2026年8月30日礼拝 説教要旨
見えるかたち(マルコ12:28~34)
松田聖一牧師
「神よどうして」というタイトルの本があります。そのタイトルの如く、この本の著者にとって、「神さま、どうしてですか?」と自分の置かれた境遇や、自分に起きた出来事について、どうしてですか?どうしてそうなるのですか?なぜですか?と問い続けているんです。でもいくらどうしてですか?と尋ねても、すぐに答えが返ってくるわけではありません。そういう深刻なことではなくても、どうして?どうしてそうなるのですか?どうしてですか?という問いは、わたしたちにもあると思います。その問いを尋ねるのは、ただ質問しているだけではなくて、分かるようになりたい!分からないままでは嫌だ!という、赤裸々な思いがあるからだと思います。そして分かるようになりたい!という自分の願いを叶えてほしい、実現してほしいという欲求や、要求、要望、もあります。そう言う意味で、尋ねるというのは、大切なことです。分からなかったことが分かるようになれば、知識においても、経験においても、その世界が広がります。しかしその一方で、どんなに、どうしてですか?と尋ねても、なかなか納得できる答えがないと、どうしてですか?をますます神さまや、あるいは具体的な人に、ぶつけていくのではないでしょうか?それが時と場合によっては、ますます強くなっていくこともあると思います。では、その問いが強ければ強いほどいいのか?というと、相手にますます強く当たっていきますから、その質問、問いが、尋問になってしまったり、相手を傷つけ、相手を追い詰め、追い込んでしまうこともあるのではないでしょうか?
それは、「彼らの議論」を聞いていた一人の律法学者が「尋ねた」ことも同じです。というのは、「尋ねた」には、要求するとか、請求すると言う意味がありますから、彼はイエスさまに、尋ねながら、自分の望み、願いを叶えてほしい、実現してほしいと、要求し、請求しているんです。ではどんなことを具体的に求めているのかというと、今日の聖書の御言葉のすぐ前に、イエスさまと、復活はないと信じているサドカイ派との間で、サドカイ派の人々が、イエスさまのところに来て、7人兄弟がいて、長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないまま亡くなり、それで長男の奥さんが次男と結婚したけれども、その次男もなくなり、次に三男と結婚したのに、その三男もなくなり、以降四男、五男、六男、七男と結婚したのに、全員が亡くなってしまった中で、復活の時、7人の息子たちが復活すると、それぞれと結婚した奥さんである、ひとりの女性は、誰の妻になるのか?ということを、尋ねるのも、ただ単純に教えてほしいという質問ではありません。どうして7人と結婚したのに、結婚した7人の夫だった方が、次から次へと亡くなってしまうのですか?この女性は、一体どうなるのですか?そして7人の夫が、復活したとき、この女性は誰の妻になるのですか?は、亡くなったご主人だけではなくて、その主人を亡くした妻であった、彼女にとって、辛くて重くのしかかっていることを、サドカイ派の人々は、彼らなりに受け止めているからこそ、イエスさまに向かって、誰の妻になるのですか?という問いが、ますます強く当たっていくんです。ただですね。その時、ご主人を次々と亡くされた奥さんである、ひとりの女性に、サドカイ派の人々は、寄り添い、慰めようとしているのかというと、その言葉はありません。だから、この女性にとっては、イエスさまに尋ねていけばいくほど、それが強くなればなるほど、かえって彼女はカヤの外に追いやられ、傷つき、追い込まれていってしまうのではないでしょうか?
それでも、サドカイ派の人々は、イエスさまに、復活の後、誰の妻になるのか?その答えを教えてほしい、とぶつけていくんです。その人々と、イエスさまとのやり取りが、彼らの議論であり、その議論を聞いていた一人の律法学者は、イエスさまが立派にお答えになったのを見て、イエスさまに尋ねたのが、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」なんです。
その理由として「イエスが立派にお答えになったのを見て」とありますが、ここある「立派に」という言葉には、見事にとか、適切に、という意味と、よくも、とか、巧みに、という意味があります。つまり先のイエスさまとサドカイ派との議論で、イエスさまが、サドカイ派の人々を論駁した、論破したことに対して、さすがイエスさま!と歓迎しているというよりも、よくも、巧みに、ですから、よくもサドカイ派の人々をやってくれたなという感じでしょうか?
