2026年10月25日礼拝 説教要旨
思い悩むときに(ルカ12:13~31)
松田聖一牧師
土地とか家、田畑、山と言った財産は、不動産と呼ばれます。不動産とは、文字通り、動かない財産ということですが、この頃、この不動産の、不に、勝ち負けの負けという字を当てはめて、負動産、すなわちマイナスの財産の意味で、負動産と呼ばれることが、多くなっているようにも思います。理由はいろいろあると思います。今、空き家が増えているとか、誰も住まなくなった家を相続しないといけないとか、片付けをしないといけないとか、いろんなことが起こっているからだと言えるでしょう。その時、そういう不動産(負動産)に関わる家族にとっては、かつて住んでいた思い出の家であっても、また先代の方が築き上げてきた財産であっても、これからどうやって管理するのか?誰が見るのか?いや誰も対応できないという現実があると、負の動産、負動産となっていくんです。そういうものも含めて、それらを相続する時発生するのは、まずは税金です。相続税と呼ばれるものですが、この税金は、財産があればあるほど、多くかかってきます。その他、土地などには、固定資産税がかかってきます。これも土地の価値、広さなどが大きければ大きいほど、高い税金となりますから、相続することができるかというと、難しいこともあると言えます。それ以外にも、遺産を受け取る側の家族同士、あるいは兄弟同士の関係にも、色々影響が出て来ることもあります。
それは、今日与えられた聖書に出てきます群衆の1人の人にとって、またその人の兄弟にとっても、そうです。それがこの言葉「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」から見えて来ます。その1つには、この人と兄弟との関係について、どうして兄弟から遺産を受け取れない関係になってしまっているのか?また遺産を巡ることが起こる前の、普段の関係、普段のお付き合いはどうだったのか?ということなんです。というのは、遺産を巡ることが起きるというのは、何度も何度もあるわけではなくて、めったにないことです。では、その出来事が起きた瞬間から、兄弟から分けてもらえない関係になったのかというと、それだけなのか?あるいは、それ以前のお互いの普段の関係、普段のお付き合いが、遺産という特別な、めったにないことが起きた時の関係に、出ているのではないかと、考えられるからです。そういう身近な人との普段の関係は、私たちにも、ありますね。ご近所や兄弟、親戚などいろいろですが、普段のお付き合い、関係によって、特別な何かの時に出てくるものというのは、普段のお付き合いがどうなっているかが、大なり小なり影響することもあるのではないでしょうか?そのことで、こんなアドバイスを頂いたことがありました。それはご近所さんとの付き合い方についてでしたが、「お互いにね~冗談が言えるようになったら、良い!」それは単に面白いことを言えればいいというのではなくて、お互いに、時にはリラックスできるような、自然な関わりができるくらいまでになると、いい関係だということと、そういう関係になると、急にお互いに困ったことや、何か大きなことなどが起こった時、助けて頂けたり、守られることもあるということなんです。でも、そういう関係は、今日明日すぐに出来るものではなくて、時間と手間暇がかかるものです。しかし、それを怠ってしまうと、何かあった時に、お互いに、ややこしくなることもあります。
そういう意味で、この人が、兄弟から遺産を分けてもらえないと言う出来事には、普段のお互いの関係が、リアルに出てきているのではないでしょうか?その中で、一人の人が、わたしにも分けてくれるように兄弟に言ってくださいとの願うのですが、イエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と、分かったではなくて、この件については取り合おうとはしていないんです。なぜならば、遺産についてのことは、この人と兄弟との関係の問題、家族の問題だからです。だからイエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」の中で、裁判官や調停人のあたまに「あなたがたの」をつけている通り、これはあなたとイエスさまとの関係のことではなく、あなたと、あなたの兄弟との関係だ!と答えていかれるんです。それはこの人を突き放すような対応かもしれません。しかし、イエスさまはこの人を、完全に突き離そうとしているのではなくて、むしろ、遺産を分けてくれるように言って下さい、にある、この人の中にある本質的なことに、関わろうとしておられるんです。
