2026年8月2日礼拝 説教(平和主日)要旨
失ってもあるもの(マルコ9:42~50)
松田聖一牧師
イエスさまが42節以下でおっしゃられる言葉を見ると、3つの空白が見えてきます。1つ目は、(42)「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と、43節との間です。というのは、もともとのギリシャ語聖書を見ると、「はるかによい」の後に空白があるんです。2つ目は、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手があったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」とおっしゃられるのは、43節ですが、次の節は、44ではなくて、45節になっています。つまり1節分、言葉が抜けています。さらには「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい」に続く節も、46ではなくて、47節です。そんな3つの空白には、何もないとか、何も意味がないということではなくて、空白ではあるけれども、そこには何かがあるということではないでしょうか?
小学生の頃、学校の登下校でよく見かけるおじさんがおられました。そのおじさんは、片腕がなくて、片腕がないところは、着ておられる服がたらんと垂れていました。そのおじさんに初めて会った時、片腕がないところに、目がいってしまい、あっ!という感じでびっくりして、会話にはなりませんでした。後から知ったことですが、戦争に行かれて、そこで傷ついて片腕を失ったとのことでしたが、片手を切り離すことで、命が守られ、助かったことだったのでしょう。とはいうものの、良かっただけなのかというと、失うものも大きかったと思います。そこには、言うに言えない思い、誰にも語れなかった気持ち、それこそ空白があったのではないでしょうか?ということは、その空白には、何もない、ただ空いているということではなくて、何かがあるということなんです。
イエスさまがおっしゃられた中にある、3つの空白においても、そうです。そこには何かがあります。それが、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるということ、片方の手、片方の足、片方の目を失うということ、それぞれに、言うに言えないいろいろなことが現れているのではないでしょうか?
具体的に見てみましょう。1つ目は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうということにおいてですが、ここで、「大きな石臼」というのは、ろばが挽く、ろば用の大きなひきうすです。だから、ろばが使うものですし、ろばしか動かすことができない石臼とも言えます。ということは、そもそも人が動かすものではないんです。ところが、イエスさまは、その石臼を、「わたしを信じるこれらの小さな者の1人をつまずかせる者」すなわち、イエスさまを信じるこれらの小さな者の1人を、神さまから引き離し、道にわなを仕掛けて罪に落とすということをする「者」の、首の周りに、彼が、自らの手で懸けるということなんですが、その言葉そのものは、自らがしたことに、自らで責任を取り、始末をつけるということでしょう。そして「海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い」と続くのですが、首の周りに石臼が懸けられて、海に投げ込まれたら、そのまま、あっという間に沈んでしまいます。一環の終わりです。ところがイエスさまは、罪に陥れ、罪に落とすことよりも、投げ込まれてしまう方が「はるかによい」とおっしゃられるんです。
それは、小さな者の1人を罪に落とすことよりも、溺れて死んでしまった方がいいとか、そういう比較の問題として扱っておられるのではなくて、小さな者の一人を神さまから引き離し、罪に落としていくということが、どれほど大きな罪であるか!ということ、神さまから引き離そうとする罪を犯すということが、死に価するものであるということを、はっきりと示しておられるんです。
であれば、ろば用の石臼を使わなくても、ただ単に大きな石臼でいいわけです。大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれても、結果は同じです。あっという間に沈みます。ところが、イエスさまは、首に懸けられる石臼を、ろばが使い、ろばが運ぶもので、彼が、自分で、自分の首に懸けられてと言われるのは、自分がしてしまったこと、自分が犯してしまった罪というものが、どれほど大きいかということを示すとともに、自分がしてしまったことを、自分で始末しなくてもいいように、自分で、自分の首に懸けられないろば用の石臼を用いようとされるんです。