ということは、律法学者は、サドカイ派の人々ではダメだったけれども、今度こそは、自分が、イエスさまに負けたくない!勝ちたい!という願いなんです。そして結局は、自分がイエスさまよりも、優位に立ちたい、上に立ちたいということではないでしょうか?
それが「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」の中の、「どれが」という言葉にも、現れているんです。というのは、この「どれが」には、どのような性質、どんな種類が、という意味もありますから、イエスさまに、いろいろある掟の中で、一番大切な、第一の掟を、1つ選んでもらおうというだけではなくて、彼は、この第一の掟の性質、内容も、答えてほしいと要求しているんです。しかし、「どれが第一でしょうか」と尋ねた、律法学者にとって、イエスさまの答えられた旧約聖書申命記にある、神さまが命じられた「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』が、第一であることを、もう既に知っているんです。それなのに、「どんな性質」「どんな内容ですか」と、イエスさまに要求しているのは、彼自身の中で、神さまが命じた、第一の掟の、性質と内容、その意味と目的と、イエスさまが、サドカイ派の人々を論破したこととが、矛盾しているように見えたからではないでしょうか?そして、その矛盾は、イエスさまが続けて言われた「第二の掟はこれである。」以下の、「隣人を自分のように愛しなさい」もそうです。
というのは、イエスさまがおっしゃった神さまの掟は、絶対に守らなければならないものですから、サドカイ派の人々も、いくら復活はないと、復活を否定していても、それでもイエスさまにとっては、隣人です。それなのに、イエスさまがサドカイ派の人々に言われたことは、隣人を自分のように愛しなさいと言う掟の反対のことをしているのではないか?しかも、その隣人愛は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」神さまを全てを尽くして愛することと、繋がっているのに、サドカイ派の人々に対して、イエスさまのしたこととが、「隣人を自分のように愛しなさい」という、神さまが命じていることと、まるで反対のことをしていると、見えたのではないでしょうか?
ではイエスさまが、サドカイ派の人々に対してしたことが、間違いだったのかというと、それも神さまの愛そのものの行為なんです。でもそれを見た、律法学者にとっての愛のイメージとは、まるで違う出来事が目の前で起こっていたからこそ、「どれが第一でしょうか」第一の掟は、どんな性質ですか?どんな内容ですか?という問いになっていくんです。
その問いは、この人だけのことではありません。わたしたちにも繋がります。なぜなら、わたしたちにとって、愛とか、愛するという言葉には、いろんなイメージがあるからです。ある方にとっては、愛するとは、優しくすること、よしよしと受け止める事、であるかもしれません。あるいは反対に、凄く厳しくすることだと受け止めているかもしれません。そういう意味では、愛、とか、愛するという内容、性質は、人によって同じではなくて、違います。だから、愛とか、愛するということの意味とか、性質、内容は、1つではなくて、いろいろですから、何が愛であり、どうすることが、愛することなのか?が、分からなくなることもあるでしょう。
ある時に、一緒に聖書を学んだ方から、こんなことを伺いました。「聖書には神は愛だとか、神さまは私たちを愛しておられる、という言葉が書いてあるし、それを良く聞かされるけれども、愛という意味が、分かるようで分からないんです。愛するということは、その通り大切だと思うのですが、実感として、愛するということが、どういうことか分からないんです。」そこでいろいろお話を聞くと、自分が愛された経験、自分が大切にしてもらったと言う実感がないということでした。だから「分からないんです」が出て来たんです。それはそうです。言葉の上では、愛することは、確かに大切だと、その通りだと受け止める言葉です。けれども、実際に、隣人を愛すること、自分を愛することが、どういうことなのか、具体的にこれだというものがあるのか?1つに絞れるのかというと、実際には、1つだけではありませんし、いろいろな形がありますから、分からないというのも自然なことです。愛された実感とか、経験がないと、余計に分からないです。
だからこそ、イエスさまは、1人の律法学者が「どれが」「どんな性質で、どんな内容」が第一なのですかと、教えてほしい、分かるようにしてほしいと、イエスさまに要求した時、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」に加えて、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られるんです。その意味と目的は、神さまを愛するということと、自分を愛するということと、隣人を自分のように愛することは、同じであり、繋がっているということなんです。
それは、神さまを大切にすること、神さまを大切に出来るようになっていく中で、自分も、神さまにどれだけ大切にされているか?そして神さまによって命を与えられた隣人も、神さまはどんなに大切にしておられるかということを、この2つの掟を通して、与え、具体的に愛するとは、どういうことかを、見えるように導くためです。そしてその愛するということを、具体的に、目の前の人との関係の中で、指し示してくださるんです。でも分からないから、尋ねているんですが、それですぐにわかるようになるかというと、必ずしもそうはなりません。分かったつもりにはなっても、また分からなくなるということを、絶えず繰り返していくこともあるでしょう。
しかしイエスさまは、完全に分かるようになれとおっしゃいませんし、事実、この律法学者もこの後、分かりましたとは答えていないんです。ということは、結局は全部分かったわけではないんです。だからイエスさまも「あなたは、神の国から遠くない」近いとも、遠いとも、おっしゃいません。そういう意味では、律法学者の答えた答えも、不完全であったと言えるでしょう。それでも、彼は、イエスさまが答えたことに対して、「適切な答えをした」真実な答えをした、イエスさまが真実に答えて下さったということは、分かったんです。愛されたという実感はなかったかもしれません。それでも彼にとって、イエスさまの真実に触れたことで、その後の生き方、人生に大きな影響を与えたのではないでしょうか?
