2023年8月6日礼拝 説教要旨

必要なこと(ルカ10:25~42)

松田聖一牧師

 

ブーメランというものがありますね。投げるとくるくる回りながら、向こうに飛んでいくだけではなく、投げたもとの位置に戻って来るというものです。プラスチックのおもちゃのブーメランなどもありますが、もともとはオーストラリアに住んでいるアボリジニという方々が、狩猟のための道具として使われていたものが、広がったとされています。ではどうしてブーメランが、自分のところに戻って来るのかというと、ブーメランをよく見ると、その羽と言いますか、プロペラのようなものが、それぞれまっすぐではなくて、それぞれが少しずつ、角度を変えて曲がっているのです。その少しのことで、手元に戻ってくるようになっているのです。つまり、ブーメランを飛ばす時、飛ばす人の、その飛ばし方で戻ってくるのではなくて、そもそもブーメランには、手元に戻ってくるように作られているということなのです。そんなブーメランが、元に戻ってくるということから、私たちの言ったこと、やったことが、結局は自分に帰って来る、戻って来るという意味にも繋がっていきます。

 

それと同じことが、ある律法の専門家が、イエスさまに問うた問い「イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」に始まる問いにもあるのです。というのは、この問いは、イエスさまに問う前に、もうすでに彼自身の問いであることと、それでイエスさまに、永遠の命を受け継ぐには何をしたらいいのか、という問うわけですが、同時に、イエスさまに問いながら、この問いを自分にも向けています。

 

それほどに、この時、律法の専門家は真剣に問うていました。「永遠の命を受け継ぐことができる」すなわち、神さまと共にある命、神さまがいつも一緒にいて下さるという命に生きることができるのには、何をしたらいいか?その答えが欲しかったのです。でも彼は律法の専門家ですから、神さまと共に生きるためには、律法を完全に守ることができたら、神さまと共にあるということは知っていたはずです。律法を学び、律法をこの耳で聞き続け、律法を覚え、読まれた律法が彼自身にしみこんでいたはずです。だからそれで良いとされていたのに、この専門家は、これまで聞いてきたこと、自分が律法の専門家として、神さまと共にあると自他ともに認められていたはずなのに、この問いが出て来るということは、この律法を学び、守ること、そこに生きることで十分であったはずなのに、彼の中では、まだ満たされない何かがあったからではないでしょうか?

 

専門家ですから、周りからも専門家として評価されていました。だから、立場もしっかりと守られているのです。その社会の中で、彼は十分に生きることができました。それでも、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と言う問いは、求めて、求めて、捜して、捜している彼の、生きる命そのものから出た問いではないでしょうか?

 

引退された先生からずいぶんとたくさんの本をいただきました。神学校に入る前、学んでいる時も、そしてそれ以降にも、その時その時に引退される先生から、本をもらってくれないか?ということで、取りに伺いました。そういう形でいただいた本ですので、なかなか整理できないです。思いがこもっている本なので、なかなかどこかに…と言うことができないものですから、それがだんだん増えて、引っ越す度に、本専用の引っ越しトラックが必要になるくらいでした。そんな頂いた本には、それぞれの方の、メモやら、広告の裏に、その先生が神学校で学んだことを繰り返し、復習されている学びの跡もありました。その時々の、ご自分の思いも走り書きのように、書き込まれています。その中に、こんな言葉が目に留まりました。

 

「主よ、与えてください。求めて、求めて、渇いています!主よ、与えてください!」

 

その時の心情はどうだったのか?もう70年近く前の書き込みです。もうその本を下さった先生は、天に召されていますから、どういう思いで書かれたのかを知ることはできませんが、求めて、求めておられたということ、そのために、主よ、渇いて、渇いています。主よ、与えてください!という祈りのような、心からの叫びだったのではないかと思います。

 

この専門家もそうです。求めていました。だからイエスさまに、何をしたら、受け継ぐことができるでしょうか?と問うたその問いに、イエスさまは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、彼の問いに、ブーメランのように問い返していかれるのです。

 

律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか、というこの問いを詳しく見ると、あなたはその律法を、どう読んで聞かせているのか?と言う問いです。どう読んで聞かせているのか?と言うことは、この律法の専門家にただ、書いてある律法が何なのか?という質問ではなくて、彼がイエスさまに答えた律法を、彼自身が、どう読んで聞かせているのか?と言う問いです。つまり、当時の律法というのは、黙って読むという黙読ではなくて、読まれたものを聞くということでしたから、それをずっと聞き続けて、聞いて育った、その言葉が、自分自身の中にしみこみ、完全に覚えているという律法を、彼自身が、どう読んで聞かせているのか?と言う問いなのです。その時、人に読み聞かせているだけではありません。彼が自分にも読み聞かせています。だからこそ、イエスさまは、人にどう読み聞かせているかだけではなくて、彼自身にどう読み聞かせているのかと、問いを返しておられるのです。

