2026年9月13日礼拝 説教要旨

できるかぎり(マルコ14:1~9)

松田聖一牧師

 

水戸黄門という時代劇がありました。その番組には、すけさん、かくさん、風車のやひち、ちょっとおっちょこちょいな、はちべえさんなど、いろんな人が出てきます。そこには良い人もいれば、悪い人もいます。そういういろんな人たち同士でもみあい、時には、足の引っ張り合いをしながら、途中で、悪だくみを働かせて、悪事を行おうとする人、それに巻き込まれる人、おもねる人など、いろいろな争い、いざこざといった、人間のどろどろしたところも、見せていきます。最後には、ひかえおろうということで、水戸黄門が登場し、一件落着となるストーリーですが、そのひかえおろう~がすぐに出て来るのではなくて、その前にいろいろ、すったもんだがあってからですから、それが面白いのと、見ている人にとって、そういうことってあるよね~と共感できることが多くあるので、人気番組になったと思います。これが何事もないドラマだと、面白みが薄くなってしまいますが、実際には、悪人が出て来て、活躍して、かき回してくれますから、そういう意味で、悪人も、人気に貢献していると言えます。また悪人だけではなくて、いろんな人がいて、いろんなことをやってくれるものだから、物語になり、次は何が起こるんだろう?という期待と興味と、また見てみようと言う流れになっていたと思います。それは水戸黄門だけではなくて、他のドラマでも、そうです。いろんな人が出てきて、いろんなことをやってくれます。うまくいくことも、失敗も、出てきます。悪事をたくらみ、邪魔をする悪人が出てきます。ただ悪人として登場してくる人の中には、最初から悪人らしくない人もいますね。パッと見たところ、いかにも悪人だとは、分からない悪役、善人のように見える悪役も出てきます。

 

今日与えられた聖書の御言葉の中に、登場します「祭司長たちや律法学者たち」も、そうです。というのは、彼らは、当時の宗教指導者たちですから、人々からは、凄い人だと思われていましたし、実際にそういう立場にあった人々です。だから悪い人ではなくて善人、凄い人という評価ですし、実際に善人のように見えますし、見せていますから、いかにも良い人として出てきます。ところが、彼らの考えていたことは、イエスさまを何とかして捕らえて殺そうとしているんです。しかも「なんとか計略を用いて」すなわち、ずるいやり方で、策略を持って、ということですから、表向きな姿とは、全く正反対です。また彼らの考えていたことは、殺してはならないという十戒に反することですから、実行していなくても、考えているだけで、ダメです。しかもそのことを教える立場にありながら、考えているんですから、もっとダメです。そういう意味では、悪人極まりない人たちであると言えるでしょう。ところが、イエスさまを捕えて殺そうということを、実際に彼ら自身がしようとしているのか?というと、表舞台には出ないし、立たないんです。それもまたずるいことですよね。本当にそうしたいのであれば、表舞台に立って、いかにも悪人らしく、祭司や律法学者をやめて、悪人として振舞えばいいんです。私たちは十戒にある「殺してはならない」という神さまからの決まりを破ろうと思いますと、神さまに堂々と反旗を翻して、やればいいのではないでしょうか?実際にやっていることなんだから、隠す必要はないんです。それなのに、表に出ていないのは、人によく見られたい、よく見せたい、という欲望や、自分の立場、身分を守りたい、という思いもあるからではないでしょうか?

 

それは、彼らが「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた、にも現れています。というのも、祭りの間に、自分たちの本拠地であるエルサレムに集まって来る大勢の民衆がいる中で、民衆から人気を得ていたイエスさまを捕えて殺そうとしてしまうと、民衆が暴れ出し、暴動や騒動になるのではないか?そうなると、暴動や騒動になったという責任を問われ、自分たちの立場が危うくなるのではないか?あるいは、そういう民衆が自分たちに反旗を翻し、立ち向かって来るのではないか?民衆にあった、それまでの良い評価がなくなってしまうのではないか?ということで、「やめておこう」となっているのではないでしょうか?

