2026年10月18日礼拝 説教要旨

大きな報いがある(マタイ5:1~12)

松田聖一牧師

 

教会があります沢尻区は、十数組に分かれて、組があります。毎年家が建ち、人口が増えているところです。教会は7組。今年は組長を仰せつかることになり、毎月集まりがありますので、公民館に出かけています。その依頼を断るのではなくて、出来る範囲で引き受けていくこと、私個人も、教会も、この地域社会とかけ離れた存在ではなくて、お互いに支え合っているという認識も必要だなと、つくづく思います。その中で、昨日は、区民まつりがありましたが、土曜日でもありますし、一日教会を空けるわけにはいきませんので、前もって、区長さんや、担当の方に、全部は無理だけど、朝のテント張りは伺えるので、それでいい?と尋ねましたら、「いいよいいよ~」「できる範囲でいいから~」という、有難いお返事で、金曜日と土曜日の朝、公民館の広場に行き、テント張りを一緒にすることになりました。そして柱を立て、垂れ幕を取り付ける柱なども、お互いにワイワイとしながら、出来たことは良かったと思います。ただどなたが、どなたなのか?名前も顔も一致しませんので、内心、この人誰だろう?と思いながらも、テントの下にもぐったりと、いろいろ裏方に関わる機会がありました。そして昨日も伺った時には、前日の金曜日の準備担当の方から、「昨日もありがとうございました!」と声を掛けられたりとか、いろいろでしたが、裏に関わること、裏のことを一緒にすることは、とてもいいと思いますし、裏方の大切さを、改めて確認させていただいた次第です。そうして昨日は無事に祭り開催となったわけですが、そのためには、裏方のことが出来ていないと、1つの行事、表は成り立ちません。それはテントもそうですし、舞台もそうです。それは、一般的にも、いろいろなことに共通しています。演奏会も、演劇もそうです。裏方がいなければ、演奏会はできません。演劇も、できません。つまり、表を支えるものは裏であるということと、裏を支えるのは、表であるということです。そのどれもが必要で大切なものであるからこそ、表だけ、裏だけということにはなりませんし、表が良くて、裏が悪いとか、裏が良くて、表が悪いということにもなりません。なぜなら表と裏とは繋がって、お互いに支え合っているからです。

 

そのことが、イエスさまの「群衆を見て、山に登られた」ということからも見えて来ます。

 

というのは、この時、イエスさまが見た「この群衆」とは、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から」イエスさまに従った群衆であり、イエスさまの後からついて来た群衆です。そのイエスさまの後からついて来た群衆を、イエスさまは見て、「山に登られた」ということは、イエスさまは、自分に従ってきた群衆から離れるようにして、山に登られたということになるんです。ただこの山というのは、一般的な山を差すだけではなくて、神さまを礼拝する場である神殿を指し示していますから、神殿に行くということでもあるんです。そしてそこに、腰を下ろされたことも、単によっこいしょと座ったということではなくて、王さまが王として、着座され、王として、そこで国を治め、人々をおさめ、国と人々とを守ると言うことですから、イエスさまが、その神さまを礼拝する神殿において、神さまとして、そこにおられるということでもあるんです。それはイエスさまにとっては、当然のことですし、自然なことです。

 

そして「弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」となるんですが、イエスさまは、3節以下のことを弟子たちにだけ教えられたのか?というと、弟子たちに、であれば、心の貧しい人々は、が、心の貧しいあなたがたは、になります。その人たちのものである。も、あなたがたのものであるということになりますが、3節から10節までのところには、「あなたがた」ではなく、人々は、その人たち、です。つまり、イエスさまは、群衆の近くにいて、寄り添ってということではありませんが、イエスさまは、弟子たちだけではなくて、群衆に向かって、群衆のことも指して、神さまとしてお語りになっておられるんです。

 

ではそのことを、群衆は理解できたのか?というと、目に見える形では、イエスさまは群衆のところには行っていません。山に登られたのですから、群衆にとっては、せっかくイエスさまに従ってきたのに、イエスさまは、自分たちのところに来なかった!来てくださらなかった、よく来たよく来たと、歓迎してはもらえなかったと、映るんです。そうなると、群衆の気持ちには、せっかくここまで来たのに、イエスさまに従ってきたのに、一体自分たちは何のために、ここまで来たのだろうということにも、なってしまうのではないでしょうか?

