2026年10月4日礼拝 説教要旨
正しさの真ん中に(マルコ14:43~52)
松田聖一牧師
イエスさまが、ゲッセマネの園で、眠っている弟子たちに、「あなたがたは眠っている。休んでいる。もうこれでいい。」に続いて、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言われた時、「12人の1人であるユダが進み寄って来た」とあります。この時のユダには、イスカリオテはありません。ですから、イエスさまが「わたしを裏切る者」とおっしゃられる通り、ユダは、神さまに感謝するユダではなくて、イエスさまを裏切るユダへと変わっているんです。
そういうユダに変わってしまったことが、「ユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」にある、「進み寄って来た」という言葉からも見えてきます。この「進み寄って来た」には、傍らにいるとか、近くにいる、立っている、やって来る、到着し登場する、と言う意味の他に、「補佐する」「助ける」という意味もあるんです。ということは、イエスさまを裏切る時、ユダは、イエスさまの傍らにいながら、実際に剣や棒を持って一緒に来た群衆の補佐、助けると言う立場で、祭司長、律法学者、長老たちと同じく、表舞台には立たずに、祭司長といった人たちが遣わした群衆に隠れるようにしているんです。
そのことをより強めているのが、「進み寄って来た」の主語は誰かということです。というのは、この「進み寄って来た」の主語は誰なのかというと、「進み寄って来た」は、進むと、寄ると、来たという3つの動詞が組み合わさっています。最初の進むということは、ユダが、イエスさまのところに進んだと言う意味合いであると言えますが、その次にある「寄って」は、ユダ自身の動作というだけでなくて、寄って来られた側であるイエスさまにとっての表現とも言えます。さらには「来た」というのも、ユダが来たと言うだけではなくて、イエスさまから見たユダを指して、ユダが自分のところに進み寄って来たので、「来た」とも言えますから、「進み寄って来た」の主語は、ユダとも、イエスさまとも、どちらとも取れます。そしてもともとの言葉であるギリシャ語を見ると、この進み寄って来たは、確かに「ユダが」とありますが、文章的には、無生物主語と呼ばれるもので、結果として「進み寄って来た」ということになります。つまり、進み寄って来たのは、ユダでありながらも、ユダが、無生物となり、人でありながら、人でなくなって、イエスさまに進み寄っている、ということでもあるんです。
そんな人が人でなくなるということが、ユダの裏切り行為に起きているんです。それは、裏切りの構造そのものと言ってもいいでしょう。このことは、ユダだけのことなのかというと、人が人でなくなるというのは、裏切りにおいてだけではなくて、他にもいろいろあります。
2つのことを紹介させていただきます。1つ目は、戦争神経症と呼ばれたものの実態です。これは召集され戦地に赴かれた兵士の中で、無事に帰国はされたけれども、心を病んでしまったという出来事です。戦争に行って帰ってきたら、あんなにやさしかった人が、夜中に起きて、自分が戦場にいるかのような妄想に駆られ、暴れ出したり、家族を敵だと思い込んでしまい、暴力をふるったりといった、それまでとは別人のようになってしまっていたことが報告されています。だからそういう目にあった、ご家族の方は、元兵士である、ご主人、父親に対して、恐怖でしかなかったということを、亡くなられた後、やっと言えるようになるんです。生きている時には、怖くて怖くて口にすることもできませんでした。もちろん暴力を振るってしまうご本人も、戦場で生きるか死ぬかの瀬戸際の中、極度の精神状態の中で、大きなストレスを抱えてしまわれたのでしょう。今でこそ、PTSDだとか名前がついていますが、そんなことすらなかった中で、自分が受けた大きなストレスを、自分でも何とかして、忘れようとして、病んでしまわれたのかもしれません。そういうことが、事実あったんです。
もう1つのことは、沖縄戦でのことです。ひめゆり学徒隊と呼ばれる女学生の方々がいました。多くの学生が亡くなる中、わずかに生き残った一人の方について、ある新聞記事の中で、その当時を振り返って、こう紹介されていました。
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人と引率した18人の教師からなる「ひめゆり学徒隊」。3月末から解散命令までの約90日間、19人だった犠牲者は解散後から沖縄戦終結までのわずかな日々で100人余に膨れ上がった。荒崎海岸からさらに北東に約9キロ進んだ具志頭(ぐしちゃん)の岩間に身を潜めているところを米兵に見つかり、捕虜となって生き延びた方は言う。