それが、この遺産という言葉の別の意味である、神さまが私に与えたもの、私に約束したものは、確かに神さまのものであることと、神さまご自身が、わたしの相続財産である、ということを通してです。そこから言えば、兄弟に分けるように言ってくださいという遺産は、神さまが与えて下さったものであると同時に、神さまのものだと言うこと、そして神さまを遺産として受け取った時、税金をひかれて、減ることなく、また分かれ分かれになることなく、同じ神さまが、次の世代、次の世代へと、変わることなく、受け継がれていくんです。ところが、この人は、その遺産を、兄弟と分け合いたいんです。兄弟から分けてもらいたいんです。そしてそれを自分の所有物、わたしのものにしたいんです。でも神さまのものを、また神さまを兄弟と分け合って、自分のもの、わたしのものにできるのかというと、そもそも神さまの所有である遺産、神さまが私の相続財産ですから、理屈に合いません。また神さまを分割することはできませんから、兄弟から分けてもらうということも、神さまにおいては、成り立ちません。
それなのに、この一人の人は、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってくださいと、イエスさまに言うのは、そこに何が何でも欲しいと言う欲望、貪欲があるからなんです。そこを見抜いておられるからこそ、イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と、どんな貪欲にも見張りをせよ、監視しなさいと、返していかれるのは、貪欲によって得られたものが、有り余るほどの物になっていたとしても、何かが有り余っても、遺産を兄弟から分けてもらえたとしても、それらのものは、ただ持っているもの、ただ持っているだけのものである、すなわち、この人の永遠の持ち物とはならないということだからです。それはそうだなと思います。冒頭の負マイナスの動産とも繋がりますが、ゴミ屋敷と呼ばれて、誰も住まなくなった家の中を見ると、本当に足の踏み場もないほどになっています。一体どこで寝ていたんだろうと思いますが、どんなに有り余るほどあっても、その人にとっては、その時、ただ持っているだけであった、その人の所有物にはならなかったということが、現実です。
それはイエスさまの譬えにある、金持ちも同じです。というのは、自分の畑が豊作だったとき、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思いめぐらしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、自分に言ってやるのだと言う、金持ちは、豊作が、神さまから与えられた豊作であるのに、神さまから与えられたではなくて、金持ちにとって、この豊作は、「わたしの」豊作、自分の力で成し得た、豊作なんです。同じことは「作物をしまっておく場所」にある「作物」も、わたしの、作物ですし、その作物を「しまっておく場所がない」も、どこに、私は必ずかき集める、残らずすべてを集めるか、私は持っていないじゃないか!ですから、金持ちは、何でも自分のもの、わたしのもの、わたしの所有物にしたいんです。それは倉も、穀物や財産も、もともとの言葉を見ると、それぞれにすべて「わたしの」が付いているんです。そして、「倉を壊して」にも「もっと大きいのを建て」にも「そこに穀物や財産をみなしまい」にも、それぞれに全部わたしが、があるんです。それだけではありません。「こう自分に言ってやるのだ」も、わたしのいのちに、いのちよ、あなたは多くの幸福を持っている、という意味であり、食べたり飲んだりして楽しめも、すべて自分に向かって、あなたは食べよ、あなたは飲め、あなたは楽しめと、収穫によって得た財産、そしてその財産で楽しむことも、いのちも、すべてが、わたしのものだ、わたしのおかげだ、と言わんばかりに、なっているんです。
そんな金持ちに神さまがおっしゃったことは「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」であり、それに続いてイエスさまは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、何もかもわたしのもの、私の所有、わたしの財産としている者は、神の前に豊かにならない者であるとおっしゃるんです。この「神の前に豊かにならない者」とは、神のために与える者ではないということなんです。つまり、収穫も、穀物も、財産も、持ってはいけないとか、使ってはいけないとか、食べたり、飲んだりしてはいけない、いうことではなくて、それらのものは、すべてわたしのもの、わたしがしたもの、わたしのおかげだと受けとっている限り、神さまから与えられた神さまの祝福であること、そして祝福してくださった神さまのために、与えるために、収穫や、穀物や、財産があるんだということが、抜け落ちてしまっているんです。もちろん収穫も、穀物も、財産も、現実には私たちの手元にあるものです。その中から、毎日の必要のために使っていきます。食べたり、飲んだりします。そうしないとお腹が空きますし、生きてはいけません。それはその通りなのですが、忘れてはいけないことは、それらすべてのものは、神さまから与えられた神さまの祝福だと言うことなんです。そのことを、そのまま受け取った時、与えて下さった神さまへの感謝と、神さまのために与えていくことが、与えられていくのではないでしょうか?
