2023年5月28日礼拝 説教要旨

求めなさい(ルカ11:1~13)

松田聖一牧師

 

インスタグラムというものがあります。そこにはいろいろな方が、自分で撮影した写真や、動画をアップされていますが、その中に、卵からかえった小さなシジュウカラのヒナの様子が出ていました。見ると、ヒナは口を大きく開けて、親鳥が取って来る餌を必死でおねだりしています。ヒナの口は、顔よりも大きいですね。必死で餌を自分のものにしたい!という生きるための精一杯の姿です。その時、ヒナ同士仲良くしていません。我先にと、必死で口を精一杯開けて、餌をこちらに入れてくれ~と鳴きながら、同じ大きさ同士の他のヒナを押しのけてでも、踏みつけてでも、自分に入れてもらおうとしています。ヒナも生きるために必死ですし、それは本当に力強いと言えるでしょう。

 

そのように、生きようとすることは、本当に力強いです。その強さは素晴らしいことです。でも、その強さが、時には、餌を誰よりもほしい、自分にほしい、人を押しのけてでも欲しい、とすることが時として出て来ることがあるのではないでしょうか?そういう意味で、欲と言うのはなくなりません。普段は何もないように見えても、何かの時に、ひょっと出て来るものです。それは、イエスさまに対して、弟子たちが、祈りを教えてくださいと願うこともそうです。そしてその願いを、イエスさまの祈りをやめさせてでも、願うのです。

 

というのは、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と願ったイエスさまの弟子たちは、イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネが、ヨハネの弟子に祈りを教えていたことを耳にしたことで、ヨハネが自分の弟子たちに教えていたように、自分たちもイエスさまに、祈りを教えてほしいと、「わたしたちにも祈りを教えてください』と願うのですが、その時、イエスさまが祈っておられた、その「祈りが終わると」と言う言葉の意味を詳しく見ると、祈りをやめさせられ、阻止されたことで、祈りを終わらせた結果、イエスさまの祈りが終わると、という言葉なのです。

 

つまり、イエスさまの弟子たちが、イエスさまに、祈りを教えてくださいと言う時、イエスさまと一緒に祈ろうとしたのではなくて、ヨハネが、自分の弟子に祈りを教えていたことと同じように、自分たちにもしてほしいという願いだけではなくて、ヨハネの弟子たちよりも、自分たちを大きくしようとしているのではないでしょうか?それが、イエスさまの祈りをやめさせてでも、自分たちの願いを貫き通そうとしている姿であり、それはまた自分たちの思い通りに、イエスさまをコントロールしようとした姿でもあるのではないでしょうか?

 

そんな自分が大きく、大きくなろうとしている彼らに向かって、イエスさまが祈る時には、こう言いなさい。すなわち祈る時には、いつでも、どういう時でも、こう祈ったらいいと教え、与えて下さった祈りが、「父よ、御名があがめられますように。」神さま!あなたの御名が、大きく、大きくなりますように!すなわち、神さまが大きく、大きくなりますように、なんです。自分たちが大きく、大きくなりますようにではないのです。神さまが、大きく、大きくなりますように。との祈りが祈りだ!と教えてくださっているのです。

 

それは、神さまが、私たちの存在をはるかに超えて偉大であるからです。なぜかというと、私たちは誰もが、神さまによって、命を与えられた者同士だからです。神さまの手によって、命与えられた、神さまにとっての最高傑作同士です。その造られたものである、私たちが、神さまよりも大きくなろうなんていうことは、ありえないことです。ところが、ありえないし、できもしないのに、神さまよりも大きく、大きくなろう、とする姿を、私たちは、人と人との関係の中でも、イエスさまとの関係の中でも、してしまうことがあるのではないでしょうか?相手よりも、少しでも大きくなろう、なりたい、あの人よりも、この人よりも、大きくなりたい、少しでも良くみせたい!それが、優越感であり、またそれができない時には、劣等感となっていくのです。その優越感と劣等感とをシーソーのように、あっちに行ったり、こっちに行ったりするのです。

 

そんな私たちであることを、私たち以上に知っておられる神さまは、私たちのために、毎日の必要な糧、必要な食べ物、身体、心、家、服など、私たちが生きるために必要な、いのちの糧を、私たちが自分を,少しでも大きく、大きくしようとしていても、その思いとは比べ物にならないほどに、大きな、大きな神さまは私たちに、毎日毎日、必要な分を、十分に祝福して与え続けてくださっています。それも、一週間まとめてではなくて、その日、その日の必要を神さまがちゃんと与えてくださっています。そして、それは大きな、大きな神さまに、毎日の生活の中で、いつも包まれ、覆われ、守られているということではないでしょうか?それは、その日、その日を生きることを、神さまが赦してくださり、その赦しは、私たちが自分を大きくしようとしている、その大きさをはるかに越えた、今日を生きることを、赦してくださっている神さまの、大きな、大きな赦しの中にあるということが言えるのではないでしょうか?