 

せっかくここまで来たのに…向こうに行ってしまったというのは、私たちにもあることです。

 

ある時、三重県の松阪と言う町から、当時は国鉄でしたが、美杉村に繋がる名松線というローカル線に、友達と二人で、美杉に行って、川で遊ぼうと言うことで、出かけました。朝、近鉄電車で津から松阪に行き、そこから名松線に乗り換えるということでしたが、その時松阪発、終点の伊勢奥津行きは9時24分発でした。1時間半に1本でしたから、それに乗り遅れないようにと、近鉄電車の時刻も調べて、十分に乗り換えることができると思っていました。ところが、どういうわけか、その時、松阪発伊勢奥津行きは、9時42分に出ると思い込んでいました。本当は9時24分です。なのに、24を42と勘違いしてしまっていました。ですから、松阪に着いた時、42分発だからまだ時間があると、すっかり思ってしまいまして、のんびりしながら、名松線のホームに辿り着いたら、目の前で発車して、向こうに行ってしまっているんです。その時、何が何だか分かりませんでした。なんで42分発なのに、それより早くなぜ出てしまったのか?と思いながら、もう一度時刻表を見ましたら、24分発でした。その時は、目の前が真っ暗になったかのようになり、11時頃から川で遊べるという計画も、切り刻まれてしまったと思いました。「あ~あ行ってしまった・・・」という気持ちになったことでした。それでも、気を取り直そうとして、次の電車に乗ろうということになり、1時間半、あの名松線のホームでずっと待っていたこと、それでようやく11時台に乗って、短い時間でしたが、伊勢奥津の駅近くの雲津川という川の支流で、川遊びをした何とか取り戻すことができたんですが、あの時の、目の前で電車が出発してしまった、何とも言えない気持ち、落胆と、それまで計画していたことが、目の前で切られて、寸断されてしまったかのような感覚、せっかくここまできたのに・・・どうして・・という思いは、消えてなくなるものではなかったからこそ、今でもよく覚えているんです。

 

イエスさまが山に登った時の、群衆にとっても、そうです。ここまで来たのに、イエスさまは山に登ってしまった!神殿に行ってしまった!そして自分たちではなく、近くに寄って来た弟子たちと、一緒になったということだけが、目に映ったことで、自分たちは、ここに取り残されてしまったという感覚になったと思います。そのことが、イエスさまの「口を開き、教えられた」中にある、「口」という言葉にも現れているんです。というのは、口というのは、イエスさまの口のことですが、この口には、剣の刃、別の意味として、血を飲む口と言う意味もあるんです。そこでこの口と、剣の刃、血を飲む口の関係を見る時、まずは口を開くことについて、確認しましょう。口を開くとは、おしゃべりですね。おしゃべりというのは、私たちの日常です。誰かに会うと、自然に口が開きますね。教会でもそうですが、玄関のところで、一番に何があるかというと、おしゃべりですね。時々申し上げますが、玄関から出るまで15分、出てからスロープで15分、時間があれば、15分というのがおしゃべりされている方の姿ですね。よくしゃべられるなと思うと同時に、人と話せること、人とおしゃべりができるというのは、お恵みの一つだとつくづく思います。しゃべればしゃべるほど、元気になっていきますね。しかしその一方で、そのおしゃべりが、剣の刃でもあるということです。時には、しゃべる内容によって、相手を、あるいは自分を傷つけたり、傷ついてしまうこともあるのではないでしょうか?もちろん、傷つけるつもりはなくても、口が開いて、剣の刃になり、それが体だけでなく、心に及んだ時には、体から血が出ると同じように、心から血が出てしまうんです。

 

それが、イエスさまが山に登られたことに対する、群衆の何かであるんです。もちろんイエスさまは、群衆を傷つけようとしているわけではありませんし、傷つけてはいません。しかし、群衆にとっては、自分たちのところから山に登ってしまった!となってしまっているんです。そうであっても、イエスさまが山に登られたことも、群衆がイエスさまに従ってきたことも、口を開いて、教え始められたことも、またその内容も、どちらが表で、どちらが裏かは分からなくても、全部繋がっているんです。それだけではなくて、繋がっているということは、群衆にとっては、不本意なこととして受け取っていたことでも、イエスさまがおっしゃられる言葉は、群衆にとって、どんなことであっても、「幸い」に変えられていくということなんです。なぜかというと、イエスさまが口を開くことと、血という2つのことが、イエスさまの十字架の苦しみの中で、赦しを願い、祈られた口と、イエスさまの苦しみから流れ出た赦しと救いでもあるからです。それがあるからこそ、幸いであるに変えられていくんです。

 

その具体的なことが「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害されている人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と続くイエスさまの言葉です。この内容を見る時、心の貧しいとか、悲しむとか、柔和なとか、義に飢え渇くとか、平和を実現するとか、義のために迫害されているといったことは、それ自体、人々にとって、心地良くて、いいことばかりなのか?というと、決してそうではありません。最初の心の貧しいというのは、単にお金がなくて、生活が貧しいということではないと思います。心の貧しさは、どんなにお金があっても、経済的に満足できる生活ができていたとしても、それが表の目に見える部分であり、誰もがうらやむ生活ができていたとしても、そのご本人にとっては、心は貧しいと言う、裏があるのではないでしょうか?同じことは、悲しむということ、悲しみもそうです。いろんなことで悲しむこと、悲しくなることがありますね。その時、悲しいですから、悲しみに沈みます。落ち込みます。それが表に出て来ることもあれば、悲しみたくても、悲しめないこともあるのではないでしょうか?泣きたくても、泣けないことって、きっとあると思います。その時、自分の悲しみをすごく我慢して、抑え込んでしまっているかもしれません。あるいは、凄く悲しいのに、悲しみを忘れようとして、逆に微笑んで、笑っていることもあるかもしれません。そういう時「大丈夫ですか?」と尋ねた時、返って来る言葉は、だいたい「大丈夫です」が多いと思います。葬儀などでもそうです。気丈に挨拶をされた姿だけを見た時、立派にされたとか、元気そうだとか、しっかりしているとか、見た目の表の姿だけを切り取って、それが本当だと受け取ってしまうこともあると思います。でも実際はそうではありません。悲しみを出したくても、出せないだけで、悲しむ人々なんです。柔和な人々もそうです。柔和とは、別の意味では優しさと訳せます。では優しいというのは、心から優しくしたいから、優しいということだけではありません。優しいの、優という漢字は、にんべんに憂いと書きます。だから、表は優しさであっても、裏には憂いがあるということではないでしょうか?何かがあるのではないでしょうか?

