2026年10月11日礼拝 説教要旨
「一同は」の中に(マルコ14:53~65)
松田聖一牧師
以前、東京にあります最高裁判所と最高検察庁に、何人かの方々と一緒に出かけたことがありました。それは、ある一人の方の冤罪を明らかにすることと、再審の請求をするためです。その時最高裁判所に行くのは初めてでしたが、実際にその建物を前にした時、圧倒されました。建物自体に、自分が呑み込まれそうな凄い迫力でした。その時、思いました。やっぱり最高裁判所は、最高裁判所だ!と。それから中に案内されて、3人の係官に、要望を伝えますと、メモを取っておられて、一応、丁寧にうなずかれて、聴いておられるんです。最後に「今、皆さんからの要望を受け取りました。上司に伝えます」ということで、終わりましたが、結局は聴くだけで、何も動かないままです。権力というのは、こういう者かなと思いましたし、一般人がどれだけ要望しても、なかなか動きませんし、動こうともなかなかしないものです。最高検察庁も然りでした。さて、その最高裁判所は、地方裁判所から、高等裁判所を経て、最終的な判決が出されるところです。その判決は、14人の裁判官全員で構成される大法廷と、5人の裁判官によってなされる小法廷の2つがあります。ですから、大法廷ですと、14人がずらっと並び、小法廷では5人が並びます。ではそこで何もかもが決まるのかというと、時と場合によって、判決がなされずに、高等裁判所へ差し戻される場合もあります。そうなると最高裁判所では判決、判断がなされなかったということになりますし、14人か、5人の方々によって、判決という1つの判断が下される場である、裁判所でありながら、判断されない、あるいは判断できないことが起こるんです。
それは、今日の聖書の箇所に出てきます、最高法院と呼ばれる、当時のユダヤの最高裁判所と言ってもいいところにおいても、です。というのは、結論から言うと、最高法院で、イエスさまに対して判決が出せなかった、判断できなかったからです。その時の最高法院の構成メンバーは、大祭司、祭司長、長老、律法学者です。人数は、全員で71人です。その71人によって、裁判が行われる最高法院で、人々に連れて行かれ、裁判を受けることになった1人のイエスさまを、誰も裁くことが出来なかったんです。1人のイエスさまに対して、71というのも凄いことですね。そのことが(55)祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な証言をしたが、その証言は食い違っていたからである。」とあるように、最高法院で、イエスさまを死刑にしようとしたけれども、得られた証言に食い違いがあったので、出来なかったということなんです。この証言の食い違いについてですが、当時の裁判では証言者が証言する内容を、徹底的に調べるんです。いろんな人の証言が出されると、それぞれの証言内容が完全に一致しているかどうかも調べます。そこで少しでも証言に違いがあると、もうその証言は証言としては、採用されません。それほどに最高法院での裁判というのは、宗教裁判でもありますから、神さまの前に裁くと言う性質上、徹底した調査検討がなされるんです。
そこで、祭司長たちと最高法院全員が求めた、「不利な証言」に、注目しましょう。この時、彼らが求めた証言は、最初から、証言ではなくて、不利な証言であるということ、すなわち、イエスさまを死刑にすべきということに向かって、証言を誘導していたということです。それは、「不利な証言を求めた」にある「不利な」のもともとの言葉からもそうです。この「不利な」の意味は、「~の意志に従って」とか、「~の気に入るように」ですから、祭司長、最高法院全員の意志に従って、気に入るように、証言を求めた結果、イエスさまにとって不利な証言となっているんです。見方を変えれば、不利な証言の裏には、最高法院全員の意志に従い、自分たちが気に入るようにという、証言を求めた側の、恣意的かつ策略的なことが、存在しているということでもあるでしょう。また証言する側も、求めた最高法院の意志に従い、気に入ってもらえるような内容の証言になっていくのではないでしょうか?こういった、相手の意志に従い、相手の気に入るようにするということは、他にも、いろんなことに当てはまるのではないでしょうか?例えば、阿る(おもねる)と言う表現がありますね。この意味は、他人の機嫌を取って、気に入られようとするとか、へつらうとか、おべっかを使うということですから、相手に気に入ってもらえるように、相手の意志にいつも従って、相手にくっついていくんです。
辻宣道先生の著書の中に、「教会が強くなるために」というものがあります。その中に、ご自身の経験を通して、こうおっしゃっていました。「権力のあるところに人は近づきます。そして利用を図ります。わたしなどは何の権力も持たなかったのですが、それでも日本基督教団議長をしていた4年間、様々な人が近寄ってきました。議長に就任してすぐ、東京の某都市銀行頭取の秘書がワインをもって挨拶に来ました。個人誌、業界誌などがどっと送りつけられてきました。議長の目にとまればいいことがあると思ったのでしょうか。親しくもないのに訪ねて来る人もいました。そして追従笑いなどするのです。わたしはその時別のことを考えていました。議長をやめたらこの者らは、潮が引くように姿を見せなくなるだろう・・・。まさにそうなりました。」そしてこう締めくくられていました。「名誉にも権力にも全く無縁な生活がどれほど素晴らしいか。」