 

そのことを知ることが出来たら、またそれをいただくことができたら、その一日一日の生きるということの大きさ、私は神さまに毎日毎日ゆるされている事が、ますます迫ってくるのではないでしょうか?そのことを受け取らせていただくことを通して、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という祈りが与えられていくことによって、どんなにか楽になれるのではないでしょうか?赦す人と赦さない人、赦せない人がいるのではなくて、みんな赦しますから・・・とその人の中に、与えられたら、こんなに幸せなことはないですね。

 

そのお恵みを、イエスさまは与えるために、主の祈りを教え与え下さっているのです。父よ、御名があがめられますように!と。

 

その一方で、毎日を生きるということの中で、神さまはいろんな経験も与えてくださいます。その経験の中には、私たちの願った通りにはならないこと、あるいは、神さまにとって、また私たちにとっても必要なものと判断されるものも、すぐに与えられないことがあります。その時、私たちは待たされます。どうしてすぐに与えてくださらないのですか?と思ったり、言ったりもします。でも、すぐに与えられないというのは、そこに、神さまの深い深いご計画と、神さまの深い思いがあるからこそです。なぜならば、神さまは、私たちにいじわるしようとか、悪に陥れようとしておられるのではなくて、すぐに与えられないということを通して、すぐに与えられないでいるその時を通して、もっと、もっと、神さまを信頼できるように、もっともっと神さまに向かって生きる一日、一日であるようにと、導くためではないでしょうか?

 

それでも、すぐに与えられないと、諦めかけてしまいます。本当に祈りが聞かれているのかと、揺れ動くこともしばしばです。それは、イエスさまのおっしゃられた、旅行中の友達のために何も出すものがない、その人が、自分の友達に、「友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」と、心から願って頼みに行きますが、友達は、「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたになにかをあげるわけにはいきません」と、断られたことと重なります。でも貸してくれと頼む相手は、友達です。友です。愛する人です。そんな大切にしている人、愛する人、信頼している人と言ってもいいでしょう。その人から断られるのです。確かに真夜中ですから、断られるのはやむを得ないことかもしれません。しかし頼む方も必死ですから、

 

その時には、何でここまでお願いしたのに、貸してと言っているだけなのに、欲しいと言っているわけではないのに、どうして貸してくれないのか?貸してくれへんのか?と思いたくなります。けれども、イエスさまは、こちらが貸してください、と願ったことに対して、貸してあげようという答えではなくて、「何でも与える」とおっしゃっておられるのです。それは、そもそも貸すということには、返す必要があるからです。貸してくださいに、よし貸してあげようと言われて、パンを貸してもらったら、また何かの時には、同じように返さないといけなくなります。でもイエスさまは、貸して下さいという願いが断られたと受け止めてしまうことでさえも、貸して下さいと願った願いを、遥かに越えた大きな答え、何でも与えてくださるという答えを与えてくださるのです。

 

それは私たちにもそうです。たとえ、私たちにとって、断られたと受け止めてしまうことがあっても、それで落ち込んだりすることがあっても、本当に与えられるのか?与えられないのではないかと揺れ動く日々であっても、神さまは、必要なものは、何でも与えてくださる!神さまが必要と判断されたことは、必ず与えて下さるお方だということなのです。

 

だからこそ、必要なものは、それを与えてくださる神さまに求めていくことを、諦めないことなのです。「しつように頼む」それは厚かましいことのように思うかもしれません。しつこいと言えるかもしれません。でも、しつように、しつこく、厚かましく求め続けていくことを通して、最初に求めたこと以上の、もっと必要なこと、もっと大切なものを、与えてくださるのではないでしょうか?

 

それが「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」いやいない!に現わされているのです。この中で、父親は父なる神さまのことであり、子どもとは、私たちのことです。その子供に、蛇やさそりを与えてしまったら、その子は死んでしまいます。だから父なる神さまは、私たちに、死んでしまう蛇やサソリを与えない!蛇やサソリを与えるのではなくて、魚を与えると、おっしゃっておられるのは、私たちが、魚を必要としているから、魚を与えるのです。そしてその魚が欲しい、魚がほしいと「欲しがる」願い続ける時、最初に願った魚以上の魚、すなわちイエスさまと言う魚を与え、命を奪うものではなくて、命を与えるために、命そのものであるイエスさまを与えて下さるのです。なぜならば、神さまにとって、また私たちにとっても、イエスさまが、何よりも必要だということを、父なる神さまが分かっていて下さるからです。

 

それを「与えてください」と、しつこく、厚かましく、求め続けていくことで、最初願った魚で終わりではなくて、魚以上の魚であるイエスさまが、より大きく与えられていくように、導かれていくのではないでしょうか?