広島に、広島流川教会という教会があります。原爆が落とされた時、その教会には谷本清先生という牧師先生がおられました。爆心から1.1キロのところにあった教会は骨組みだけが残り、全焼しましたが、谷本先生とご家族は無事でした。しかし教会に連なる方々は大勢なくなり、壊滅的被害を受けた広島とそこで傷ついた人々のことを、先生の1人の娘さんである近藤紘子(こうこ)さんは、ずっと心に抱えておられ、原爆を落とした飛行機に乗っていたパイロットを憎み続けていました。それで「悪いのは原爆を落とした飛行機に乗っていた人たちだ!絶対見つけ出して、パンチするか、かみつくか、蹴飛ばすか、絶対にかたきを討つ」と、本気でそう思っていました。そんな中で、終戦後10年たって、彼女も含めて先生ご一家が、アメリカに渡った時のことです。あるテレビ番組に出演することになり、その同じ番組に、原爆を落とした飛行機の副操縦士が現れました。その時、彼女は、今目の前にいる!と、この人をずっと睨みつけていましたが、そんな中で、このパイロットは、自分が原爆を落とした時のことを話し始めたのでした。「それまであった町並みや、路面電車などが全部消えてしまった広島を見た時、ああ神さま、私は、私たちは何と言うことをしてしまったのか?」と。それを言った後、彼の目から涙が零れ落ちる姿を見た時、彼女は、ショックでした。「私は彼を怪物だと思っていたのに、私は復讐したかったのに、でも彼の目から涙があふれたのを見て、彼は怪物なんかじゃない!同じ人間だ!ごめんなさい。私はあなたのことを何も知らなかった・・・私が憎むべき人は、飛行機に乗っていた人じゃない!この人が悪いんじゃない!悪いのは、戦争を引き起こした人間の悪だ!」と気づかされたのでした。そしてそれまで蹴っ飛ばしてやるとか、殴ってやりたいという思いは消え、このパイロットさんのところに、カニ歩きで歩み寄り、握手を交わしたのでした。それから平和運動に関わっていかれるのですが、後年80歳を迎え、広島の平和公園の近くに住まいを移し、帰って来られた時、こうおっしゃっていました。「今でも彼に感謝しています。あの時の出会いが私の人生を変えてくれました」。
神さまを全てを尽くして愛すること、隣人を自分のように愛すること、このことが完璧に出来る人は誰もいません。それがどういうことなのか、完全には分かりません。でも、このことをおっしゃってくださったイエスさまの真実に触れた時、おっしゃられたことが全部分からなくても、全部完璧に出来なくても、それでも、イエスさまが真実なお方だということに、出会っていくんです。そしてその真実に触れた時、神さまを愛する愛、隣人を自分のように愛する愛を、神さまは与えて下さいます。そして、その時、自分が、神さまを、自分を、隣人を愛するよりも、前に、神さまが、自分を、隣人を、私を、あなたを愛してくださっていたという真実があったということ。その出会いに出会えるんです。
それは、目に見えない出会いかもしれません。見えないことばかりかもしれません。だからこそ、イエスさまは、見えないものを、見える形で、私たちに現わそうとしてくださっています。それが、隣人と、自分との関係、自分と自分との関係において、現して下さるんです。
祈りましょう。
