2023年5月21日礼拝 説教要旨(講壇交換)

欠けたことをも(マタイ28:16~20)

松田聖一牧師

 

先日、高校時代に担任くださった一人の先生が召されたという知らせを受けました。86歳でした。先生との出会いは、高校2年生の時です。その時先生はちょうど50歳。担任として受け持っていただき、多感な高校時代に、本当にたくさんのことを教えていただきました。特に印象深いことは、先生と一対一で、ラジオ体操の特訓を受けたことです。高校3年生の時、体育祭で全校生徒の前に立って、ラジオ体操をすることになり、夜遅くまで学校でラジオ体操を教えていただいたことでした。大学受験に際して、友達と先生のところに挨拶に行った時、これから一緒にカツどんを食べに行こうと誘っていただき、これを食べて受験に勝っておいで!と、応援をいただいたこと、大学を卒業し教員を経て、牧師になってからも、一緒にウナギを食べに行こうと誘っていただいた折、一緒に食事をしながら、聖書には死んだら、天国に行けるということだけど、あれはどういう意味なの?といったことを尋ねられたこともありました。そんな出会いが、これからもずっと続くと思っていましたが、亡くなられ、もうお目にかかれないという現実を、まだ受け止め切れていない自分自身がいます。

 

そんな一人の方と、もう会えない、いつもそこにいた一人のその人が欠けていない、という現実を突き付けられたとき、どう受け止めるのでしょうか?悲しいという思いを出せる時と、悲しむということすら感じられなくなってしまうことも、あるのではないでしょうか?さらには、どうしていなくなったのか?どうして私を置いて、先に行ってしまったのか?という思いや、何もしてあげられなかった、どうすることもできなかったと、それこそ悔やんでも、悔やみきれない、という思いに駆られてしまうこともあるかもしれません。

 

それが「11人の弟子たち」の経験し、背負ったことです。彼らは、もともとは12人でした。その12人から単に1人減ったということだけがあるのではなくて、その1人が、イスカリオテのユダであり、イエスさまをお金で売り飛ばし、イエスさまを裏切ってしまったこと、自ら命を絶ってしまったことで、もうここにはいないという現実が、この11人に突き付けられているということなのです。もちろんユダの、イエスさまに対してしたことは、許されるものではありません。イエスさまをお金で祭司長たちに売ったのですから。でもそういうお金でのやり取りではなくても、イエスさまを助けることができなかったこと、イエスさまに最後まで従い続けることができなかったこと、イエスさまが十字架につけられ、その上で死んで葬られた時、彼らは、隠れるようにして過ごしていた姿も含めて、他の11人も、ユダと同じように、イエスさまに対して同じあやまちをしてしまったということを、一人欠けた11人に突き付けられ、背負っているのです。そんな中で、弟子たちはガリラヤに行き、イエスさまが指示しておかれた山に登ったのです。

 

そこでイエスさまに会うことができたのですが、ここで2つの反応があります。1つは、イエスさまに会い「ひれ伏した」別の意味では、主の前にひざまずいて礼拝した、弟子たちと、「しかし、疑う者もいた」弟子たちもいるということです。この中の、疑うという言葉に注目する時、疑うという言葉は、疑うという意味の他に、ためらうという意味もあるのです。でもそれは、イエスさまを信じていないとか、信じようとしないという意味で疑うのではないのです。しかもこの疑うという言葉は、新約聖書の中で、イエスさまを信じて、従い、イエスさまを礼拝するというところで使われている、たった2回しかない中の疑うという言葉、なんです。ということは、11人の弟子たちの中で、イエスさまにその山で出会った時、ひれふし、礼拝するものがいた一方、「しかし、疑う者もいた」というのは、イエスさまを信じていないのではなくて、信じながらも、疑い、ためらっているということが言えるのではないでしょうか?

 

それは彼らの中に、迷いがあるということではないでしょうか?具体的には、イエスさまに再び出会って、これからイエスさまとどう歩んで行けばいいのか?いや、イエスさまと、もう一度一緒にやっていいのだろうか?わたしでいいのだろうか?自分でいいのだろうか?と迷っているのです。言い換えれば、イエスさまとこれからも一緒にやっていくこと、もう一度一緒に歩んでいいんだという確信を失い、欠けた状態になっているということではないでしょうか?

 

つまり、彼らが失ったもの、彼らに欠けたものが、1人のユダだけではなくて、彼らの中にも、失ったものがあるということなのです。これまではあったけれども、今は、それを失っている、今はそれを持つことができない、今それが自分には欠けていること、その欠けを認め、その欠けているところを見ているからこそ、疑うということに繋がっているのではないでしょうか?

 

その理由は何か?イエスさまに対して、自分たちがしてしまったことへの負い目です。自分たちがイエスさまに対して、赦されないことをしてしまった、とんでもないことをしてしまった、という思いが、彼らを支配し、その思いに縛られていたからではないでしょうか?