 

ある親子で緩和ケアの医師として地域に仕えておられた方がおられました。緩和ケア医とは、手術などができない患者さんと、そのご家族に対して、必要なケア、心のケアと痛みのコントロールなどを行う医師のことを言います。その緩和ケア医師として、お母さんと息子さんが、同じクリニックでいろいろな方を診ておられました。そんな中で、息子さんにがんが見つかり、脳に転移をしていることが分かりました。その時、母親であり、共に医師として働いていたそのお母さんは、自分の後継者として期待していた息子さんを、やがては看取らなければならないという中で、特に最初は、そういう現実を受け入れられなくて、よく車の中で、一人泣いておられました。息子の人格がいつ壊れるか分からない、恐怖感がいつもありました。それでも、息子さんの症状が進んだ時にどうしたいかということを、何度も確認していきました。息子さんも、医師としての思いの中で、家でみれる状態であれば、家。でもそういうことができなくなったら、緩和ケアで見てほしいという希望を語っていました。そんな中で、母親としてこうおっしゃっている言葉がありました。「楽しめる間はぜひ彼の人生をしっかりと楽しんでもらいたいなと思うし、楽しめない時期って最終的には来ると思うんですけれども、その時は、医者としてというよりも、親として手伝えることは手伝いながら、見守りたいなとは思っています」とおっしゃっていました。

 

そんな日々の中で、厳しい状態になり、意識がなくなった時、母親として、緩和ケアの医師として、担当の医師から手術を、と言われた時、本当に揺れ動きました。緩和ケアとしては、手術はせずにいくということがこれまでの方向性でした。でも手術と言われたとき、大きなリスクを負うことになること、元通りにはならないことは分かっていても、どこまでの状態になるのかも全く分からない中で、家族と話し合い、手術を受けることになり、結果として、20日間意識が戻った中で、家族と意思疎通ができる状態になって、過ごすことができたことでした。そのことを振り返りながら、母親である医師のその方からは、最初求めていたこと、手術はしない、そのまま看取りましょう、という思いから、その人がその人らしく数日でも、日常生活が良くなるのであれば、緩和ケアの医師として、お勧めしていいんじゃないかと、本当に気持ちが変わったことを吐露されていました。そして、続けてこうおっしゃっていました。「息子と家族と一緒に生活できた、あの20日間は、宝石のような毎日でした。」この言葉でした。

 

そんな、息子さんが自分の葬儀に際してビデオメッセージを残しておられました。そこにはこれまでの感謝と共に、天国で、いつか皆さんとお目にかかれること、でも急がすにいてくださいということと共に、天国に先にいってお待ちしておりますというメッセージでした。そして手を振って、また会いましょう!と結ばれていました。

 

この一連の出来事を通して、息子さんを送られたお母さんにとっては、手術が成功したことで、そういう思いになったことはその通りです。でも成功したケースもあれば、そうでないこともありますから、結果如何によっては、一律にこうだと、言い切れるものではもちろんありません。

 

しかし、そういう結果がどうなるか分からない時にも、願ったような結果にならなくても、それでも神さまに求めていくことができるのです。時には、人をかき分け、押しのけてでも、イエスさまを押しのけようとすることがあっても、そういうことでさえも、求めていけるお方、その求めを、しっかりと受け取って下さるお方が、いらっしゃるということを、イエスさまは教え続けてくださっています。だからこそ、何を祈っても大丈夫です。無茶苦茶な祈りでも大丈夫です。神さまの前に、神さまに対して、整っていなくてもいい。支離滅裂でもいい。頭とおしりがちぐはぐであってもいいのです。求めて求めていくことを通して、求めた以上のものが、必ず与えられます。探している以上のものが、必ず見つかります。叩いて叩いて、叩き壊すようなことがあっても、開かれるものが必ずあります。その時、与えられ、見つかり、開かれた先にあるものは、何か?あなたを愛し、命をささげ、命を惜しまず、命を注いで与えて下さったイエスさまが、そこにおられ、私たちにいつも、「求めなさい」と招き続けておられるのです。

説教要旨(5月28日)