2026年9月6日礼拝 説教要旨

常識破り?(マルコ12:35~44)

松田聖一牧師

 

今日はここにカップうどんの1つ、どん兵衛を持ってきました。このどん兵衛は今から50年前に商品化されたものですが、このどん兵衛ですが、販売当初から、東日本と西日本で、それぞれ販売されているどん兵衛の味付けが違います。具体的には、商品開発の課程で、つゆの味付けを変えて開発されました。例えば、東日本で販売されているどん兵衛のつゆは、カツオと醤油仕立てです。一方で西日本ではどうかというと、カツオと昆布の重ね出しのおつゆです。この味付けの違いと、それがどこで違うのか?その場所を探すために、開発担当者の方は、当時、新幹線のこだまに乗って、ひと駅ごとに駅や駅周辺のお店でうどんを片っ端から食べて、味の境界線を探しました。そして、味の境界は、関ヶ原にあるということを突き止めて、その結果、東西それぞれの販売地域を決定したという経緯があります。ということは、ここ伊那で販売されているどん兵衛は、カツオと醤油仕立てのどん兵衛となります。それが当たり前と言いますか、常識となっています。しかし、関ヶ原以西では、カツオと昆布の重ね出しがつゆの味ですので、そちら側に住んでいる方にとっては、重ね出しのものが当たり前であり、その味が、常識です。

 

そういう味付けが、なぜ東と西とで違うのか?ということについては、いろいろ所説があるようですが、いずれにしても、天下分け目の戦いであった関ヶ原が、味の分け目でもあるんです。だから西のどん兵衛の味が常識だと思っておられる方にとっては、東のどん兵衛は味が違う!ということになりますし、その逆も然りです。それは、どん兵衛だけのことではありません。他の食べ物や、味付けにも、自分にとっての常識とは違うということがあります。そう言う意味で、自分にとっての常識というのは、自分が生まれ育ったところに、そもそもあったからとか、これが常識だと教えられ、培われた空気、環境によっても、つくられてきたものもあると言えます。

 

それは、律法学者たちが「メシアはダビデの子だ」と呼んでいることもそうです。それは、イエスさまが、おっしゃられた「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで』と。」に、その鍵があります。この言葉は、詩編110篇1節の言葉なのですが、これはダビデ王に始まる王さまが、即位される時に、読まれた祭儀文でもあります。そしてこの言葉の中にある「主は、わたしの主にお告げになった」は、神さまが、わたしの神さまにお告げになったということですが、これは神さまが2人いて、一方の神さまからもう一方の神さまに向かって言っているのかというと、そうではなくて、この言葉のもともとの言葉である、ヘブル語を見ると、「主は」は、神さまのことですが、「わたしの主」は、王を指しているんです。すなわち、ダビデ王とか、それ以降の王さまのことを指しているということになります。

 

その結果、主は、すなわち神さまは、王に、お告げになったということになり、神さまが、即位し任命する王に対して、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と、繋がります。その即位の宣言を、具体的に誰がするのかというと、神さまの働きを託された祭司、預言者たちが宣言しますから、祭司や預言者たちが、任命するという形になります。では律法学者はというと、律法学者の働きは、神さまがおっしゃられた掟、決まり、言葉を、解釈し、それを人々に教え、伝えていくということをしていますから、祭司や、預言者が、王の即位に当たって、任命することも、これは詩編110篇1節に基づいたことであることと、わたしの主は、王だということを、認めていることになります。

 

その結果、即位される王は、神さまに選ばれた王という保証を、3つの立場の人々からお墨付きをもらえると言う形になります。つまり、王は、神さまから選ばれただけではなくて、当時の宗教権力者、神殿の働きに従事する人々からも、認められたということになりますから、王にとっては、自分を王として即位宣言をしてくれた相手である祭司、預言者、律法学者たちを、守らなければということになるんです。逆に言えば、祭司や預言者、律法学者たちは、自分たちが任命した王によって、自分たちの身分、立場が保証されることになるんです。そうなると、神さまに仕え、神さまの働きに従事する、この人々は、確かに神さまに立てられて、選ばれてはいるんだけれども、具体的には、王に守られ、保証されているということになりますから、彼らにとって、王が、自分たちにとってのメシア、救い主としていくのではないでしょうか?

 

この構図ですが、これは、私たちからかけ離れたところにあるものではありません。身近なところにあります。というのは、私たちにはいろいろな関係がありますね。その関係には、遠い関係もありますし、身近な関係もあります。特に、自分の立場、身分を保証し、その生活を支えてくれる人との関係になればなるほど、物心両面に近い関係になります。その結果、どうなっていくかというと、自分の立場、身分、生活を保障し、支えてくれるその人が、自分にとってのメシア、救い主のようになり、その立場に、自分が置こうとしていくことがあるのではないでしょうか?

