2026年4月12日礼拝 説教要旨

傷を負わせた時(ヨハネ20:19~31)

松田聖一牧師

 

群れる人と群れない人との違いというタイトルで、こんな言葉があります。

 

電車で隣に座った二人組が、途切れることなく会話を続けている。その一方で、目の前の席には一人で静かに本を読んでいる人がいる。群れる人と群れない人って、どこが違うのでしょうか。一般的には、なんとなく、群れる人は「寂しがり屋で流されやすい」、群れない人は「強くて自立している」というイメージを持たれがちです。でも、実際にはそんな単純な分け方では見えてこない違いがあります。心理学的に見ると、「群れる」「群れない」というのは、性格の強さや優劣ではなく、人がどのように安心感を得ているかの違いだと言えます。

 

群れるか群れないか、その違いは、それぞれの人が、どのように安心感を得ているか?の違いだ、というのは、なるほどそうですね。私たちもそうです。ここにいたら大丈夫という安心を得たいと思いますし、恐ろしい目に遭いたくありませんから、自分自身が安心できる場所、関係を求めています。その時、誰と一緒にいたらいいのか?どういう環境が自分にとっていいのか?ということも、その人、その人によって違いますから、その人なりに考えて、自分にとって安心できる場所、関係を、選んでいきます。だから、誰かと一緒にいたり、またその誰かを選んだり、あるいは1人でいたりするんです。その時に、周りから、誰かと一緒にいたい人に、1人になりなさいとか、また1人になりたいのに、誰かと一緒に、させようと、あれこれしてしまうと、相手のその一人の人には大変なストレスになります。

 

その視点で、イエスさまが十字架につけられ、死んで葬られ、マグダラのマリアからの「わたしは主を見ました」と告げられた時の、弟子たちと、トマスを見た時、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」弟子たちと、そこにはいなかったトマスとの違いと共通点が見えてくるのではないでしょうか?

 

そこで、まず弟子たちの姿を見てみましょう。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたとありますが、その恐れとは、ユダヤ人から、自分達が襲われること、自分達が捕まえられてしまうことを、恐れていた恐れなのかというと、「ユダヤ人を恐れ」とは、ユダヤ人たちの恐れの故に、ユダヤ人たちの恐れの為を思って、という意味ですから、弟子たちは、ユダヤ人たちの恐れに、自分達も一緒になって、ユダヤ人を恐れていたということなんです。そういう意味で、一緒というのは、弟子たちがお互いに一緒に集まろうと言って一緒になっていたということではなくて、ユダヤ人たちの恐れと、一緒、という意味で一緒になっているんです。

 

それは、弟子たちの「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」に現わされています。この言葉を、詳しく見ると、弟子たちがいたところのいくつもの扉、門に、鍵を、しっかりとかけていたということですから、弟子たちがいたところにある扉、戸、門、全てに鍵をかけていたと言えるでしょう。それはまた弟子たち自身の中にある、いくつもの戸、扉、門に、という、彼ら自身の、いくつもの思いにも鍵をかけていたということでもあるんです。その結果、弟子たちは、心を閉ざしていたとも言えますし、その結果、弟子たち同士でも、お互いに心を閉ざしていたということになります。もちろん弟子たち同士、お互いに、思う所、言いたいことがたくさんあったと思います。しかしこの時、弟子たちはお互いに、自分の思いを打ち明けられないほど、心を閉ざしていたんです。

 

あるご家庭で、一人息子さんが反抗期になりました。母親が朝、おはようとか、いってらっしゃいとか、いろいろ言うのですが、その時に帰ってくる返事は、「うん」だけ。それでも普通に接しておられたのですが、何かのきっかけでトイレに籠ってしまい、鍵をかけて出て来ないんです。いくら声をかけても、鍵を開けて出てこようとはしませんでした。その時「開けて!開けなさい!」といくら言ってもダメでした。それでしばらくたって、落ち着いたのでしょうか?鍵をガチャっと開ける音がしました。扉を開けると、その子は、目に一杯涙を浮かべて、泣きはらした顔をしていました。何かがあったんです。その子には。でもそれを根掘り葉掘り、無理やり聞こうとはせずに、そうっとしているうちに、だんだん落ち着いて来て、自分の思いを話すようになりました。

 

そういうことがあるんですね。同じ家、同じ屋根の下に一緒にいても、トイレか、他の部屋かは別にして、鍵をかけてしまうこと、心を閉ざしてしまうことがあるんです。その時返えってくるのは「うん」なんです。あれこれ聞いても、かえってこないんです。それは、思春期だけのことではないと思います。自分の中に、恐れや不安、いろんな思いが一杯あっても、言えない、打ち明けられない・・・ということがあるんです。

 