 

ある方が、ご自分の子育てのことで、こんな出来事をおっしゃっておられました。それは農繁期、丁度今頃の季節のことです・・・嫁いだ家が農家でしたので、農繁期になると、朝から晩まで田んぼに出て作業をする毎日でした。その時まだ、小さな子どもさんがいましたが、ずっと見ていることができずに、寝かしつけて、それから田んぼや畑に出かけて行く毎日でした。それはそれは忙しくて、その日も本当に忙しくて、家に帰って来たのは暗くなってからでした。そして家に入ると、玄関先で、その子が寝ていました。顔を見ると、泣いて泣いて、泣き疲れて寝てしまっていたんです。きっと起きた時、私も誰も家にいないと気づいて、捜しまわって、泣いて泣いて、泣きじゃくっているうちに、泣き疲れてしまったんだ・・・なんてかわいそうなことをしてしまったんだろう~悪いことをしてしまった~そういう思いをずっと抱えておられました。そしてそのことを振り返りながら、こうおっしゃっていました。今でも、あの子が泣きつかれて、寝てしまった姿を思い出すと、心がずきんときます・・そうおっしゃっていました。

 

自分がしてしまったことに対する負い目というのは、簡単になくなるものではありません。ずっと引きずることもあります。それが大きな傷になっていることもあります。弟子たちもそうです。自分でいいのだろうか、自分ができるのだろうかと、ためらい迷うことという時、いつもどこかで、自分の欠けているところ、欠けた自分自身を見つめているからではないでしょうか?その時イエスさまを見ているのではなくて、自分だけを見てしまっているのです。自分だけを見たら、丁度太陽に背中を向けてできる、自分の影だけを見ているのと同じです。

 

けれども、イエスさまは、そんな疑う者もいた弟子たちのところに、近寄って来てくださるのです。それはただ単に物理的に、近寄って来たということだけではなくて、彼らが、今、ためらい、疑っていることに対して、イエスさまは、同意しておられるのです。近寄って来られたという言葉には、同意するという意味もあるのです。つまり、イエスさまは、自分でいいのだろうか?自分がしていいのだろうか?疑い、ためらい、迷っているということにも、イエスさまは分かった分かった!分かっているよと同意し、そういう思いがあったとしても、その彼らを、イエスさまは受け入れておられるのです。

 

その上で、彼らに委ねていかれるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、イエスさまは、神さまからイエスさまに与えられた神さまの働きを、疑い、ためらい、迷う弟子たちであっても、委ねようとしてくださるのです。ということは、時には、疑うことも、ためらうことも、迷うことでさえも、用いてくださるということなのです。神さまの働きができるようにしてくださるというのは、信じながらも、疑い、ためらうという両方を用いて、相働いて、万事を益に変えて下さることを、神さまはしてくださるということなのです。そういうことだということに向かって、出て行く中で、また信じながらも、疑ってしまう、ためらうことがでてくることも、イエスさまは認めて、受け入れておられるのです。それがこの言葉「あなたがたは行って」を通して現わされているのです。

 

理由があります。それは、「あなたがたは行って」の「行って」と言う言葉には、進んで出ていくこと、と、同時に帰るということ、そして「通る」ということが、この「行って」と言う言葉にあるのです。出ていくことと、帰るということは、お互いに全く方向性が異なるように思います。そしてどうして2つの違う意味が、同じ言葉に込められているのか?出ていくということと、帰るということが、一緒になっている意味は何か?というと、イエスさまは出て行ってとおっしゃられた時、言われた弟子たちは、イエスさまの傍にいて、そのイエスさまの傍にいる中で、出て行ってと言われるわけですから、イエスさまに促されて、イエスさまと共にいるその所から、出かけて行くという形になります。そこからまた帰るということが同時にあるということは、イエスさまから出て行ってと言われ、促されて出て行っても、出っぱなしではなくて、出かけて行くその中で、迷ったり、持っていたものを失ったり、あるいは自分自身の中から欠けてしまう、ということを通らされながらも、またイエスさまのもとに帰れるんだ!ということを、あなたがたは行って、と言う言葉の中に与えておられるのです。

 

でもイエスさまから「あなたがたは行って」「出て行って」と言われた通りにしようとする時、失うとか、欠けたりするということは、出来たら避けたいことです。イエスさまに言われた通りにしようとする時、それは自分にとっても、いいことが与えられたいと願うものです。でもイエスさまは、あなたがたは行って、と言われる時、自分にとって、すべてが心地良くて、いいなあと、感じられることだけではなくて、時には、失ったり、欠けたりすることも与えられるということもあるということなのです。

 