 

あるコンサート会場で、テレビ局が、そのコンサートを聞きに来られたお客さんに、インタビューをしていました。人気アーティストでしたから、たくさんのお客さんが来られて、満員御礼。その演奏会が終わった後、ロビーにどっと人があふれていました。その中で何人かの方々に、そのアーティストについて、どう感じておられますか?との質問に、ひとりの方が、こう答えておられました。「わたしのすべてです。わたしの人生そのものです。」わたしのすべて、わたしの人生そのもの、すごい答えだなと思いましたが、そういうごひいきさんが、アーティストには付いているんです。それで例えば、全国ツアーなどをする時には、ごひいきさんが、ずっとついていって、いわゆる追っかけ状態になるんです。ではそのわたしのすべてです。私の人生そのものですと言われた側の、アーティストは、そのことを言っているお客さんのことを、知っているかというと、知らない方も多いんです。でも、お客さんにとって、ごひいきさんにとっては、そのアーティストがいないと人生やっていられないほどにまでなっているんです。そういう意味で、アーティストのことを、アイドルとも言いますよね。このアイドルという言葉には、神さまではないけれども、神さまのように、自分にとっての神さまに仕立てていくという、かたどった像、偶像と言う意味もありますから、人は、自分にとって、自分の立場、身分、生活、それこそ人生そのものを保証してくれる人に対して、もちろん相手のその人は、神さまでも、メシアでも、救い主でもないのに、神さまと同じ立場に仕立てようとするものを、こちら側が持っているんです。それが、その人にとっての、常識となっていくんです。

 

しかし、そもそも王が即位し任命される時に、宣言として、語られる言葉の意味は、「わたしの主」が王さまを指す言葉であっても、この人が王さまだと告げるお方、宣言されるお方は、神さまですから、あくまでも王の任命権者は神さまです。たとい神さまから任命された王を、自分たちが直接任命し、宣言していても、神さまが任命された王を、「メシア」救い主だと言うのは、矛盾しているのではないでしょうか?しかもそのことを、神さまが語り、与えた詩編も含めた律法の意味を解釈し、それを人々に教えていく立場である律法学者が言っているのも、矛盾しています。さらには、祭司や、預言者、律法学者は、それぞれに役割が違っても、神さまを信じて、神さまに仕え、神さまのために働く方々なのに、祭司や預言者に、メシアはダビデの子だと言う律法学者が入って、3つどもえになっているのは、お互いにかばい合い、支え合いながら、そこに王の保証を繋げようとしているということなんです。その結果、彼らの信頼は、神さまから王に代わっていき、「メシアはダビデの子だ」が、彼らの当たり前、常識となっているんです。そういう意味で、彼らの常識も、すぐにパッと出来上がるものではなくて、時間を重ね、人がそこに関わり、人の思いも関わり、その時々の人々の立場や、身分の保証とか、生活の保障といったことも、絡みつきながら、出来上がっていくものではないでしょうか?

 

それに対して、イエスさまは「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」と、彼らの常識に向かって、どうしてなのか?あなたたちの言っていることは、神さまがおっしゃっていることと矛盾しているではないか?と問う問いは、律法学者たちという人々に対してだけではありません。律法学者たちを取り巻く、祭司、預言者という、お互いに自分の立場を守り合い、支え合い、かばい合っているという、その構造に立ち向かっていくことになるんです。その時に、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とありますから、群衆も同じことを思っていたことを、イエスさまが、自分たちに代わって、言ってくれたことで、喜んだのかもしれません。おそらく群衆は言いたくても、言えなかったのでしょう。立場上、祭司、預言者、律法学者たちに面と向かっては言えない、王がそこについているから、余計に言えないという中で、イエスさまが、はっきりと言ってくださったので、そうそう、そうなのよ!という気持ちにもなったのでしょう。もちろんそれだけではなく、他にもいろいろあったと思います。

 

いずれにしても、この時イエスさまは、どうしてなのか?と問いかけ、さらには、律法学者に気をつけなさいとまでおっしゃられるのは、積年のいろいろなこと、常識、良く言えば伝統が、つじつまがあうものなのか?どこかで人の、都合の良い解釈が入り、結局は、王という権力を守るためのものとなり、その王にこれからも、守ってもらうために、間違ったことでも、常識となっていくのではないかという人の内面の構造を、イエスさまは問いながら、問いただそうとしておられるんです。

 

そこにイエスさまが神さまとして、大ナタを振るおうとされているんです。しかし一方で、これまで積み上げて来た常識を壊そうとしている、イエスさまに対して、脅威を感じたことでしょう。その結果、自分たちの生活や立場を守ろうとして、三つ巴どころか、王を関わらせながら、イエスさまを何とかして握りつぶしたいという方向に向かっていくのではないでしょうか?しかし、イエスさまは、そういう相手であっても、だからこそ立ち向かおうとしているんです。

 