「人が人を殺す。人が人でなくなる。それが戦争」
自分さえも大切にできなくなっていた。壕の外にある炊事場へ行き、食事の支度をする「飯上げ」と呼ばれた仕事をいまも思い出す。しょうゆだるに炊いた米を入れ、担いで急な坂を戻る途中、至近弾に襲われることもしばしばだった。「爆風で土が飛び散る。土がたるに入ったらご飯が無駄になるからと、弾が落ちたらたるの上に体を覆いかぶせて守ったの。命が一番大事なのに、おかしいでしょう。でも一つのたるしかもらえなかったから、駄目にしちゃいけないって」
人が人でなくなるというのは、そういうことなんです。その時、普段では、考えられないような行動をするんです。感情がなくなり、何も感じられなくなってしまい、適切な判断ができなくなってしまい、自分が何をしても、目の前で何が起こっていても、自分が何をしているのか、何が起こっているのかが、分からなくなってしまうんです。
だからユダは、イエスさまを裏切ってしまったし、裏切ることが出来たとも言えるでしょう。金入れを預かる身でありながらも、お金が合わなくなってしまい、その埋め合わせを何とかしようとしたか、自分の身を守るために、必死だったのかもしれません。裏切るということが、どんなに大きなことか?ユダを、弟子としてくださり、わたしについて来なさいとおっしゃって、招いて下さったイエスさまのことを、全く考えることができなくなり、またそのイエスさまを、自分が十字架につけていくということが、どんなに筆舌に尽くしがたいことなのかも、分からなくなっているんです。それでもユダは、イエスさまを裏切ることが、正しいと判断してしまい、行動に移しているんです。
それが「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。にも現れています。
この時ユダは、イエスさまに接吻するんです。この接吻と言う意味は、愛情をこめて、心ゆくまで接吻すると言う意味もありますから、その仕草は、イエスさまを愛し受け入れているという姿でもあるんです。でもこの時ユダはイエスさまを裏切ろうとしていました。前もって、群衆に、捕まえて、逃がさないように連れて行けと、打ち合わせをしていたんです。ですからその接吻は偽りの接吻と言ってもいいでしょう。それなのに、イエスさまは、そのユダの接吻を、また「先生」と言って接吻したユダをも、受け入れているんです。自分を裏切るユダの接吻を受けたくないとか言って、ユダを拒絶していないんです。
でも、どうしてこんなことができるのでしょうか?自分を裏切り、十字架につけていくために行動しているユダを、どうして受け入れられるのでしょうか?偽りの接吻なのに、リップサービスでしかないのに、どうしてここまでされるのでしょうか?
ここにイエスさまにおいて、現わされた愛の姿があります。愛とは、ただ単に優しく、良いよ、いいよと受け入れていくことだけではなくて、相手の犠牲となること、いわれなきことで傷つけられること、殴られ、命さえも、差し出していくこと、でもあるんです。でもそれは人にできることなのか?というと、人にはできません。しかしイエスさまが、ユダに対して現わされた愛は、神さまの愛です。神さまの愛というのは、100%完全ですし、完全であり続けるものです。壊れることもありません。100から99とか98といったものに減ることもありません。たといどんなにユダが、しぐさだけの接吻であっても、またイエスさまにとっては矛盾極まりない、不条理に満ちたものであっても、それでも、ユダを受け入れ、ユダを愛し、ユダと最後まで共に歩もうとされるんです。なぜならここに神さまの愛があるからです。
それはユダに対してだけではありません。イエスさまに手をかけて捕らえた時、「居合わせた人々のうちのある者が、剣をぬいて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした」という、傷害事件を、ある者、これは別の箇所ではペテロと記されていますが、ペテロが起こしてしまうんです。それはイエスさまを捕えに来た人々から、イエスさまを守ろうとして、人々の手から、もう一度イエスさまを、自分たちのところに戻そうとしたからなのかもしれません。しかし、イエスさまに手をかけて捕らえた人々は、イエスさまを傷つけてはいないんです。それなのに、その仲間の1人、大祭司の手下の、片方の耳を切り落とすというのは、冷静に判断できなくなっていたからでしょうか。片方の耳を切り落とすと言う傷害事件を、正しい行為だ、自分は正しいことをしているんだと受け止めていたのでしょうか。いずれにしても、片方の耳を切り落とした行為は、傷害罪です。