 

義に飢え渇くこともそうです。義に飢え渇くとは、義、正しさが、そこにあるというのではなくて、義がない状態です。具体的にはいろいろでしょう。自分では正しいと思っていることが、全く相手に通じないこともあります。自分にとっての正しさを、主張することで返って、やり込められてしまうこともあるでしょう。またそもそもこの義というのは、我に羊がかぶっています。我を羊が覆っている形です。では我とは何を指すのかというと、私たちの我であり、我欲であり、罪の姿です。そして羊はイエスさまのことです。ですから、我をイエスさまである羊が覆ってくださることによって、義となるんですが、この時羊であるイエスさまに、いつも覆っていただいていると、受け取ることができるかというと、とてもじゃないけれども、そうではない現実もあるのではないでしょうか?あるいは、義が差し示す正しさ、がない状態もあったのではないでしょうか?それは憐れみ深いということも、心の清いということも、平和を実現するということも、義のために迫害されるということも、それらのこととは、真逆の現実もあるということなんです。まさに表と裏が、このイエスさまの言葉においても、その通りあるんです。

 

そういうマイナスとも言える現実もある中で、イエスさまは、幸いであるとか、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われるのは、現実逃避のためにではありません。群衆のように、イエスさまに従っていけば、あるいはイエスさまの近くに寄ってきたら、自分にとってのマイナスとも言えることが、一切なくなって、ハッピーハッピーになるわけでもありません。しかし、幸いであると、何度も何度もおっしゃっておられるのは、私たちにとって、マイナスとも言えるような出来事があっても、その中にあっても、それが表か裏かは別として、その両方が、イエスさまの幸いであると言うこの言葉に繋がっていくんです。だからどんなことでも、幸いである、に変えられていくんです。ただし、それは目に見える形で、生きている間に、すぐに起こるかというと、必ずしもそうではありません。いつなのかは、誰にも分かりません。神さまにしか分かりませんし、その幸いは、神さまから与えられるものであるからこそ、神さまの領域のことでもあるんです。だからこそ、イエスさまは、大いに喜びなさい「天には大きな報いがある」地上に大きな報いがある、ではなくて、「天には」神さまの世界、神さまと共にあるところにおいて、神さまは、そこで素晴らしい報いを必ず与えると約束しておられるんです。そういう意味で、3節から10節までの幸いであるは、〇で終わっていません。点です。点ということは、まだまだ続くということと、未完成でもあると言ってもいいでしょう。だから生きている間、目に見える形で、また自分が納得できるような幸いが確実に与えられて、ああ幸いだなあと言えることがあっても、それが長続きするとは、必ずしも言えないということでもあるんです。それでも、イエスさまは、今は、そうだけれども、神さまは最後の最後のところで、神さまのもとに召されたその時、「あなたがたは幸いである」「天には大きな報いがある」という約束を、完全なものとして、与えて下さるんです。

 

フランダースの犬という物語があります。ネルロという貧しい暮らしをしていた男の子と、パトラッシュという犬が、貧しさの中でも、たくましく生き抜いていった物語です。でもその中では、悲しく、辛いことも、たくさん経験しました。見た目には、幸せとは言えない毎日でした。でも最後のところで、ネルロとパトラッシュは、教会で鐘の鳴る中で、天使たちに引き揚げられて、神さまのもとに帰って行くんです。そこで最終回となるのですが、この姿は、人生をあらわしているように思います。どなたもが、いろいろなところを通らされて、不幸だと思われる出来事も多くあったと思います。それは、その時だけではなくて、これからも続くことでしょう。それだけを見たら、何と不幸な人生だった!と見えるかもしれません。しかし、イエスさまは、それで終わりではないこと、神さまのもとで幸いである、と、点から丸へと造り変えて下さるお方です。喜びなさい。大いに喜びなさいも、点ではなく、〇として、完成させてくださるんです。そこに向かって行くんです。表と裏がいろいろあっても、表も裏もすべてが神さまに、神さまと共にある幸いに、繋がっているからです。

 

祈りましょう。

説教要旨(10月18日)大きな報いがある(マタイ5:1~12)