2023年5月14日礼拝 説教要旨

たったひと言でも(ルカ7:1~10)

松田聖一牧師

 

聖書の中の聖書と呼ばれている御言葉があります。それはヨハネ3章16節の御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神さまは独り子イエスさまをお与えになったほどに、私たちを愛していらっしゃる!神さまは私たちを本気で守り、支え導くために、命をかけておられるのです。だからどんなときにも、どんな人に対しても、本気です。本気で真実に神さまは語り続けておられるのです。それが福音、良きおとずれと呼ばれるものです。

 

そのことを指し示す言葉が、「これらの言葉」です。これらの言葉とは、いろいろしゃべったことではなくて、神さまが一番伝えたい、神さまの愛、一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるという福音を、イエスさまは民衆にすべてを、あふれるほどに、いっぱいにするほどに話されたのです。

 

それは丁度ビーカーに、水を入れて水があふれるということと似ています。水を、もう溢れる!というギリギリのところまで入れていきまして、そしていよいよあふれるという時、表面張力で少しだけビーカーよりも水が膨らむような状態になっている、そのところに、さらに水が入れると、ビーカーの中の水はあふれ出ます。さらに水を入れ続けていくと、溢れ続けています。

 

神さまの愛というのは、そういうものです。あふれて、あふれていくのです。そのあふれた神さまの言葉、福音を聞いた民衆を、後にしたイエスさまのことを、百人隊長は聞いたのです。どこで聞いたのか?百人隊長が、イエスさまから、直接聞いたわけではありません。誰かがイエスさまから聞いて、その聞いた誰かがイエスさまのことを誰かに話していた、そのことを百人隊長は、聞いたんのす。では、百人隊長がイエスさまから直接聞いていないというのには、何か理由があるのかというと、あるのです。

 

というのは、百人隊長は、ローマ皇帝に仕える軍隊の中で、100人の兵隊を率い、統率する隊長です。絶対服従です。命令には絶対に従わなければなりません。と言う意味は、この隊長が聞く相手、聞く内容は、最終的にはいつもローマ皇帝です。そのローマ皇帝の指示通りに、百人隊長の上には、千人隊長がいました。その上にもローマ皇帝からの指示を受ける組織がありました。ですからその指揮系統から外れるところには、百人隊長はいませんし、その指揮系統にいない人のことを聞くという所にはいないし、そういう立場にいてはいけません。その中で、百人隊長は、100人の兵隊の命を預かっていますから、彼らを統率するために、ローマ皇帝の命令を確実に伝え、実現するという一点に集中しています。ところが、彼は、誰かが言っていたイエスさまのことを、聞いたのです。そして聞いた時、自分の部下であり、非常に重んじられている部下、大切な部下が病気で死にかかっていたというのは、この場面なのです。

 

そこで「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」のですが、ここでも聞くということがバトンリレーのように、続いていくのです。というのは、百人隊長が部下を助けに来てくださるように、イエスさまに伝えてほしいと、自分の使いをやって頼むのですが、まずは、隊長が長老たちに使いとして送る、その使いに、部下を助けてほしいと願った時、この使いの方が、百人隊長からの、その言葉を聞いていくのです。そしてしっかりと覚えて、自分のことのように受けとめて、百人隊長の言葉を持っていくのです。でないと、百人隊長の、「部下を助けに来てくださるように頼んだ」「乞い求める、乞い願う」ということが長老たちに伝わっていかないのではないでしょうか?それは使いとして送られてきた、その使いの言葉を聞く「ユダヤ人の長老たち」も同じです。彼らも、百人隊長の、イエスさまに助けに来てほしいという気持ち、熱量をそのまま聞いて、受け取ろうとしないと、イエスさまのもとに来て、「熱心に願った」ということにはつながらないのではないでしょうか?

 

しかも、最初に百人隊長が、ユダヤ人の長老たちに使いにやった、その使いの人が承った「部下を助けに来てくださるように頼んだ」から、ユダヤ人の長老たちの、イエスさまのもとに来て「熱心に願った」と言う言葉を見ると、急いで来てほしいと、真剣に熱心に切望しているという言葉になっていますから、長老たちは、百人隊長から受け取った言葉を、もっと強い言葉に変えて、イエスさまに言っているのです。ということは、百人隊長の部下を助けに来てほしいという願いに、ユダヤ人の長老たちも、更に自分たちの思い、願いも重ねていっているのです。

 