そんな弟子たちのところに、イエスさまが来てくださり、「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』は、イエスさまが、心を閉ざしていた彼らのところに来てくださり、集まった弟子たちの真ん中に立ってくださっただけでなくて、1人1人の弟子の、その真ん中にも、イエスさまが来てくださり、そこに立っていてくださるんです。そして、その一人の弟子に始まる弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」神さまの平和、平安、安心があるようにと、神さまから与えられる安心を与えておられるんです。

 

その時、あなたがたに平和があるようにと言われた、イエスさまは、どこにおられるのか?それは遠く離れたところにではありません。彼らの、真ん中、中心に、です。たとい、どんなに心を閉ざして、一歩も出られなくても、お互いに扉を閉めて、恐れの中にあっても、イエスさまは、自分達が鍵をかけていた、その向こう側から来て、真ん中に立ってくださり、あなたは独りじゃない、わたしがいる!と、「あなたがたに平和があるように」と、神さまの平和、平安を与えておられるんです。

 

そう言ってイエスさまが「手とわき腹をお見せになった」時、弟子たちは、「主を見て喜んだ」弟子たちは、イエスさまを主として見て喜んだんです。でも不思議です。手とわき腹を見せて、喜べるものなのでしょうか?というのは、手とわき腹には、十字架に釘で打ち付けられた時の傷、やりで刺し貫かれたわき腹の傷があります。だからその時、十字架の上で受けた傷を、弟子たちは見ることになるのではないでしょうか?そして、その傷を目の当たりにした時、この傷は、十字架上で受けた傷だと分かったことでしょう。ところが、イエスさまは、彼らに、傷を見せようとして、手とわき腹をお見せになったとは書いていないんです。そして彼らも、イエスさまの手とわき腹にある傷を見たということではなくて、「主を見て喜んだ」イエスさまが主であることを見て、喜んだんです。

 

それは、イエスさまが、ただほら見てごらん、と手とわき腹をお見せになったということではなくて、「お見せになった」の意味としてある、その手とそのわき腹を指し示されたと言うことだからこそ、イエスさまは、手やわき腹を見せて、イエスさまが、主であること、神さまであることをも指し示されるんです。だからこそ、弟子たちはイエスさまが、主であることを、受け取ることができたんです。イエスさまが、私の主だ!と分かったんです。それで彼らは主を見て喜んだんですが、イエスさまは、それで良かった!良かった!で終わり、ではなくて、「重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』とおっしゃられるんです。それは、神さまがイエスさまを遣わして下さったことと同じく、神さまの平和、神さまの平安と共に、独りにはしておかず、いつも共におられる主、イエスさまと共に、弟子たちも、私たちも遣わされていくということではないでしょうか?

 

それが派遣の言葉なんです。「わたしがここにおります。わたしを遣わして下さい。キリストの平和の使者として、行きなさい」は、私たちに、ただ行きなさいと言っているのではなくて、私たちが、それぞれのところに遣わされていく時、神さまであるイエスさまが、私たちと共に、ついていてくださり、あなたがたに平和があるように、を、イエスさまは、遣わされた先で出会う、その人にも届けておられるんです。そのことを「だれも罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とおっしゃるのは、何が何でも赦さなければ、ダメだ!ということではなくて、私たちが遣わされた先で出会う、その人との関係の中で、赦せる時もあれば、赦せないこと、赦せない相手がいるということも、指し示しておられるんです。

 

それはその通りですね。赦せと言われても、赦せないことがあります。赦せない相手がいます。赦せば赦されるということも、赦さなければ、赦されないまま残ることも、その通りだと頭では分かってはいても、現実はなかなかその通りにはなりませんし、できません、という現実も、イエスさまは、はっきりと示しておられるのではないでしょうか?しかしそれでも、イエスさまは、その人を赦すために、私たちが赦せないところにも、遣わされるんです。

 

それは、弟子たちと一緒にいなかった、トマスにおいてもそうです。他の弟子たちとは一緒に行動しなかったということは、いろいろな理由で、独りになることで安心しようとしたのでしょう。しかし、イエスさまとの関係で言うと、トマスは、弟子たちからも、イエスさまからも離れていましたから、手とわき腹とをお見せになったイエスさまには、まだ出会っていないんです。それでも他の弟子たちは、トマスを自分たちと一緒にいなかったから駄目だと責めているのではなくて、離れてはいたけれども、「わたしたちは主を見た」と、トマスに知らせてくれるんです。

 

でもトマスにとっては、彼らがいくら、わたしたちは主を見たと言われても、見たというだけで、主だと認めて、受け入れていることが、納得できないし、そういう弟子たちを、赦せないんです。だからトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と、イエスさまが本当に主であるということを、この目で見るだけではなくて、もっと具体的に、実際に触って、わき腹に手を入れて、投げ入れてみなければ、決して信じない、と返していくんです。それだけを見れば、トマスは、他の弟子たちにも、イエスさまにも徹底的に反抗し、反発しています。

 

でも、決して信じないと徹底的に反抗し、反発するのは、それほどまでにイエスさまが、本当に復活され、生きておられる主であるということを、自分のすべてをかけて、体ごと向き合ってでも、それを知りたい、分かりたいということではないでしょうか?だから、決して信じないと言っていることも、実は、信じないと言いながら、トマスは、信じようとしているんです。信じたいと願っているんです。そして反抗、反発しているトマスを、弟子たちは受け入れ、トマスと一緒にいるんです。またイエスさまも、彼らのところに来てくださった時、トマスのその言葉をそのまま受け取って、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と、返していかれるのは、赦せないでいたトマスを、それでも赦し、受け入れてくださっているからではないでしょうか?