4月に行われました教会総会で、今年のテーマとして「愛は出かけて行く」ということを定めました。神さまの愛は、じっとしていない、出かけて行くのだ、そしてそれに私たちも促され、出かけて行くということを、心に留め乍らのスタートとなりました。その総会の2週間後でしたか、5月の連休の時、伊那ではいちごのシーズンで、近くにあるみはらしファームというところに、出かけました。そこでは、イチゴを栽培して、いちご狩りができるようにもなっています。そのいちごが、お隣のお店に箱入りで、たくさん入って売られています。それがあったらいいなと思いまして、みはらしファームへ出かけました。ところが、お店に入って、ぐるりと見渡しましたが、残念ながら、そのいちごが出ていませんでした。結局、お店の中をぐるっと回って、何も買わずに駐車場に出たのですが、丁度その時、駐車場に止めてあった車の隣に留めようとされた白髪のおじいさんの車が、私の車のバンパーに当たってしまいました。こちらも、あ~ぶつかる~と思ったその瞬間に、当たってしまっていました。それから110番したり、警察の方に事故証明を取っていただいたり、ぶつけた相手のそのおじいさんも、慌てておられるご様子でした。ともかく起こってしまったことは仕方がありませんので、車の修理の手配やら、相手のその方の保険会社とのやりとりで、その日が終わってしまいました。

 

その時イチゴを買いに来たのに、いちごがなかっただけではなくて、車のバンパーも外れかけてしまい、車も欠けた状態になってしまいました。ともかく、人にけががなくてよかったのと、あたふたされているおじいさんでいらっしゃいましたので、こちらがぶつけられたのですけれども、放っておくわけにもいかなくて、逆に励ますようなことになっていました。「人にけががなくてよかったですね~車の免許ももうそろそろ手放した方がいいですね~」と、その方の息子さんも飛んでこられた中で、そんなやりとりでした。そんなやりとりが終わって、少し落ち着いた中で、ふと、思い出したのでした。そういえば「愛は出かけて行く」ということを決めたばかりだった~イエスさまは出かけて行くということをおっしゃってくださったことで、イチゴを買いに出かけた時、いちごはない、車もぶつけられて、修理するために一時期ですが、車もなくなり、レンタカーとなってしまったことでしたが、でも出かけて、ぶつけられたけれども、ぶつけたその人と出会うことが出来たのは、車をぶつけられたからだ~そういうことでもなければ、出会うことはなかったのではないか?そのために、あなたがたが出て行って実を結びとイエスさまはおっしゃって下さったのではないかと思いました。でもいちごもないのです。車のバンパーが欠け、車が修理のために、手元からなくなるということに、いろいろな思いを持ったことは確かです。それでも、イエスさまは出かけて行くということへと導かれたのは、出かけることで、いろいろあるということ、与えられたり、失ったり、欠けたりすることがあるということを通して、出て行ってと言われ、背中を押してくださったイエスさまのもとに、また帰ることができるということを、教えてくださったように思いました。

 

弟子たちも同じです。イエスさまに従おうとして従ったのに、ユダを失い、イエスさまを失いました。それはイエスさまが彼らから離れたのではなくて、彼らがイエスさまのもとから離れたからです。それはイエスさまの立場から言えば、イエスさまも、ユダや弟子たちを失ったのです。それだけではありません。十字架の上で、命を失いました。命だけではありません。イエスさまの衣服も、立場も、何もかも全部失いました。けれどもそれを十字架の死と共に滅ぼし、そこから甦られ、生きて来られたイエスさまが、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい、とおっしゃられるのは、イエスさまに従おうとすればするほど、もちろん得られるものが多く与えられると、同時に、失うこと、欠けたりすること、そして悩んだりためらったりすることがあるということも、与えておられるのです。でもそういうことがあったら、いけないのかというと、そうではありません。失い、欠けたことをマイナスと受け止めてしまいそうになることがあっても、イエスさまは、それがイエスさまに従おうとしている証拠じゃないか?とお恵みに変えて、失い、欠けた以上のものを、弟子たちや私たちに、もう一度与え帰してくださるのです。ですから、失い、欠けてしまったと感じることがあっても、失われたままじゃないのです。欠けてしまったままじゃない。失い、欠けた以上のものを、神さまはお恵みに変えて、もう一度与えてくださいます。それがこれからもずっと続いて与えられていくということを、イエスさまは、「いつもあなたがたと共にいる」この約束を通して、与え続けて下さっているのです。

 

あしあと

 

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

「あしあとがひとつだったとき、あなたを背負って歩いていた・・・」

 

私たちにとって、失い、欠けてしまった時、それは一番つらかった時かもしれません。自分ではもう歩くことが出来なくなってしまった時であったかもしれません。けれどもそういう時でさえも、背負われて共に歩いて下さった神さまの足あとが確かにあります。

説教要旨(5月21日)講壇交換in松本教会