気づけないことも多いです。それはそうですよね。神さまであるイエスさまは目に見えないし、つながっておられるとか、あるいはつかんで握ってくださっているということが分からないことも多いです。

 

だからこちらから一生懸命につながろうとしないとつながれないとか、イエスさまに向かって、こちらから手を伸ばしていかないとつないでくれないといったことや、こちらから何かをしないと、私が何かをしないと神さまであるお方はつながってくれないのではないかと思われるかもしれません。そして取り除き、手入れをすることも、絡みついたいろいろを自分の力で何とかしようとしてしまうのではないでしょうか?

 

しかし、そもそもイエスさまは目に見えません。目に見えないから、特に初めて教会に来られた方にとって、イエスさまという言葉を聞いた時、どっちにおられるのか?どっちに向かって拝めばいいのか?という問いが出てきます。

 

教会に初めて来られた方からこんな質問をいただきました。十字架にお尻を向けていいんですか?十字架に足を向けていいんですか?いえいえ、十字架はご神体ではなくて、シンボル、象徴ですから、大丈夫です~ああそうですか~じゃあどちらを向いて拝んだらいいんですか?どちらを向いてもいいですよ~いつも一緒にいてくださるから、いつでも、どこからでも、いいんですよ~と申し上げると困った顔をされるんですね。どっち向いていいか分からない~どっちでもいい?そんなやり取りがありましたが、やがて導きの中で、どこにいても、いつでもイエスさまにお祈りできるんだ~ということに気づかれ、受け取られていかれました。

 

どっちをむいたらいいのか?という時、それは自分が基準になっていますね。自分をまずここに置いて、そこからイエスさまというお方にどう向かっていけばいいのか?ということを考えてしまうと思います。つながるということもそうです。わたしからつながらなければ・・・いけないのではないか?という時、つながりの中心は、私になっています。けれども、イエスさまは、イエスさまの方から、私たちに向かって、手を伸ばし、つながってくださっているのです。こちらから先につなごうとしたから、つながってくださるのではなくて、まずイエスさまの方から繋がってくださっているのです。そのイエスさまからのつながりがあるからこそ、つながることができるのです。

 

だからこそ私たちの方では、いろいろあって、紆余曲折あっても、イエスさまから離れてしまった時があっても、イエスさまに何でも望んだらいいのに、何でも願ったらいいのに、そこから離れてしまうことがあっても、イエスさまの方から繋がり続けて下さっているイエスさまは、いつも「わたしもあなたがたを愛してきた」神さまがわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛してきたと、繋がってくださっているイエスさまの方から、いつもあなたがたを愛してきた~と、どんな時でも、大切にし続けてくださっていること、大切に、いよいよ実を豊かに結べるように、どんなときにも大切にし続けてくださっていることが、分かるように、わたしたちを手入れし、取り除く必要があるものを、取り除いてくださり、苦しかったことからも解き放ってくださるのです。

 

先日、記念会が持たれました。4月、5月と、先に天に召された方々のことを覚えるひと時が与えられていました。そのお一人の証しがあります。今から30年以上前、教会で皆さんに発行されていた伊那谷通信の中に、紹介されていました。

 

「神さまに選ばれて」

 

義父は嫁いで来た前の年に召天し、義父は嫁いで来た前の年に召天し、写真の顔しか知りませんが、信仰のあつい人望のある人だったと聞きました。義母も父に負けない信者で人に親切な人でした。それから義母に連れられて礼拝にも時々出ましたが、聖書も先生の説教もむずかしく、時には説教の最中に居眠りをする始末でした。農家でのんびりと育った私が、180度回転の商家の生活の疲れもあって、教会へ行くのははずかしいからいやだと云いますと、居眠りをしてもいいからと連れ出そうとそれは熱心でした。その頃、朝は家族そろってお祈りをしてから食事をいただきました。主の祈りもその時覚えました。その義母も3年ばかりで突然の召天に私の戸惑いと悲しみは筆舌に尽くし難いものでした。当時、いろいろなことに追われ、また生死を彷徨う様な大病にかかり、教会から足が遠くなりましたが、悲しいことうれしいこと歴代の先生方を通し長い道のりを1つ1つイエスさまに守られ、慰められて来ましたことを振りかえって心から感謝いたします。

義母の召天から10年余たったころ、ようやく生活も落ち着き建てた墓碑には、当時の塩谷先生の筆で義母の好きだった「一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一粒にてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ12章24節)を刻んでいただきました。不思議なことに、父も母も主人も同じ58歳の時に召天し、この時も江連先生をはじめ教会員の方々には大変お世話になりました。丁度教会が建て替えられた年でした。

紆余曲折の日々を送って参りましたが、いつも神さまが共にいて下さると信じていました。細々とした信仰のともし火を消しては申し訳ないと、おそまきながら、又一方ではこんな私を神さまはお許しにならないのではとためらいまし

たが、新しくお迎えした山畑先生にお話をし、1988年5月22日ペンテコステに受洗をゆるされました。大勢の兄弟姉妹に見守られて、洗礼式が終わった時は、涙がにじんで来ました。心新たに礼拝には何としても加えさせていただきたいものと思います。遠い回り道を歩んで参りましたが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」(ヨハネ15章16節)と教えられ、本当に明るい気持ちでいっぱいです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたと選んだのである。」本当にそうですね。自分からイエスさまをたくさんある中から選んだと思っていたとしても、実はイエスさまの方から、選び、繋がってくださっていました。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっているとの通り、つながってくださっていたからこそ、手入れをされ、余計なものを取り除いてくださいました。それはいよいよ豊かに実を結ぶために、そしてその豊かな実を与えられて、いよいよ喜べるように、その喜びに満たされるために、イエスさまの方から、喜びを与えてくださいます。イエスさまが、つながり続けていてくださいますので、そのお方から喜びがやってくるのです。だからこそ、わたしにつながっていなさいという御言葉が、いつも与えられ続けているのです。

説教要旨(5月15日)