 

その思いは、「一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」時、憤慨して互いに言った、「そこにいた人の何人か」においても、そうです。というのは、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」と憤慨して、何人かが互いに言いながら、「彼女を厳しくとがめた」とありますが、ただ単に彼女を厳しくとがめたというだけではなくて、彼女がイエスさまに注ぎかけた香油を、イエスさまに注ぎかけるのではなくて、300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施した方が、いいじゃないか!と、言うことで、自分たちが良い評価、良い人だということを、周りに認めてもらおうとしているのではないでしょうか?しかし彼らが言っている「300デナリオン以上に売る」ことは、その香油のもともとの値段以上に、転売しようとしていることです。この転売のことで、1つのことを思い出します。高校野球試合を見に、甲子園球場に連れて行ってもらった時のことです。夏の暑い時、甲子園球場の入り口で、おばさまたちが、「入場券いる?」いろんな人たちに、聞いていました。それで連れて行ってくれた人に、「あれは何?」と聞くと、「あれはダフ屋だ!ダフ屋から買ったら、普通に買う値段よりも、凄く高いよ~だから買ったらダメだ!と言われました。その時、ダフ屋?という名前を初めて聞きましたが、そのダフ屋さんたちは、有料の内野席のチケットを、甲子園球場など正式なルートで買って、それを買った以上の値段、高値で、甲子園に来られた人たちに転売行為だということでした。この行為は、今で言うと、特定興行入場券の不正転売行為に当たりますから、やってはいけないんです。

 

何人かの人たちがやろうと考えていたことはそういうことなんです。ただ、ナルドの香油を、イエスさまに注ぐよりも、転売すればもっと儲かる、もっと利益が出るじゃないか?とか、「それを貧しい人々に施すことができるのに」ということだけを見ると、いかにも良いことをしようとしているように、見えますし、見せています。しかしそうであっても、そもそもナルドの香油は、彼女の持ち物です。それを彼女が、イエスさまのために、注ぎかけたい、ささげたいと思って、そうしたんですから、どんなに周りの人が、転売したらいいとか、貧しい人々に施したらいいとか言っても、それは彼女とは関係ありません。彼女がしようとしたことに、割って入る必要もないし、そうしてはいけないことです。でも、何人かの人々は、彼女がイエスさまに対してしたことに、腹を立て、憤慨し、彼女を厳しくとがめたんです。それは、イエスさまに香油を注ぎかけたという行為を否定するものですし、その行為と、注ぎたいという思いを、いかにもいいことを言っているように見えても、実際には、彼女から奪い取ろうとした行為です。これもまた「盗んではならない」という神さまの決まりに反した行為です。だから貧しい人々に施したいという思いがあるのであれば、自分たちの持ち物から、施したらいいんです。ところが、それをしようとしない、人の物を使って、自分のしたいようにしようとしていくんです。

 

つまり、祭司長たちや律法学者たちも、何人かの人々も、自分を良く見せたいんです。しかも、よく見せたいということの背後には、それぞれとんでもないことを考え、また神さまが定めておられることに、反旗を翻しているんです。しかもその姿を見せようとしないと言うずるさもあるんです。イエスさまは、そういう行為、表に出ない、出さない行為、考え、思いに対して、そんなことをしてはいけないとか、表に出さないでいることを、人々の前で、暴こうとはしないんです。ただ、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」彼女を指して、「なぜ、この人を困らせるのか」と問いかけるのは、ただ厳しくとがめてはいけないとか、頭ごなしに押さえつけようとか、そう言った人々を否定しようというのではなくて、ただ、彼らの動機、彼女を厳しくとがめる理由を、聴こうとしているんです。でもそれに対する彼らの答えはないんです。香油を売って儲けたいのであれば、自分たちは、そうしたかったのに、彼女がそうしなかったから、厳しくとがめたんだと、はっきり隠さずに答えたらいいんです。でも、答えがないのは、答えたら、自分たちの良い評価が下がると思ったのか?それは分かりませんが、彼らはイエスさまの問いに答えてはいないんです。と同時に、彼女がしたことを、「するままにさせておきなさい。」と、「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃられるのは、イエスさまは、彼女の気持ち、彼女の行為、彼女そのものを、受け入れて、認めようとしているんです。たといどんなに周りから、300デナリオン以上に売ったらいいとか、貧しい人々に施すことができたのに、と言われても、イエスさまは、香油を注ぎかけた一人の彼女を、大切にされ、そんな彼女を、守ろうとしておられるんです。