 

ふつか分のパンという本の中で、一人の牧師先生が園長も兼ねておられた方でしたが、その園に入園してきたお母さんとのやり取りが記されていました。このお母さん、いろいろ抱えていたものがあったようです。初対面の園長先生に、開口一番おっしゃいました。「園長先生ですか。よろしくお願いします。」「園長先生、つまらん亭主を持つと、女はみじめですねえ」子どもさんがいなくなると話しかけてきました。「そうですか。そうでしょうねえ」「うちの亭主ときたら…」と話し始めると、お母さんは、止まらなくなりました。そしていろいろと鬱積したものを話しながら、「園長先生、どう思われます?それでも私が悪いと思われますか?」「う~ん、そうですねえ。あんたにも悪い点がないことはないなあ」「わたしにも悪い点がありますって、いったい、わたしのどこが悪いのですか」「赦さないことがわるいなあ」「赦さないことが悪いなんて、だから私はキリスト教が嫌いなんですよ。だいたい人間に人を赦すことができるんですかね。「父よ、彼らを赦し給え、彼らはなすべきことを知らざればなり」なんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないの。イエス・キリストだか誰だか知らないけどさ、自分を殺そうとする人に向かって、こんなことを言ったと言うのはうそっぱちに決まっているわよ。私はそんなことを信じませんね。腹が立てば喧嘩すればいいじゃないの。へんに聖人ぶって、あなたを赦してあげる、何が赦してあげるなんだい。私は今まで随分たくさんのクリスチャンに会ったけど、1人として心から人を赦した人を見たことなんかないわよ。なるほど顔はニヤニヤしているかもしれない。けど、腹で何を思っているか知れたものではない。顔でニヤニヤ、腹でブツブツ、いや、全く嫌になっちゃう。こんな偽善者はまっぴらごめんだね。私はね、赦すという言葉を聞くと頭にきちゃうんですよ。園長先生、あなたはどんな人の罪も赦しますか。あなたの奥さんを殺したり、子どもを誘拐したりするような人でも赦せますか。人のことだから、赦しなさい、などと口軽く言うことができるんですよ。そうと違いますか」「本当にあんたの言われる通りですなあ。人間誰しも人を赦すことはできませんなあ。わしもなんか言われるとすぐ腹が立つんです。そして赦さにゃあかん、赦すべきやと思うのですが、それと一緒にどんな仕返しをしてやろうか、どうしたらギュッと言わせることができるか、と必死で考えている自分をどうすることもできない時がしょっちゅうあります。わしもあんたの立場に立たされたら、きっとあんたと同じことをしているでしょうなあ。いや、あんたよりももっとずるがしこい方法を考えてるかもしれん。けど、私たちには出来ないと言うことと、それが悪いかどうか、ということとは別の問題と違いますか」そう話すと、急にこの人の態度が変わってきました。「園長先生、あなた牧師でしょう。牧師なのに、なぜそんな自分の恥ずかしいことを言われるんですか。実は、私は今までいろんな教会に信仰を求めて行きました。でも先生みたいなことを言う牧師に会ったのは初めてです。そんなこと言って、伝道できますか。信者さんがよくついて来ますねえ。けど、私、今日は先生に会えて嬉しい」そう言いながら、この教会に来たいと思いますと言われて、「はい、どうぞどうぞ。でも、わしに失望したらあきませんよ。教会はイエス・キリストを求めて来るところですからね」「分かってます。よろしうお願いします」と、それから教会に来るようになり、いろんなことがありましたが、その年のクリスマスに洗礼を受けられたのでした。

 

トマスの反抗、反発は、徹底的でした。赦せないということも、本気でした。そんなトマスを、弟子たちも、イエスさまも受け入れていました。人が神さまであるイエスさまに出会う時、私の主に出会う時、いろんなことがあります。赦せない、と傷を負わせてしまうこともしばしばです。しかし、そうであったとしても、イエスさまは、それでも丸ごと受け入れて、それでも赦して下さるお方です。イエスさまは、本当に平和を与え、平安を与えて下さる神さまです。だからこそ、あなたがたに平和があるように、との約束も、その通り生きたものとなって、与えておられます。

 

祈りましょう。

説教要旨(4月12日)傷を負わせた時(ヨハネ20:19~31)