ではそれは、イエスさまだけしかできないことなのか?というと、その通りです。しかし、イエスさまだけしかできないから、何でもかんでもイエスさまにやっておらおうとか、私たちには何もできないから、何もしなくていい、ということになってしまいますし、それでいいと思ってしまいます。でいいのか?というと、その通りにしてしまうと、極端に言えば、自分たちは何もしないで、イエスさまにただ任せておけばいいということになります。しかしそれは神さまに、イエスさまに委ねるとか、任せると言う意味を、誤解しています。私たちにとって、イエスさまが救い主、メシアであるということを信じて歩む、信仰生活というのは、ただ神さまを信じています、神さまがいらっしゃると言うことを信じていますという、ことは、確かに素晴らしい信仰告白ですが、それだけでいい、それだけで終わっていいということになると、極端に言えば、私たちの生活の全てにおいて、考えること全てにおいて、自分たちは何もしなくていい、何も考えなくてもよい、ただ神さまがしてくださるから、ことの成り行きをただ待っていたらいいということになります。しかし神さまを信じ、イエスさまを信じていくというのは、そういう意味での他力本願ではありません。神さまがしてくださること、してくださったこと、その神さまに向かって、答えていくという責任と言いますか、使命があります。

 

その1つに、神さまへの感謝もそうですね。一般的にも感謝というと、その時、ありがとうの気持ちを、伝え、現わそうとしますよね。先日、伊那市駅に向かって車を走らせていましたら、丁度横断歩道の手前で、下校途中の子どもたちの集団が見えました。それで横断歩道の手前で止まって、手で、どうぞ!合図しましたら、子どもたちが、大きな声で、ありがとうございます!叫ぶんです。傘を持っている子は、傘を開いたまま下に向けて、くるくる回しながら、ありがとうございます!ただ止まって、どうぞとしただけなのに、大きな声でありがとう!といわれたら、それだけで嬉しくなります。ありがとうと言う感謝を表わすというのは、そういうことではないでしょうか?その時、自分にとって、余り物とか、いらないもので、現そうとはしません。自分にとって、最高のもの、最高の、精一杯の思いを、喜んで現そうとするのではないでしょうか?

 

だから、イエスさまは、レプトン銅貨2枚をささげた一人のやもめ、貧しいやもめに目を留めるんです。お金持ちに、ではありません。貧しい一人のやもめ。ご主人もいない、周りに助けていただくしかない、このやもめに目を向けて、お金持ちの方がたくさんささげた、そこにではなくて、レプトン銅貨という、労働者の一日の賃金の、128分の1という、ごくわずかなお金2枚、をささげたことに対して「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」とおっしゃられるんです。この生活費を全部というのは、人生を全部、すべて神さまに委ねたということです。それほどに神さまに感謝しているんです。でも生活費を全部そうしたら、どうやって生活できるのか?すぐに思います。明日からどうやっていくの?本当に思います。しかしそうであっても、彼女は、神さまにありがとう!守って下さって、やもめの私をここまで支えてくださって、ありがとう!と、彼女なりの精一杯で、神さまに応えていくんです。その姿は、神さまにこれからもどうぞよろしくお願いしますと、全部任せていくと言う姿でもあります。ただレプトン銅貨2枚という具体的なお金の額がどうとか、ではありません。その姿を、イエスさまはだれよりもたくさんいれたと、おっしゃっておられるんです。もちろん、彼女の中では、生活がどうなるか?という心配も、不安もあったことでしょう。しかしそんな彼女を、神さまは、守り、支えて下さり、これからをしっかりと生きることができるように、して下さっているんです。だからこそ、彼女も任せることができたのではないでしょうか?

 

教会学校に来ていた一人の女の子がいました。ある時、どこかの地震に遭われた方々のために、義援金を募りましょうということになり、教会の受付のところに置いていた、義援金箱のお前に来て、自分のお財布を出して、そこからいくらかをささげようとしました。すると、彼女は、自分のお財布の口を全部開けて、そのお財布をさかさまにして、その中にささげたのでした。それを周りで見ている人は、びっくりして、すごいという方もあれば、そこまでしなくても・・・という方もいました。いろいろな反応がありましたが、でも彼女の中では、お財布の口を開けて、ひっくり返して捧げていったことは、彼女にとっては常識でした。その姿を通して、神さまに信頼すること、委ねるということは、こういうことなのかもしれないと思いました。その後、お財布の中は空っぽになったと思います。他に何か買いたいものもあったでしょう。でもその時は、買えなくなってしまったかもしれません。しかし、神さまは、その時はそうであっても、後からでも、ちゃんと必要なものを、彼女に全部与えて下さったことと思います。

 

神さまを信じていくということは、ただ観念として、信じるということで終わりません。神さまを信じていくと言う時、人の常識にとらわれない、神さまの常識に捉えられていくということでもあります。だからイエスさまはおっしゃられるんです。信じなさいだけでは終わりではなくて、信じて、従ってきなさいです。

 

祈りましょう。

説教要旨(9月6日)常識破り?(マルコ12:35~44)