でもろばは、ここにはいません。しかし、ろば用の石臼とおっしゃれられるのは、この後、同じマルコによる福音書11章でイエスさまは、向こうの村にいるろばを、2人の弟子に連れて来なさいとおっしゃられ、主がお入り用なのですとおっしゃり、エルサレムに入って行かれる時に、ろばを用い、ろばに乗っていかれるんです。そこにろばが出て来るんです。つまり、イエスさまは、ろば用の石臼と言いながら、石臼を動かすためのろばとしてではなくて、「主がお入り用なのです」神さまが必要とされているろばとして、イエスさまを乗せ、運び、その1週間後に、十字架につけられて、すべての罪を身代わりに背負い、すべての人の罪を、イエスさまが十字架の死と共に完全に滅ぼし、復活と共に、赦してくださった、神さまの赦しを与えるためのろばとして下さるんです。そのためにろばが用いられるんです。その結果、罪を犯した彼を、神さまの赦しへと、もう一度帰ることができるようにしておられるんです。
ただし、イエスさまは、イエスさまは、1人を神さまから引き離し、罪に陥れていくという、その行為を、いいいよいいよと、認めているわけではありません。罪に誘い、罠にかけ、落としていくことそのものは、完全に滅ぼさなければならないんです。それは、片方の手、片方の足、片方の目においても、同じです。ここで神さまから引き離そうとすることを、手とか足とか、目といった体に備わっているものが、「あなたをつまずかせるなら」と言われるのは、神さまから引き離し、罪に落としていくこと、神さまから離れて行くという時に、私たちの手とか足とか、目を、私たちが使っているからです。見方を変えれば、罪を犯すため道具として、私たちは、自分の手とか足、目を用いているんです。だからあなたが「切り捨ててしまいなさい」「えぐり出しなさい」とおっしゃられるのですが、じゃあ、あなたがその通り出来るのかというと、自分で、自分の片手、片足を切り捨てること、片目を自分でえぐり出せるかというと、そんなことはできません。いくらあなたがしなさいと言われても、たまったものではありませんから、必死で抵抗するのではないでしょうか?あるいは、そこから逃げ出そうとするのではないでしょうか?
それが、あなたをつまずかせる、すなわち、神さまから引き離そうとする罪に対する、あなたがする態度、私たちがしてしまう姿ではないでしょうか?では、具体的に何をするのか?何が起こるのか?どんなことになるのか?については、手や足や目を、巧みに操り、いろんなことをするでしょう。つまり、罪の姿は、これだけというものではありません。いろいろです。神さまに対して、抵抗する時、逃げ出そうとする時にも、ありとあらゆる方法で、手や足や目を使っていきます。
人に対して取る態度も、そうです。人に言われた通りに出来るかどうか?これもまたいろんな反応がありますね。「これやっておいてね」と、言われた時には「は~い」と威勢の良い返事をしても、実際にはやろうとしないこと、そもそも嫌だと言ってやらないということもあります。では言う通りにする人も、本当に100%言う通りにしているのか?できているのか?というと、100ではないですね。つまり、言われた通りにするか、しないか、それぞれの中にも、100言う通りにできるのかというと、しようとしないこと、できないことが出てきます。その時に、使うのが、手であり足であり、目です。罪を犯すことも、手、足、目を、私たちは使います。それに対して、イエスさまは、いやだったら、できなかったら、やってもやらなくても、どちらでもいいとか、嫌だったらやめておきなさいではないんです。徹底的に、そして完全に「切り捨ててしまいなさい」「えぐり出してしまいなさい」です。
ではこのことが、私たちにとって、すべてマイナスなのか?というと、取り除かれることで、助かる場合もあるのではないでしょうか?
例えば、手術の1つの方法に、何かを自分自身から切り取らないといけないことがありますね。取り除かないと、えぐり出さないと、いけないこと、そのままだったら、大変なことになると言う場合に、それを自分でできるかというと、自分ではどんなに願っても、自分の力ではできません。だから入院して、医師に取り除いてもらう手術が必要になります。それはそれで、大変ですが、でも見方を変えれば、手術ができるということは、取り除くことができる、あるいはえぐり出すことができるということでもあるのではないでしょうか?反対に、取り除くことも、えぐり出すことも、何もできないということになると、それはまた別の意味になりますが、そうじゃなくて、取り除ける、えぐり出せるということを、やっていただけるということになると、何とかなるのではないか?助かる!という気持ちにさせられ、希望につながっていくものではないでしょうか?
