2023年3月19日礼拝 説教要旨

何を見ていたのか(ルカ9;28~36)

松田聖一牧師

 

高校時代のことです。クリスマスを迎えるアドベントの季節に入ろうとする時のことでした。ある日のこと、教会学校の校長先生から、今度クリスマスクランツの材料を、山に取りに行くので、一緒に来ない?それで自転車に乗って、教会から一緒に出掛けまして、雑木林のところでいろいろ材料になるものを探しましたが、適当なものが見当たりませんでした。本当は杉やヒノキの葉っぱの付いた枝や、赤い実のついたものを取りたかったのですが、その日は残念ながらということになりました。その時、じゃあまた今度は、別の場所に行ってみようということになりましたが、結局、次の日の都合がつかずに、その先生がお一人で山に取りに行かれて、気が付くと、クランツが出来上がって、教会の天井にぶら下がっていました。出来事としては、それだけと言えばそれだけのことです。一緒に行こうと誘われていったけれど、適当なものが見つからなかったということですが、でも、なぜ一緒に行こう!と誘ってくださったのか?なぜほかの誰か?ではなくて、私を誘ってくれたのか?その具体的なことは分かりませんが、誘われた時には、単純にうれしかったことと、自転車から降りて、あちらこちらと、探した、その姿と、適当なものが見つからなかったという時の姿が、目に浮かびます。それはそういう光景を見たというだけではなくて、一緒に連れて行くことで、毎年、クリスマスクランツをどうやって作っていたのかということを、見せたいから、誘って下さったのではないか?そして、クリスマスに間に合うようにという思い、そして何よりも、イエスさまが私たちのために生まれて下さったことを喜ぶ喜びが、あったのではないか?いろんなことを思います。そのように、クランツのことだけではなくて、一人でではなくて、誰かを誘って、誰かと一緒に何かをするということは、その人と一緒にという時間を過ごすというだけではなくて、なぜそれをするのか?何のためにするのか?ということを、思ったような結果にならなくても、一緒に何かが出来たというその時、その姿と、その姿にある思いは、後に残っていくものです。

 

イエスさまが、祈るために山に登られた時、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて行かれたこともそうです。それは祈っておられる姿を見せるためですし、イエスさまが祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、そして「二人の人がイエスと語り合っていた。」すなわちモーセとエリヤと、イエスさまとが語り合っていた、その場面を見せるためでもあります。

 

その中で、イエスさまの「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」すなわち、イエスさまの、もう1つの、違った顔、外観が、閃光を発するほどに、輝いて光っていたということですから、目を覆うほどのものすごい光です。でもそれは、何かイエスさまが、別人のように変化したということとか、超自然的なことが起きたということではありません。それはイエスさまにそもそも、最初からあった神さまとしての姿が、今、ここであらわになり、現わされたということだからです。

 

というのは、この白く、輝いて光っているというこの言葉は、穀物の穂、麦といった穀物の穂が色づいたという時に、使われる言葉と同じだからです。麦であれば、収穫が近づくと麦の穂が色づきます。それは麦が麦でなくなるとか、麦以外のものに変わるということでなくて、麦が麦として、色づくことは、当然のことですし、逆に色づかなかったから、その麦の収穫がどうなっていくかということに繋がります。

 

それと似たようなことは、夕方、夕日に照らされたアルプスもそうですね。夕日に照らされた南アルプスが、太陽が沈む少し前から、その太陽に照らされたところの山の色が、刻々と変わっていきます。昼間の姿とは全く違った、桃色のような、朱鷺色のような、何とも言えない色で雪をかぶったアルプスが輝きます。そして太陽が沈むと同時に、その輝きは終わります。アルプスの少女ハイジがスイスの山で見た光景と同じです。でもそれは、山が何か別のものに変わったわけではありません。その山は山ですね。鋸岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ケ岳といった南アルプスの山山は、変わりません。でも夕方の夕日に照らされた、その姿も、その山山の1つの真実な姿です。

 

イエスさまの姿が変わったこともそうです。普段と全く違うように見えても、実は、それがイエスさまの真実な1つの姿であり、イエスさまが神さまであるということを、ここで現わされたということになるんです。

 

そして、その神さまとしての真実な姿が、具体的にあらわされた時が、イエスさまが、モーセとエリヤと語り合っていたその内容である、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」のことなのです。この最期というのは、最期であって、最も後ろという最後ではなくて、最期ですから、「この上ない」「一区切りの時間」「この上のない時間」であり、たった一度しか訪れないものごとの終わりを表すという意味で、十字架の死と復活のことを、イエスさまはモーセ、エリヤと語り合っていたのです。

 

では、その十字架の死と復活のことにペテロたちが反応したというよりは、ペペテロも含めた3人は、「栄光に輝くイエスと、そばにたっている二人の人が見えた」ことと、その二人がイエスさまから離れようとした時の姿を、見るということに向かっているのです。

 