 

では、貧しい人々に施すことができたのにと言う、何人かの人々のことを、イエスさまは、何も思っていないのかというと、そうではありません。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」貧しい人々は、いつも、あなた方と一緒にいるじゃないか!一緒にいると言うことは、目の前にいるということです。共に生きているということです。だからいつでも、施そうとすれば、自分たちで出来るじゃないか!一人の彼女の香油を持ち出し、引き合いに出さなくても、彼女を利用しようとしなくても、人のふんどしですもうと取らなくても、自分たちでやればいいじゃないか!と、彼らにも正面から向き合って、彼らにも、どうしたらいいかということを、はっきりと語られるんです。「するままにさせておきなさい」ということは、そういうことでもあるんです。

 

このいろいろから教えられることは、どんなに良いことをしようとしていたとしても、それを他人のふんどしを使って、他人のものを自分のものであるかのように、使おうとすることはないかという問いかけです。それは、たといどんなにいいことであっても、他人から盗み、奪い取る事です。そのことを、イエスさまは、私たちにも指し示されるんです。いかがでしょうか?思い当たるところはないでしょうか?他人のものを使って、あるいは利用して、自分のやりたいことをしていくこと、それでさも自分が善人であるかのように振舞い、見せようとしていくことはないでしょうか?それで、結びなのかというと、続きがあります。「しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。」彼女は、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたと、おっしゃられるのは、彼女のこの行為、油を注ぎかけるということが、これからイエスさまが十字架にかかり、その上で死に、葬られた、その時のために、していることなんだということなんです。それは、彼女がしていることを、イエスさまが、先取りしてくださっていると言うことなんです。それは、先に登場しました祭司長たちや、律法学者たちが「何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」の、「考えていた」というこの言葉にも、はっきりと現れているんです。

 

というのは、考えていたと言う言葉は、求めていたと言う意味ですが、求めていた、考えていたことを、誰がしているのか?というと、彼らが、ということであれば、複数形です。ところが、この言葉の主語は、単数形で書かれているんです。ということは、祭司長たちや、律法学者たちが、イエスさまを捕えて殺そうと考えていたことは、確かに彼らが考えていたことではあっても、彼らの手を離れて、ひとりのお方が、それを考えていたということになるんです。では、このひとりのお方とは誰なのか?それは神さまであるイエスさまです。つまり彼らが、どんなに、イエスさまを捕まえよう、殺そうとしていても、彼らがしたとか、彼らの計略が実現したのではなくて、あくまでも、捕らえられ、殺されることを、考え、求めていたのは、イエスさまなんです。それは、彼女がナルドの香油を頭に注ぎかけたことも、ナルドの香油の入った石膏の壺を壊し、注ぎかけたことも、彼女の全ての行為も同じです。これらの行為は、イエスさまの十字架において、実現した1つ1つを指し示しているんです。ということは、祭司長たちや、律法学者たちがしようとしていたこと、考えていたことも、何人かの人たちが彼女にしたことも、また、ひとりの彼女が、イエスさまに対してしたことも、イエスさまは、十字架の死において、すべてを神さまの赦しに変えて下さると言うことなんです。その赦しのために、そのすべてを用いてくださるんです。ではそのことを、祭司長たちや、律法学者たちも、何人かの人々も、また彼女も知っていたのかというと、そうではありません。また、一人一人のしたことが、完全であったか、間違いがなかったか、誤解がなかったか、というと、そんなことはありません。不完全です。足りないことだらけです。神さまに対して、反旗を翻すようなことも含まれています。しかしイエスさまは、そのすべてのことを、お互いに相働かせて下さり、赦しへと変え、赦しのために、用いられるんです。