それに対して、イエスさまが言われたことは、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった」です。ここで最初に出てくる「捕らえに来たのか」にある「捕らえる」という言葉と、次にある「あなたたちはわたしを捕えなかった」の、捕らえるという言葉は、同じ言葉ではなくて、違う言葉です。
そこで最初の、捕らえに来たのか、にある「捕らえる」の意味は、捕まえる、逮捕すると言う意味と、妊娠する、宿る、という意味もあります。その意味で「捕
らえに来たのか」は、捕らえたではないし、捕まえたでもありません。また次の「捕らえなかった」の「捕らえる」は、支配するとか、打ち勝つ、つかむ、つかまえる、しっかりとらえて握って、持って保持して、すがり続ける、固執すると言う意味ですから、それが否定されていますので、支配することも、打ち勝つことも、つかむことも、つかまえることも、すがり続けるといったことが、何もできなかったということになるんです。
つまり、イエスさまを捕えに来た人々も、もちろんユダも、結局は誰もイエスさまを、捕まえることはできなかったということなんです。しかも、最初の捕らえに来たのかの、「捕らえる」にある妊娠するとか、宿るということは、イエスさまが、人の手によって、命あるものとなったのではなくて、人の手によらず、神さまによって、命あるものとなったと言うことですから、イエスさまは、裏切る者の手から、イエスさまを自分たちのもとに取り戻そう、自分たちの手元にしっかりとつかまえ、すがり続けようとしても、イエスさまは、人に握られたり、人が捕まえることができるとか、すがり続けることのできるお方ではなくて、ただ神さまの手の中にあるお方であるということなんです。
その結果、イエスさまは、ただ神さまによって、神さまのご計画である、神さまの赦しのために、人の手から離れ、神さまにささげられたお方であることを、現しているんです。
そういう意味で、イエスさまから、弟子たちが皆「イエスを見捨てて逃げてしまった」ことも、一人の若者が、「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」ことも、確かに、弟子たちも、若者も、イエスさまを裏切り、イエスさまを見捨て、イエスさまから逃げたという、裏切りの行為でありながらも、またそれをすることは、正しい判断が出来ず、何をしているのか、分からない状態になってしまっていても、それらを越えて、イエスさまは、彼らの手の中から離れて、人の手を借りないで、神さまとして、神さまの意志、ご計画の中で、十字架にかかっていかれ、神さまの赦しを完成されるんです。
確かに、人の裏切りも、見捨てて逃げることもありました。しかし、イエスさまは、そういう人が、何をしようと、どんなにイエスさまに対して、ひどいことをしようとも、裏切りであっても、イエスさまは、それにしがみつかないんです。イエスさまは、そこから離れて、神さまが与え、託されたご計画に従って、神さまの赦しに向かって突き進んでいくんです。
そのことを、この御言葉「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」に当てはめた時、万事というのは、すべてのことですから、自分にとって良かったことだけではなくて、悪かったこと、犯してしまった罪も、裏切りも、逃げることも、見捨てることも、含まれています。それらのことは、自分にとっては、マイナスのことですし、あんなことしなければ良かったとか、そうならなかったらよかったのに、といった、悔い、罪責感、などに、すがりつき、囚われてしまうものです。
しかし神さまは、そんなマイナスとも言えるようなことでさえも、用いて、そのこと同士を、万事が益となるように、相働かせてくださるのは、マイナスとも言えるようなことを、あれはダメだった、あれは間違いだった、罪を犯してしまった、とんでもないことをしてしまった、というところから切り離して下さり、そこから解き放って下さるんです。つまり、神さまの赦しは、それらのマイナスとも言えるような一切のことから、解き放ち、自由にしてくださるということでもあるんです。それによって、赦し、赦されているということが、本当にその通りだということへと導かれていくのではないでしょうか?
その真ん中に、イエスさまがおられ、イエスさまの十字架を通して、神さまの赦しが、実現していくんです。だからどんなことにおいても、神さまの赦しが与えられていくんです。
祈りましょう。