そしてその見える光景から、ペテロは、イエスさまに、「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を3つ建てましょう。1つはあなたのため、1つはモーセのため、もう1つはエリヤのためです」と言っていくのですが、彼自身自分でも何を言っているのか、分からなかったとは言え、ペテロは、仮小屋という神さまを礼拝できる場所、神さまを讃美し、神さまからのお恵みをいただける場所を、1つはイエスさまのために、1つはモーセのために、もう1つはエリヤのために、私たちは作りましょう!それぞれ礼拝の場所、仮小屋を作りましょう!と言っていくのです。しかしペテロの言っているのは、わたしは建てましょう、ではなくて、私たちは建てましょう!私たちが必ず建てます!ということなのです。ということは、ペテロと一緒にいたヤコブ、ヨハネも思いを1つにして、私たちもやろう!と言っているのかというと、この2人の言葉はないのです。ということは、ヨハネ、ヤコブは、ペテロの言うことに反対だったのか?あるいはあまりにも唐突だったので、どういうことなのか分からなかったのか?2人の言葉は出てきませんが、それでもペテロは、一緒にいるヨハネ、ヤコブも、自分と同じ思いであるということにして、ともかくヨハネ、ヤコブも、巻き込んで、私たちは建てましょうと言っていくのです。

 

こういうペテロのやり方というのは、ペテロだけのことではなくて、私たちの周りにも、私たち自身にもありますね。例えば、1つのことに向かう時、それをぜひやりたいという方から出る言葉は、みんなが言っている~みんながやりたい!と思っているから。。。ということが出てきますが、みんなというのは、誰を指しているのかというと、時々、自分の思い込みが入っていることもありますね。それでも自分がやりたいことには、みんなもそうだということを言っていくことで、私一人の考えじゃないということにして、進めようとすることがありますね。一方で、みんな、ということを反対のことに使うこともあります。それは自分がやりたくないことがあって、それをするかしないかというとき、自分がやりたくないことを、みんながやりたくないとか何とか言って、やりたくないことを、通したいときに使う場合もありますし、もっと器用な使い方は、自分はしたくないことでも、みんなでしましょうよ、言いながら、自分の中では、そのみんなの中には、自分はいないということもあります。みんなでやりましょう!みんなで~と言っている、そのご本人は、自分以外のみんなということにしてしまっているんですね。そういう意味で、みんなでというのは、曖昧な言葉ですし、その言葉を使う人によって、みんなの意味が違っています。

 

私たちが建てましょう、もそうです。ペテロは確かに言いました。でも他のヨハネや、ヤコブがどう思っているかは分からないのです。ペテロと一緒の気持ちなのか、それはこの時点では分かりません。しかし、そういうことであっても、私たちが建てましょうと言った、そのペテロは、二人がイエスさまの傍にいる事、がずっと続くことを願ったのでしょうか?それで離れようとしたのを見たので、それをやめさせたかったのでしょうか?そして自分たちが、いつまでも栄光に輝くこの場にいたかったのでしょうか?そしてそれがずっと見えるように願っているのでしょうか?だから私たちが、と言っていくのでしょうか?

 

ペテロにとって、あまりにも素晴らしい光景だったことでしょう。この光景をずっと見ていたい、ここにずっといたいという思いになったのでしょうか?でも彼から出てきた言葉は、「わたしたちが」です。ヨハネ、ヤコブ以外の弟子たちのために、と言う言葉はありません。そこにはもう1つの要因が考えられます。それは、ここでイエスさまが神さまとして真実な姿を現されたから、これでイエスさまに従うという形を、イエスさまも含めて、仮小屋に納めることで、もうこれであちこち動き回ることはないように、したかったのはないでしょうか?というのは、この時ペテロたち3人は、「じっとこらえている」状態であることから言えるのです。それはただ眠らないようにじっとこらえていたという状態ではなくて、じっとこらえているには、重荷を負っている状態だったということです。ということは、イエスさまに従おうとして、イエスさまに従ってきた中で、ペテロは、これまでのイエスさまと共に歩む歩みが、重荷になっていたのではないでしょうか?漁師ではなくなり、イエスさまに従う中で、ある意味では、明日をどう生きていけばいいか、自分も含めて、弟子たちが、これからどうなっていくのか?というスリル満点の歩みの中で、過ごしながらも、弟子たちの筆頭、リーダーという立場の中で、彼は彼なりに、じっとこらえていたのではないでしょうか?12人の弟子たちと一緒に、寝食を共にしながらの生活は、精神的にも重荷が彼の上にあったと言えるでしょう。

 