 

三本の木という絵本があります。この中に出て来る3本の木には、それぞれに自分の願い、願望がありました。大きくなったら何になりたいか、それぞれに夢がありました。最初の木は、「僕は宝石や宝物を抱えるのが大好きだ。だから、世界一美しい宝物の箱になるんだ」と言いました。二番目の木は「僕は強い帆船(はんせん)になりたい。世界中で一番頑丈な帆船になるんだ」と言いました。3番目の木は、「わたしはこの山の頂上から動きたくないわ。やがて、わたしの背丈が伸びて、人々が梢(こずえ)を見上げる時、天に目を向けて、神さまのことを考えてほしいの。だから世界中で一番背の高い木になるつもりよ」と言いました。さて、ある日のこと、3人の木こりが山を登ってきました。木こりさんたちは、3本の木を切り倒していきました。それぞれの木が大工さんのところに運ばれていきました。1本目の木は、どうなったか?宝箱にはなりませんでした。作った者は家畜のえさを入れる木箱でした。二番目の木は、威風堂々とした帆船ではなく、ありふれた漁船でしかありませんでした。3番目の木は、がっちとした柱の形に削られ、材木小屋に置き去りにされてしまいました。それから長い年月が過ぎて、3本の木は自分たちの夢さえほとんど忘れかけていました。けれどもある夜のこと、一人の若い母親が生まれたばかりのういごをあの動物の餌箱の中に寝かせた時、黄金に輝く星の光が最初の木でつくった餌箱の上に、さんさんと降り注ぎました。その時、最初の木はハッと気づきました。自分は世界で一番たっとい宝物を抱いているのだ。ある夕暮れ、疲れた旅人と、その仲間たちが大勢でふるぼけた漁船に乗り込んで湖に出ました。まもなく嵐が吹き荒れ始めました。二番目の木の漁船はがたがたときしみました。しかし戸の時、その旅人が両手を広げて、「静まれ!」と嵐に向かって叫ぶと、暴れくるっていた風は静まりました。二番目の木は、自分が天と地を治める王をお乗せしていることにハッと気づきました。ある金曜日の朝のこと、三番目の木は材木置き場からいきなり引き出されました。そして怒号する群衆の中を引きずり回され、恐怖におののきました。兵士たちが一人の男の両手を柱となった3番目の木に釘で打ち付けた時、身震いしました。そのみじめさ、残酷さとみにくさに木は打ちのめされそうでした。日曜日の朝、太陽が昇り、三本目の木の立つ大地が喜びに揺れ動いた時、三本目の木は、神さまの愛がすべてのものを変えてしまったことを悟りました。「神さまの愛で最初の木は美しくされたこと。神さまの愛で二番目の木は強くされたこと。そして人々が三番目の木のことを思う時は、いつも神さまのことを考えるようになったこと。世界で一番背が高い木であることよりも、そのことはどれほど素晴らしいことか。」

 

それぞれの木には、自分がしたいこと、なりたいことがありました。その動機は不純であったかもしれません。完全ではなく、不完全と言えるかもしれません。しかしイエスさまは、それらの不完全なことを全て、神さまの赦しのために用いて下さり、神さまの赦しに変えて下さいます。その時、どんなに不完全であっても、そこにこそ、神さまの愛が現れています。だからイエスさまは、「できるかぎりのことをした」ことにも、神さまの愛を現しているんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(9月13日)できるかぎり(マルコ14:1~9)