これが、最高法院全員の意志に従い、気に入られようとした人々の姿です。その時人々は、自分の立場、生活などを守ろうとしていたと思います。だから、相手に好かれること、気に入られることを、優先させていくんです。その結果、その証言に食い違いが出て来たということは、不利な証言を求めた71人が、全員同じ内容で求めたのではなかったということでもあるんです。つまり不利な証言というのは、単に、真実ではないものが、その証言に入り込んでしまうだけではなくて、その証言の中に、人々の、最高法院全員と、人々自身に対する人情が、たとい真実とは違うことであっても、これが本当だ!というかたちで、その真実に混ざってしまうからでもあるんです。
インパール作戦という、今から80年前にあったビルマ国境を越えて、インドに攻めようとした計画がありました。たくさんの方がなくなり、作戦は大失敗に終わったのですが、今から20年ほど前、当時関わった当事者の方々の出演される番組がありました。その中で、計画段階から、この作戦は失敗する!やってもダメだという反対論が非常に強くあったにもかかわらず、その作戦は敢行されてしまった理由について、お一人の中枢に居られた方が、こうおっしゃいました。「あれは人情論なんです。誰もが失敗すると言っている中で、反対している人を、やめさせてしまいました。そして、戦局を何とか好転させ、最高司令官に花を持たせたい!という周りの配慮というか、気持ち、それこそ人情によって、無茶なこの作戦が行われたのです。」
相手に良く思われたい、相手に気に入られたいという、人情というものは、内容が正しいかどうかは別としても、その人のために、とか、その人のことを思ってということがあるでしょう。でもそれは一見正しいことであっても、人の為が、偽りになってしまうんです。そういう意味で、イエスさまの裁判で証言した、その内容は、不利な証言を求めた最高法院の71人の方々、それぞれに気に入られるための証言ですから、それぞれの証言が偽りの証言となって、証言の食い違いになっていくんです。その結果、イエスさまを、死刑にするため、という目的が果たされなくなっていくんです。
ただ不思議なことは、不利な証言を求めて、食い違う証言となったその証言の中で、数人の者の証言「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」が、聖書にはちゃんと書いてあることです。最高法院では採用されなかった証言なのに、ここには書かれている、その意味は、何かというと、最高法院として、またイエスさまを死刑にしようとした人々には、採用されなかった証言であっても、イエスさまがまことの神さまであり、神さまと共におられるお方であるという内容は、聖書においては食い違うものではないということなんです。つまり、数人の者の、わたしたちは聞きました、と言っている内容は、イエスさまについて正しい証言なんです。ではその証言に、イエスさまは反応しているのかというと、いろいろな証言が出ていても、何もおっしゃっていません。自分にとって不利な証言だから、それは間違いだとか、それは正しいとか、いろいろ言うことはできたはずなのに、イエスさまは何も答えないんです。
そこで大祭司は「立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた」とありますが、単に大祭司はその場から立ちあがって、真ん中に進み出て、イエスさまに尋ねたということだけではありません。大祭司のこの行動は、イエスさまが神さまとして、復活され、今も生きておられるお方の行動と同じです。それを大祭司が、ここでイエスさまを前にしてやっているんです。そのことに大祭司は、気付いてはいません。しかし、イエスさまを前にしての彼の行動は、結果として、イエスさまを指し示し、イエスさまを証言しているんです。そこで「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と尋ねるのですが、この中にある「何も答えないのか」は、不利な証言の中で、どれか1つか、何かを選ばないのか?という意味です。つまり、「何も答えないのか」は、ただイエスさまが黙っていることを指しているのではなくて、イエスさまに、いろいろ出ている不利な証言の中で、これが正しいですとか、この証言は自分のことだから、それを選びますといったことを、しないのか?ということなんです。その通り、イエスさまは、人々があれこれ言っている証言のどれかに、答えたり、反応したりすれば、食い違う証言の中に、正しい不利な証言があると言うことを認めることになりますし、正しい証言をした、誰かは分かりませんが、その人も、正しいとなるんです。しかしイエスさまは「黙り続け何も答えなかった」のは、イエスさまが、人に気に入られるような、人の意志に従い、人に迎合するお方ではなくて、神さまに従うお方だからです。