 

つまりその言葉をその言葉通りにただ聞いたというだけではなくて、自分自身がそれをどう受け止めて、その律法、神さまの言葉に、私はどう耳を傾けているのか?自分がどう聞こうとしているのかという、彼自身の、自分の問題として聞くということへと、ブーメランのように返していく、イエスさまの問いがあるのです。

 

人から人へ、何かを話す時がありますね。その時に、今なんて言った?と聞くと、相手のその人が、全然聞いていないということがありますね。それは物理的にその声が聞こえていないというのではなくて、その言ったその声が、相手の意識、心に入っていかないということがあるのではないでしょうか?そういう時に起こるのは、全然聞いていないじゃないの!という反応です。聞こえているのです。聞こえないのではないのです。聞こえているのに、入っていかない、ということは、結局は聞いていないということになりますね。

 

イエスさまはこの律法の専門家に、あなたに読み聞かせられてきたその言葉、そして専門家となって、今度は人々に読んで聞かせていくという中で、その言葉をどう読んで聞かせているのか?ということを問うた時、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。と答えていくのです。その答えを、イエスさまは、「正しい答えだ」と認めておられるのですが、その彼をして正しい答えを答えた、彼に、イエスさまは正しい答えだと、認めながら、「それを実行しなさい」神さまを愛すること、自分を愛するように隣人を、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、全人格的に、すべてのことを通して、愛しなさいということを、実行しなさいと言われるのです。ところが、その時、彼は、分かりました、ではなくて、自分を正当化しようとするのです。

 

正しい答えだと言われながらも、どうして自分を正当化しようとするのかというと、その時彼の中に、自分を正当化したい、自分を正当化することで、自分を守りたいという、自己保身の姿があるのではないでしょうか?正当化することで、自分の立場を守ろうとしている、自分を弁護しようとしている姿です。それが「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスさまに、問う問いになるのですが、その内容は、「わたしの隣人とは誰ですか」という彼にとっての隣人を、ある特定の人に限定している問いです。つまり、彼にとっての隣人は、全員ではないのです。自分にとって隣人となる人と、隣人となれない人とを分けようとしているのではないでしょうか?逆に言えば、自分の中で、隣人となる人と、隣人となれない人がいるということを、彼はこの問いの中で、現わしているのではないでしょうか?

 

人ってそうなんですね。そうしてしまいます。隣人を自分のように愛しなさいという時、自分を守るために、自分が傷つかないようにするために、自分にとって、隣人になれる人、なりたい人、と、なれない人、なりたくない人を、分けていってしまうということがあるのではないでしょうか?

 

その姿が、この後に続く譬えに出て来る、追いはぎ、強盗に襲われ行倒れになっていた一人の旅人に対して、祭司はその人を見ると、「道の向こう側を通っていった」すなわち、私には関係ないという態度を取ってしまうのです。レビ人も、同じです。「道の向こう側を通って行った」のです。この時、この偉い先生には、助ける方法、道具、技術がなかったことも確かです。その中で、ところが、一人のサマリア人は、「その人を見て、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」この人は、助ける道具、技術があったのです。祭司、レビ人の中にとって、助けたいという気持ちはあっても、助ける方法がない時、技術がない時には、助けようがないのです。それが祭司であり、レビ人のこの時の姿です。

 

でもこのサマリア人は違ったのです。持っていたもの、技術も含めて、それを用いていったのです。ではこのサマリア人も、ずっとこの人に付き添い続けることができたのか?というと、出来ませんでした。できなかったけれども、彼は自分の持っている、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と、最終的には、宿屋の主人に委ねていくのです。

 

ということは、このサマリア人も、自分のできうる精一杯のことをしたけれども、出来ないこともあったのです。できないことがあったからこそ、任せることができる主人に任せていったということは、出来ない時には、出来ないということを彼も認めたということではないでしょうか?そういう意味では、祭司も、レビ人も、このサマリア人も、何もかも全部できたわけではありません。できないことがあったのです。でもそのできないことを無理やりしようとしたのではなくて、出来ない時には、出来ないことをそのまま認めて、受け入れて、出来る方に任せていくということではないでしょうか?