そして取り除かれた結果、元のからだへと次第に戻っていくんです。もちろん、すぐにではないかもしれません。しかし、取り除かなければならないものが、取り除かれた時、だんだんに健康になって、元のようになっていけます。癒され、自分のこころとからだが、より自分らしく、なっていくのではないでしょうか?
それが「火で塩味が付けられる」ということでもあるんです。塩というと、いろんなところに使われる調味料ですね。味をととのえるというものですが、その料理方法の1つ、火で塩味が付けられることについて、こんな説明があります。
魚や肉などのタンパク質を固める作用があります。 魚や肉に塩を振りかけて焼くのは、単なる味付けだけではありません。 塩分があると、表面のタンパク質が早く固まるのです。 正確には、固まる温度が低くなり、結果として早く固まることになります。 そのため、内部の汁が出にくくなるのです。なお、塩をかけるタイミングにも注意します。 ステーキなどは、焼く直前に塩を振った方が良いでしょう。 早くから塩を振ると、内部まで塩が浸透して、内部まで固くなってしまうからです。 なお、魚の表面の粘質物もタンパク質ですから、塩を振ることによって固めて処理ができます。 タコ、ナマコ、アワビなどの粘質物も同様で、塩でこすると良いのです。
塩は、その素材にふりかけて、火を通すことで、素材の味を引き立たせて、素材そのものの味を引き出すことができます。その結果、その味がととのえられて、味や硬さ、香などの要素までも含めて、おいしさを、塩は、整えてくれるんです。その時、塩が塩としての形を失い、塩が塩でなくなるんです。
イエスさまが、わたしたちにしてくださることも、そうです。イエスさまは、罪に落とすこと、神さまであるイエスさまから離れようとしてしまうものを、切り捨て、切り離し、えぐり出してくださるだけではなく、その時にできた傷を癒し、私たちが本来与えられ、持っている私たちの素材の味を引き出し、そのおいしさを整えてくださるんです。その結果、イエスさまは、その見える形を失うんです。まさに「塩に塩気がなくなるんです」しかし失ったとしても、失ったままではありません。失って、弾き離され、えぐり出され、切り取られても、それによって、得られるものがあるということなんです。
飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ、というドキュメンタリーがずいぶん前ですが、放映されました。それが「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という本になっていますが、著者である井村和清さんが、こんな詩を残されています。
「あたりまえ」
あたりまえ こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう あたりまえであることを お父さんがいる お母さんがいる 手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける 手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる こんなしあわせはあるでしょうか しかし、だれもそれをよろこばない あたりまえだ、と笑ってすます 食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる 空気をむねいっぱいにすえる 笑える、泣ける、叫ぶこともできる 走りまわれる みんなあたりまえのこと こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ なぜでしょう あたりまえ
当たり前の毎日が、当たり前のように与えられています。しかしそれを何時も喜んでいるか?と問われたら、あたりまえのありがたさに気付かないでいる事、あたりまえを神さまが、いつも与えてくださっているのに、それに気づけないことも多くあります。だからこそイエスさまは、あたりまえが、当たり前でなくなる時を与え、失うということを、与えられるのです。でもそれは永遠ではありません。どんなに失っても、失って、もうなにもないと、受け止めてしまっていても、イエスさまは、私たちを、癒してくださり、私たちにある素材の味を引き出し、ととのえてくださいます。そのために塩に塩気がなくなるイエスさまを与えて下さいます。
さて、そのあたりまえの基礎は何でしょうか?それはあたりまえを与えて下さる、イエスさまから離れないで、イエスさまと共に歩み続けることです。イエスさまは、私たちの空白、言葉にならない、言葉にできないような時にも、それこそ一番苦しい時にも、そばにいてくださっているからです。だから離れようとするのは、すごくもったいないですね。
祈りましょう。