それは「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と重ねて大祭司が尋ねた時、「そうです」とイエスさまはおっしゃる、「そうです」もそうです。この「そうですは、大祭司に向かって、ハイその通りですと答えたのではありません。「そうです」は、エゴーエイミーという言葉で、これはイエスさまが、神さまであることを、イエスさま自らが語り、現している言葉なんです。それに続いての「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」という言葉も、詩編110篇の言葉の引用ですから、イエスさまが神さまであるということを、神さまが任命されたと言う意味と、イエスさまを大祭司として、神さまが任命したということでもあるんです。その大祭司として、イエスさまが、すべての人の罪を赦し、すべての人を神さまに執り成し祈るという任務も、神さまから与えられているということを、「そうです」まことの神さまであると宣言し、現しながら、言われたので、大祭司は、イエスさまに大祭司を取られると、受け止めたからでしょうか。「衣を引き裂きながら」怒りと憤りを現しながら、「諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか」すなわち、どう自分を見せるか、に、「一同は、死刑にすべきだと決議した」と続くのですが、この時大祭司は、わたしは冒瀆の言葉を聞いたとは答えずに、「諸君は」と、言ったのは、自分は責任を取りたくない、でも大祭司を奪われたくないから、怒りと憤りの中、諸君は、と責任を投げているんです。それと同じことですが、死刑にすべきだと決議したのが、「一同」となっています。一同には、誰が決議したとか、名前は一切出てきません。しかし決議は、誰が賛成し、決議したのか?という決議文書が、他の一般的な歴史史料として残されているのを見ると、決議した人たちの名前が全員記されています。内容によっては、血判も押されています。しかしここでは「一同は」しかないんです。
そんなやり取りが行われていた大祭司の屋敷の中庭には、ペテロがそこまで入って来て、下役たちと一緒に座って「火にあたっていた」とあるんです。「火にあたっていた」は、焚火の火にあたっていたと言う意味ではありません。神さまの光にあたり、光に照らされていたと言う意味です。ということは、この時、自分がイエスさまの弟子だと、誰にも気づかれないようにして、暗闇の中にいても、どんなに遠く離れていたとしても、神さまは、そんなペテロに光をあてて、照らしておられたんです。その光は神さまの光、神さまそのものです。その光で、イエスさまから遠く離れていたことも、それでも従っていたペテロが、照らされているんです。そのペテロが、イエスさまを知らないと言ったペテロになっても、ペテロは、イエスさまに従うペテロであることを、神さまは受け入れ、そういうペテロを信じ続けておられるんです。それはまた、最高法院全員も、大祭司も、私たちに対してもそうです。どんなに神さまから離れていたとしても、離れたところにいても、そこで、神さまの光で照らして、神さまに従う者として受け入れて、あなたは神さまに、イエスさまに従っている、あなたがたであると認めて、信じておられるんです。
山口県に浮島という島があります。今、その島の小学校の校長先生をされている方は、かつて中学、高校時代問題ばかり起こしていました。それは家庭内でいつもごたごたがあったことで、彼は、自分が本当に嫌になって、自暴自棄に陥っていました。そんな中で、親元を離れ、児童施設に入りました。その後は、土木作業員として、仕事の毎日でした。そんな中で、学校の先生になりたいと思われるようになりました。そこで通信制の大学に入り、7年かけて卒業され、教員免許も取りましたが、なかなか採用試験に合格できずにいましたが、それでも昼間は土木作業をしながら、夜は勉強の毎日が続きました。そうしてようやく11年後、採用試験の社会人枠で合格された時、35歳になっていました。そんな苦労をしながらも、どうして先生になろうと思ったのかというと、中学1年の担任の先生との出会いでした。父親から暴力を振るわれたことなど、いろんな悩みを聞いてくれたのでした。そしていつも自分を信じてくれたのでした。その時のことをこうおっしゃっていました。「先生は僕のことをいつも信じてくれた」どんなに問題を起こしていても、それでも、信じてくれていた先生がおられたからです。さて、その先生になられた方は今、校長先生になり、校長室にやってくる子どもたちとトランプを一緒にしたり、1・2年生の複式学級の子どもたちが、音読を聞いてほしいとやって来ています。その時、一通り読んだ子どもたちが、校長先生にこう言いました。「続きは後で、また聞かせてあげるよ」校長先生に、あげるよ~なんて言うのもすごいと思いますが、その先生の出発点は、どんな自分であっても、それでも信じてくれる、信じ続けてくれた出会いでした。
自分がどんな自分であっても、どんな自分になっても、どんなに神さまから離れてしまっていても、裏切る弟子たちになってしまっても、最高法院でイエスさまを死刑にしようとしている大祭司、祭司長、と言った人たちのようであっても、証言が食い違う人々であっても、人のご機嫌を取り、人におもねることがあっても、それでも、神さまであるイエスさまは、あなたを信じ続けて下さっています。神さまであるイエスさまは、そういうお方だ!と気付けた時、人は変えられていきます。そしてどこまでも自分を信じ続けてくださったお方を、信じてみよう、信じて見たい、従いたい!と思えるようになっていくんです。そういう意味で、信仰とは、自分が信じる以前に、もうすでに神さまであるイエスさまが、私たちを信じ続けてくださっていたからこそ、そこから信じてみようと言う信仰が与えられ、信じるということに向かって、一歩踏み出していくものなんです。
イエスさまは、そういうお方です。だからいろんなことがあっても、人に従うのではなく、神さまにだけ従うイエスさまが、その中で神さまの真実を証言し続けておられるんです。そこには、人の思いではなく、神さまの思いがあります。その神さまの思いが実現していきます。一同の中にあったことは、そういうことなんです。
祈りましょう。