弟子たちにも伝えたいことは、そういうことなんです。この時、弟子たちは、金持ちと違い、お金がありません。豊作も、収穫された作物も、穀物も、財産もありませんし、しまっておく場所も持っていません。また弟子たちは、イエスさまと一緒に移動の日々でしたから、一か所に落ち着いて住むと言う生活ではありません。だから、衣食住全てにおいて、今日はどうなるか?今日はどこで休めるか?今日の食べ物はどうか?といった、思い悩む日々の連続だったと思いますし、苦労していたと思います。そうかといって、元の仕事であった漁師や、税金取りといった仕事に戻ることもできませんから、弟子以外の何かの仕事をして生活費を稼げません。具体的な収入のあてがないんです。そういう中で、弟子たち12人プラスイエスさまの毎日の生活は、大変だったのではないでしょうか?そんな彼らに、イエスさまは「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とおっしゃられるのは、今日何を食べようか、今日何を着ようかという衣食住の心配や今日どうしようか?と思い悩む現実があることを、イエスさまは、まずは分かっておられるんです。なぜならイエスさまは、弟子たち12人と衣食住を共にしていましたから、今日は何があって、何がないことも、お金が足りないことも、今日寝るところがないことも、毎日のいろいろも、分かります。そんな彼らに「思い悩むな」と、おっしゃるイエスさまは、弟子たちとは違う立場からではなくて、同じところに立って、弟子たちの苦労も、思い悩むことも、一緒になって、苦労して、思い悩んで、思い悩む現実の中で、共におられるんです。たとい、どんなに思い悩むことがあっても、思い悩む中で、それでもちゃんと生かして、命を支えて下さるんです。思い悩むその日にも、その日の必要を十分満たして与えて下さるんです。
そのことを、イエスさまは、カラスのことを考えてみなさいと、空を飛ぶカラスに、目を向けさせて下さった時、カラスがどんな生活をしているのか?どうやって食べているのか?どこで寝ているのか?が、弟子たちによく分かったのではないでしょうか?そしてカラスに目を向け、カラスのことをよく考えてみなさいと言われたイエスさまと一緒に、目を上げ、カラスの生活に思いをはせた時、それでもカラスは生きていること、それでも空を飛びまわり、あちこちで食べ物を食べている姿にも、そんなカラスも神さまが養ってくださっていることにも、気づくことができたでしょう。そして、「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値がある事か」とおっしゃられた時、それまではカラスだったのが、カラスから、カラスも含めて全ての鳥になっているんです。ということは、神さまが養ってくださること、神さまの祝福は、カラスという1つの種類の鳥だけではなくて、すべての鳥に及ぶということなんです。それは、弟子たちにおきかえれば、弟子たちだけではなく、一人の人にも、兄弟にも、連なる一人一人にも、広がっていくということなんです。そのことに気付かされた時、神さまの前に豊かにならないから、神さまの前に豊かにされていく、神さまに豊かに与えるものへと、新しく造りかえられていくんです。
あるご夫婦がいました。ご主人は砂利を販売する商売をやっておられました。従業員も多くあり、住み込みの方もいたので、奥さんはその人たちのまかないを毎日していたのと、家の掃除も一日二回しなければ、二度拭き掃除をしなければ、すぐに砂利から出た埃で家の中が真っ白になるくらいでした。そんな中、奥さんが、教会に行かれるようになり、宣教師と出会い、洗礼を受けて、信仰生活を送るようになりましたが、教会の礼拝に出るために、朝は4時半から掃除と煮炊き、お昼の準備も全部して、教会に出かけておられました。そんな日々が続く中、ご主人のために、祈り始めました。「どうか主人も一緒に教会に行くことが出来ますように。そして神さまを信じて歩めますように」と、お祈りをずっとしていました。それが何十年も続いたある時、いろいろな事情で、ご主人がしていた会社をたたむことになりました。工場の建物も、全部壊しました。そして土地は更地になりました。そこに、ご主人は奥さんと一緒に出掛けました。自分の手で育てた会社がなくなった後の更地を眺めながら、ご主人はぽつんとこうおっしゃったのでした。「何もなくなったね・・・・」その時から、ご主人も教会に通うようになり、神さまを信じて、洗礼を受けていかれました。やがてご主人はなくなり、奥さんは独りになりました。そんな中、教会では新しい会堂を建てることになった時、奥さんは残された更地になった土地のことを思いました。そして祈りました。「今私は独りです。この土地を継いでくれる人もいません。この土地を神さまのために、使っていただきたいと思います。」と、その土地をささげることになり、そこに教会が建てられていきました。やがて奥さんもなくなりました。でも今、その教会にあるいくつものチャペルでは、毎週礼拝が守られ、ささげられています。そこに集われる方、その教会を通して、神さまを信じていかれる方が、おこされ、加えられています。ということは、二人の土地で終わらなかったということなんです。確かに二人の持ち物でした。二人が持っているだけのものでもありました。しかし、神さまから与えられたものとして、受け取った時、神さまのために与えていった時、二人から、すべての人のために用いられていくものへと造りかえられていくんです。
「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とは、そういうことです。今目の前にあるものは、自分の持ちものでありながらも、神さまから与えられた祝福です。だから全部自分のものだと、思わなくてもいいし、独り占めしなくてもよくなっていくんです。その祝福は、神さまに豊かに与えることによって、ますます祝福されていきます。減ったように見えたり、なくなってしまった、と感じてしまうかもしれません。なくなったらどうしようと、悩むこともあるでしょう。しかし、神さまが与えて下さる祝福は、神さまに豊かに与えればあたえるほど、神さまのために使えば使うほど、どんどん増えていきます。それが神さまの前に豊かになることであり、思い悩むことを通しても、神さまに豊かに与えることがどういうことかを、神さまは教え、与えて下さいます。
祈りましょう。