思いと言葉とを重ねていくこと、そのことについて1つの出会いがありました。それは小学校1年生の時に、教会学校に来るようになった男の子との出会いです。クリスマス会の翌日の教会学校から、毎週顔を見せるようになりました。それからずっと繋がり続けて、中学になって洗礼を受けたい、イエスさまを信じていきたいと願うようになり、お家の方とも相談して、洗礼を受けていきました。それから間もなく、中高生会を始めることになりました。そうするとその子や、最初に参加した子どもたちが、ある時、それぞれ自分の友達を誘ってきました。こんなんあるよ~ということで誘ったら、誘われた友達も行きたい!となったんですね。そうして来られた誘われた友達は、また自分の友達を誘っていくということになり、あっという間に、10何人かが教会に集まるようになりました。わいわいと、それはそれはにぎやかでした。初めて聖書のお話を聞く子たち、初めて祈りということを体験することにもなりました。その中高生会のために、毎回担当の方と一緒に、お菓子などを用意します。そのおかしを一袋開けた途端に、あっという間に空っぽになりました。そういう会を振り返る時、誘われた友達が、又自分の友達を誘っていくという、声を掛け合っていくということが、そこにはあったと思います。今だったら、ラインとかインスタですが、その当時は、ようやくメールでのやりとりが始まっていました。でもそのメールだけではなくて、学校の友達に声をかけていく、ということで教会に来るようになった中学生、高校生の子たちでした。今はもう社会人になり、全国に散らされていきましたが、その時に蒔かれた種は、必ずどこかで実を結ぶと信じています。

 

そういう中高生の集まりが、どうしてそうなったのかというと、友達に声をかけたこと、そして声をかけられてやって来たその友達も、又自分の友達に声をかけていったからです。そういう声掛けが繋がっていくのです。

 

この一人の百人隊長の部下のために、イエスさまに助けに来てくださいと願う、声掛けのリレーもそうです。そして、その助けに来てほしいという願い、声が、だんだんと大きくなっていくのです。そこには、理由があります。それがこの言葉です。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」百人隊長が、わたしたちユダヤ人を愛してくれた!ローマの属国になって支配されていた私たちを、ローマ軍の百人隊長なのに、愛してくれた!ということ、そしてその隊長が、わたしたちのための会堂を、私財を投じて、建ててくれたということから来ているのです。ユダヤ人にとって神さまを礼拝できる場所をたててくれたこと、しかもローマという自分たちを治め、支配していたその国の立場なのに、建ててくれたということが、どんなにかうれしかったことでしょうか?

 

と同時に、この百人隊長の立場からすれば、よくこれができたと思うのです。ローマ帝国に仕える、軍隊組織の長であるにもかかわらず、支配しているユダヤ人のために、ここまでされるということは、百人隊長として、やってよかったのか?自ら会堂を建てるだけでも、大変なことです。簡単にできることではありません。当時工事用の機械があるわけではなくて、すべてが人の手によってです。

トラックももちろんありませんから、材料も石であったでしょうし、もっと大変なのは、木材をどこかで使うということなれば、木材の調達というのは、もっと大変です。それを自らしたということと、そこまでして、この隊長の身分は守られるのか?そして百人隊長に重んじられている、病気の部下も、この隊長と同じ思いで歩みを共にされていた方だと思いますから、この部下の立場も大丈夫だったのか?立場上していいことであれば、どうにかできると思います。しかし、立場上してはいけないことであれば、この隊長も、その部下も、自分の立場がどうなってしまうか分からないというところに立って、会堂を建ててくれたということになるのではないでしょうか?

 

そういうことがあるから、ユダヤ人の方々は、本当にわたしたちのことを思い、愛してくれたということを、形にまでしてくれた方々だと言えるのです。

 

だからこそイエスさまのもとに来て、「熱心に願った」のではないでしょうか?「そこで、イエスは一緒に出かけられた」のです。百人隊長の使いが、ユダヤ人の長老たちに託し、その長老たちから、イエスさまのところに、急いで来てくださいとの、切実な願いが届けられたことで、初めて、イエスさまは動かれるのです。

 

それはイエスさまが、治してほしいと願った百人隊長だけではなく、その使いと長老たちも含めて、巻き込んでいかれたということではないでしょうか?