だからこの素晴らしい光景を前に、3つ建てましょうと言う仮小屋を、イエスさまのために、モーセ、エリヤのためにと言いながらも、わたしたちが、と言いながらも、本当は、ペテロが自分のために建てたかったのではないでしょうか?自分のために、自分の願いが実現するために、建てたかったのではないでしょうか?でも、私は建てましょうではなくて、ヤコブ、ヨハネも巻き込んで、この2人も利用しながら、わたしたちとしたのではないでしょうか?そういうペテロも含めた3人の弟子たちに『雲』神さまご自身を顕すしるしである雲が現れて「彼らを覆った」この3人を神さまは包んで、覆ってくださったのです。神さまが包んでくださり、覆ってくださる、それは煙に巻かれるということではなくて、神さまのお恵みと、神さまの愛、神さまのお守りに包まれるということなのです。ペテロも、ヨハネも、ヤコブも、いろいろな思いを持って、いろいろなことを抱えていたことでしょう。そんな中で、ここで1区切りしたいということがあったかもしれないそういう彼らを、神さまは、神さまご自身の中に、包んで、覆って、神さまの恵みとお守りで包んでくださっているのです。

 

このペテロの仮小屋を建てましょうと言った、その出来事は、会堂を建てること、教会を建て上げることにも繋がりますね。会堂が与えられること、建てられていくこと、は喜びです。そしてそのために、前向きな思いと祈りは、必要であり、大切です。そのために必要なもの、必要な手続きが必要になってきます。でもそのプロセスにはいろいろあります。1人の人が私たちは建てましょうと言っても、全員が建てましょうとなるかというと、全員が建てましょう、ということにはなかなか向かっていけない、いろいろなことがあったと思います。でも会堂が与えられたということを改めて受け止めていく時、ただ会堂という建物が与えられたというだけではなくて、何のために与えられたのか?その目的と意味は何か?ということを神さまは、ペテロとイエスさまとのやり取り、弟子たち3人を神さまが包んでくださったこと、見るのではなくて、神さまの声を聞くというところへと導くということを通して、私たちにも、建物を建てましょうということで完結ではないということを示して下さっているのではないでしょうか?

 

一昨年に献堂式を無事に終えたこの会堂は、今、建物の登記、もともとあった旧会堂から、新しい会堂への移転手続きが、真っ最中です。先日も長野県の私学振興課から、職員の方が2人お見えになられて、会堂の写真を撮られたり、中をご覧になったり、その合間合間に、これは何ですか?と会堂にあるオルガン、椅子について、リーストコインのこと、教会ではどんなことをしているかということも、いろいろ尋ねていかれました。このオルガンは100年経っても、現役ですと伝えると、びっくりされたり、前島密の揮毫だというと、これもまたびっくりされたりと、建物が書類の通りになっているかと言うこと以外にも、教会をご覧になられていかれました。そして最後に、「素敵な教会ですね~」おっしゃっていただいて帰られたのですが、そういうことも含めて、いろいろな手続きが必要です。土地が与えられ、建物が建ったからそれで終わりではなくて、建ってからのことも、必要なことが書類も含めて、たくさんあるということです。でもそれらの手続きは、何のためか?その教会を建て上げるという目的は何かというとき、大切なことが見えて来るのではないでしょうか?

 

それは会堂を、教会を、だれのために建てようとしているかということです。「わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」自分たちがここにいるのは、ということの中には、自分たち以外の人のことは念頭にありません。ということになれば、自分たちだけが満足出来たらそれでいいという思いになってしまいます。でもそうじゃないですね。いろいろな方に出入りしていただいて、教会を知っていただくこと、教会で何がなされているか、何よりも礼拝を通して、目には見えないけれども、いつも共にいてくださり、いつも、どんなときにもお守りくださっている神さまがいらっしゃること、イエスさまが、私たちの罪を赦すために、十字架にかかり、その上で、全ての罪を赦してくださったこと、赦して包んでくださっている神さまの言葉を通して、またその言葉を、神さまから受け取って、聞くということが、私たちが、から、広く大きく与えられていくことが、教会の営みです。それは、見える建物以上に、神さまの言葉を聞くこと、見ることから、聞くということへ、神さまの言葉を聞くということへと、イエスさまは、いつも導いてくださっているのではないでしょうか?

 

だからこそ、雲と言う、神さまを現すことが、弟子たちを包み、そしてその中から、聞こえた言葉を、私たちにも与え、聞かせてくださるのです。「これはわたしの愛する子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。

 

わたしたちがここにいることが出来たら、それでよい、それが素晴らしいと思う、ペテロを含めた彼らであっても、神さまは、覆い、彼らを包んで下さいました。その上で、仮小屋を建てたいという思いにさせた、モーセ、エリヤは、いなくなっていました。取り除かれていました。その結果、自分のために、自己実現のために、作ろうと言う思いも、そこで消えていたのでした。でも残されたものがありました。それは見ることから、聞くこと、これはわたしの愛する子、これに聞け、イエスさまに聞け、ということでした。そのために、私たちは選ばれています。そして先に選ばれた私たちをして、イエスさまの言葉に聞くこと、神さまの言葉に聞くということへと、導いてくださっています。

説教要旨(3月19日)