 

翻って、私たちはどうでしょうか?何もかもを自分でやろうとすることがありますね。何もかも、全部をしようとしてしまうと、出来ていることも、出来るはずのことも、出来なくなってしまうのではないでしょうか?あれもこれも、というのは、一人の人の能力を超えています。でもそれをやろうとすると、どこかにしわ寄せがきてしまうのです。ストレスになったり、誰かにぶつけてしまったり、ぐちを言ってしまったりとなってしまうのです。

 

マルタもその1人です。彼女も彼女なりに、一生懸命でした。それは素晴らしいことです。でも彼女は何もかも全部やろうとしたことで、マリアにその矛先を向けていくのです。いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたマルタ。その通り、立ち働いていたということは、立ちっぱなしだった、立ち仕事がずっと続いていたのです。立ち続けていたのです。自分で頑張ろうとしてきたと思います。でもそのがんばりが、彼女なりの精一杯の努力が、それはそれでよかったかもしれない、それはそれで素晴らしいことだったかもしれない。しかしそこにも限界があったということなのです。

 

そのぐちを、マルタはその時、イエスさまに愚痴っていくのです。ぐちをこぼすのです。「主よ」神さま!とマルタは、自分の限界を感じていたのかもしれません。できないことが悔しい思いでいたのかもしれません。でもそのことを、自分で抱え込むのではなくて、その思いをイエスさまに「主よ!」とイエスさまのところに持っていくのです。そんな主よ!と持っていけたのは、イエスさまがそこに一緒にいてくださり、彼女をイエスさまは受け止めて、受け入れてくださったからこそ、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってくださいという、マルタは自分のしてほしいことを、イエスさまに訴えて、イエスさまに持っていくのです。

 

そんなマルタに「マルタ、マルタ」マルタの名前を二度も呼んでくださり、マルタに、読み聞かせて下さると同じく、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。必要なことはただ1つだけである」彼女が、思い悩んで、どうにもならなくなっていること、心を乱していることに、イエスさまは寄り添ってくださるのです。そして寄り添いながら、何もかもしなくてもいいよ。全部を自分で抱え込まなくてもいいよ、出来ることを、喜んでできたら、それでいいんだということを、イエスさまは、マリアがイエスさまの足もとにすわって、イエスさまの話に「聞き入っていた」聞き流していたのではなくて、「聞き入っていた」マリアに目を向けるように、いろいろなもてなしができなかったかもしれないマリアが聞いていた、イエスさまからの言葉、イエスさまが語り聞かせて下さったその言葉を、イエスさまは、マルタにも語り聞かせてくださったのです。それはまさに律法の専門家に「どう読んでいるか」ということと同じく、イエスさまは、あれこれすること、何もかも全部自分ですることに一生懸命になって、限界を感じていたその姿に、必要なことは多くはない。ただ一つだけだということを、ここでもう一度、いろいろなことでせわしくなり、抱えきれなくなってしまったことで、自分を見失いかけていたマルタに、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」マルタ、マルタと、語り聞かせてくださっているのです。

 

こころの友という読み物がありますね。今月号に玉川聖学院という女子学校で学院長をされている先生が、生徒との出会いを通してのことを、次のように紹介しておられました。

 

ある時、校舎建築の資金返済の最中に、入学者数が激減し、学校の経営が問われる大きな節目に遭遇しました。

まさにその日、昼休みの学院長室に突然中2の生徒が2人やってきました。「学院長先生、質問があります」ドアを閉めて話を聞くと、そのうちの1人がまっすぐな目をして言うのです。「今日の聖書の授業で、イエスさまを信じたら心の中から泉が湧き出るというお話を聞いて、私もクリスチャンになりたいと思いました。どうしたら洗礼を受けられますか?」もう1人は牧師家庭から来た生徒で、友達と私の顔を交互に見ながらにこにこしています。

本校の中学生は毎週日曜日に教会に行っています。彼らには自分が通う教会の牧師に洗礼を受けたいと伝えるように教え、これからの導きを一緒にお祈りしました。笑顔で教室に戻っていく2人を見送りながら、私は自分への神の語りかけを聞いたように感じていました。「私は今、こうしてここでわたしの業を行っている。これからも行うつもりだ」神を信じない者が、信じる者になることほど大きな奇跡はありません。神がこのような軌跡をこれからもここで行おうとしておられるのなら、この学校は大丈夫だ、守られ続けるに違いないと思いました。そしてその年、入学者数の減少は不思議と止まり、翌年もなぜか守られ、神の奇跡に支えられる毎日が続いて行ったのでした。

生徒が受け取った「生きた水が川となって流れ出る」という御言葉は、学校の存続に希望を与えるいのちの水となりました。神の言葉とは、信じる者からあふれ出て、現実世界をも潤していくものなのです。

 

イエスさまは約束しておられます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」イエスさまを信じる者は、聖書に書かれている通り、聖書に約束された通り、その人の内から生きた水が川となって、神さまの恵みの言葉が、流れ出るようになります。

 

それは学校においてだけではありません。教会においても、私たちにおいてもそうです。神さまが、今、ここで神さまの業を行ってくださいます。これからも行ってくださいます。その祝福が、これからもずっと続いていきます。そしてその祝福を与えて下さる神さまは、ここで私と神さまとが出会い、自分自身を見つめ、私ができなくても、限界を感じていても、それでも任せることができる、信じて、信頼できるお方がいらっしゃるという出会いを与えてくださいます。その必要なことを、今日も、私たちに与えてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月6日)