 

それは長老たちに留まりません。イエスさまが百人隊長の家に来た時、使いにやった百人隊長の友達に、「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」その言葉を託して、イエスさまに、その友達が言っていくのですが、それは、イエスさまが来てくださることを拒んでいるではありません。イエスさまを拒んでいるのでもありません。イエスさまがどれほどに偉大なお方であり、そのお方に、私は従うということを百人隊長は、自らの兵隊組織、軍隊組織においてなされていることを引き合いに出して答えているのです。

 

それが「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』とい言えば行きますし、他の1人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」つまり、百人隊長は、イエスさまが神さまの子であり、神さまがなさること、癒して下さることを、隊長は認めて受け入れているのです。そしてイエスさまが言われることに対しても、自分が、行けと言えば、言われた一人の彼は行くこと、来いと言えば、その彼も来ること、これをしろと言えば、言われたその人はその通りにするということを引き合いに出しながら、私もイエスさまの言われる通りにしますと、自分に従うということは、言われた通りにすることだということを、百人隊長は、自分自身と部下との関係でなされることをそのまま、イエスさまに対して、私も、同じように従うということを、友達をして応えていくのです。

 

しかもそのことを答えている百人隊長は、イエスさまの姿を見ていなくても、イエスさまをこの目で見ていなくても、イエスさまに従うということを、友をして応えていくのです。

 

その時に、くださいと言っているのが、「ひと言おっしゃってください」イエスさまの言葉をひと言ください、イエスさまのひと言でいいから、その言葉をくださいと言っているのは、イエスさまの言葉には力があること、イエスさまの言葉には人を癒すことができること、人を新しくすることができることを、彼は知っているし、受け入れているからです。そのひと言があれば、部下は癒していただけると、この目ではイエスさまを見ていなくても、彼は、信じて、受け取ろうとしているのです。

 

ある教会の先生が、教会の青年たちと一緒に、病院を訪ねた時のことでした。その病院の看護師長、当時は、看護婦長と呼ばれていましたが、呼び止められました。「あのう、入院されている方が、今危篤です。その彼女が、今朝、先生に会いたいって言っています。会ってあげてくれますか?」その言葉と共にこうおっしゃいました。「これは決して病院からのお願いではありません。彼女の願いですから、誤解のないように念のために申し上げておきます。」そう言われたのでしたが、それでも、彼女の病室に案内され、彼女の部屋に入りました。すると、彼女は寝たままでした。その枕元には何もありませんでした。殺風景な病室でした。顔の上には酸素吸入器がぶらさがっていて、やせ細った顔で、目だけは澄んで天井をじっと見つめていました。顔も動かす力はありませんでした。そこまで案内してくださった看護師長さんは、「それでは私はこれで」と、部屋を出ていきました。何か話をするかと思いきや、何もしゃべりません。先生も何を話すことができるだろうか?何かをそれでも話してくれるのだろうか?を待っていましたが、何もおっしゃいません。ただブクブク、ブクブクという吸入器の音だけでした。しばらく待っていましたが、それでも何もおっしゃられないので、たまらなくなり、尋ねました。「あのう、今日は気分が悪いのですか?気分が悪いのでしたら、また明日来ます。」それでも何も返事がありません。「あのう、今日は熱があるんですか?こうして寝ているの、苦しいでしょう?」それでも何も返事が返ってきません。それでもあれこれとしゃべってみましたが、変わりませんでした。とうとう話す言葉がなくなってしまった時、この人の顔がゆっくりと動いて、先生の方に向いた時、やっと聞き取れるような、かすれるような声で、こう言われたのでした。「先生、神さまのお話してください。」そして聖書を開いて、聖書を読み始めました。読みながら、彼女はその言葉を聞きながら眠っているようでした。実に平安な顔をして目を閉じていました。そして読み終わると、彼女は静かに目を開きました。そして一緒に祈りましょうと祈り始め、神さまだけが、今の彼女を支えて下さるお方であること、彼女がこの神さまを信じて平安を得られるようにと、祈りました。祈った時、小さな声で「アーメン」と聞こえました。しばらくして彼女は小さな声で、ひと言祈りました。「神さま、わたしをゆるしてください。」

 

本当に短い言葉でした。でも幼子のような祈りでした。祈りが終わった時、彼女の顔には微笑みさえ漂っているようでした。そしてその日の夜、神さまのもとに召されたのでした。

 

「神さま、わたしをゆるしてください。」

 

たったひと言の祈りでした。でもそのたったひと言でも、神さまは本当に聴いていて下さり、受け入れて下さっていました。その通り、彼女は、神さまに本当にゆるされたのでした。

 

たったひと言であっていいのです。イエスさまの言葉も、イエスさまへの言葉も、たったひと言であっていいのです。そのたったひと言の、その言葉が、その人を新しく変えていきます。イエスさまの言葉は、その人を生かすのです。そして、その言葉は、私を赦して下さった神さまに出会う言葉となっているのです。

説教要旨(5月14日)