2023年1月8日礼拝 説教要旨

指し示して(ルカ3:15~22)

松田聖一牧師

 

「待つということ」という本があります。この本の著者は鷲田清一という方で、哲学者としても、また大学などでも教鞭を取られた方ですが、この本について、様々な方の感想の1つにこんな感想がありました。

 

「待たなくてよい社会になった。待つことができない社会になった。」この2文だけでも、いろんなことが想起されます。現代生活においては、社会全体が便利になり過ぎて、待つことが極端に排除されています。コンビニのレジでも、順番待ちの列が出来ようものならすかさず店員さんが仕事の手を止めてレジに回ってくれます。そこまでしなくてもと、初めは思うのですが、そのうち、それに慣らされてくると、数分のレジ待ちも苦痛になってしまうから不思議です。冒頭の表現のように待たなくてよくなったが故に、待つことができない私たちになってしまったのでしょう。これでは、社会全体が不寛容になってしまいます。「待つ」ことを排除した結果、私たち個人も、その集合体である社会も、大切なものを失いつつあるようです。・・・本書において最終的に著者は、「待つことの放棄が<待つ>の最後のかたちである」と表現しています。残念ながら私はそこまでの理解には至りませんでした。ただ、「待つこと」と祈りが非常に深い関係にあると直感しました。目的語を欠いた祈り、放棄した祈りこそ、祈りの本質ではないかと思うのです。そう考えると、<待つ>の最後のかたち に少しだけ近づけたような気がしました。

 

待つことができないということは、私たちにもしばしばありますね。早く結果が欲しい、物事が早く解決してほしい、そんな思いに駆られればかられるほど、ますます待てなくなってしまい、あれこれと余計なことをし始めたりすることもあるように思いますし、そういう待つという時には、祈るということにも導かれますが、でも祈っていても、何も物事が動かないように感じる時には、祈ったことは、もうすでに神さまの側で実現しているとか、祈りは聞かれるということは、頭では分かっているつもりでも、やはりだめなんじゃないかといった気持ちが起こって、焦ってしまったり、何もかも委ねるということがなかなかできなくなることもあります。つまり待つということの中には、実現してほしい、実現するのではないかという期待と、やっぱりだめじゃないかという否定の両方があるということではないでしょうか?

 

そういう意味で、民衆がメシア、救い主を待ち望んでいるということも同じです。確かに、民衆にとっては、まだ何も形になっていないときから、私たちを救う救い主が来てくれること、与えられること、そして出会えることを信じて待ち続けていました。しかしヨハネが登場した時、待つことができなくなっていたと言えるのではないでしょうか?というのは、口には出してはいませんが、民衆は目の前にいる洗礼者ヨハネを、メシアではないか、多分そうだ、そうではないか?という期待と、やっぱり違う!そうではないのではないか?という否定とを行き来しながら、シーソーのように、揺れ動いているからです。そして、そういう揺れ動きの中には、どんなことがあっても待ちたいという気持ちと、やっぱり待てないということもあるということではないでしょうか?それが、民衆にとっては、目に見えない約束を信じて期待して、待ち望んでいる中で、目に見える形で登場した、ヨハネに対する心の中の姿に顕著に表れたということでもあるのです。

 

その心の中で考えていることが、ヨハネには分かったのです。揺れ動いていること、期待と否定、不安の中にある群衆の思いを彼は理解することができたのです。それは群衆にとっては、すごく大きなことだったのではないでしょうか?心の中の、期待と否定、不安の中で、揺れ動いていることを、心の中のことなのに、分かってくれる、そんな人が、そばにいたら、単純にうれしいですし、安心できますよね。そしてそういう人のそばにいたいと思えるようになります。ヨハネは、そういう群衆の心の中にあることを分かったうえで、自分自身に与えられている働きについて、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授ける」すなわち、水で洗礼を授けること、これが与えられた働きだから、だからわたしは、あなたたちに水で洗礼を授けるんだと語るのです。

 

この水で洗礼を授けるというのは、今も教会に於いて、守られ続けられています。頭に水を垂らす適礼と呼ばれる方法や、浸礼と言いまして、川や海で全身を沈めてされる方法や、教会によっては、浴槽がありまして、そこに入って、牧師先生から洗礼を受けられるというやり方もあります。いずれにしても水で洗礼を授ける方法ですが、この洗礼について1つの面白いエピソードがあります。それは、浴槽に全身を沈めての洗礼をいよいよ受けられるという方がいらっしゃいました。クリスマスでしたので、寒い時期です。ですからその方は、水じゃなくて、お湯じゃないかと思っておられましたが、後から聞いたら、お湯じゃなくて、水でした。それで冷たくて震え上がった!とおっしゃっていましたが、そういういろいろな形で行われている洗礼式が、イエスさまを私の救い主として信じていかれる方に、2000年の教会の歴史の中で、営まれています。教会の歴史の最初の頃の洗礼式は、年に1回、イースターの朝、日の出と共に行われました。そのイースターの前から洗礼を受けたいと願っておられた方は、教会に集まり、聖書の御言葉について徹底的に学んでいきました。当時は、迫害の時代でもありましたから、信仰を守るということは、今とは比べ物にならないほどに、激しく厳しい時でした。そんな真っ暗な夜のような時を過ごして、イースターの朝、日の出と共に洗礼をお受けになられた方々は、どんなにか感動をもって受け取られたことでしょうか?そのことを表している御言葉が、詩篇27篇4節の言葉でもあるのです。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」イースターの前から教会で過ごし、真っ暗な夜からイースターの朝を迎え、洗礼を受けることが出来た喜びが満ちあふれている言葉でもあります。その喜びの洗礼式に至るまでには、いろいろな出来事がそれぞれにあります。山あり谷ありの人生の中で、挫折や、悲しみや、苦しみといったことを通して、イエスさまが私の救い主だ!ということが分かった時、信じて従いたいと思えるようになっていきます。そして洗礼式が執り行われた時、本当に感動します。その方自身が、神さまに愛されていること、神さまに赦され、私は私として生きていていいのだ!ということが分かられた、その時の表情は、喜びに満ちあふれています。全身でその喜びをあらわしています。その姿を目の当たりにさせていただくとき、こちらもうれしくなりますし、本当に良かった~と思います。その洗礼式に、水が用いられ、水と共にある神さまの約束の御言葉、あなたの罪は赦された!という赦しの宣言が共にあるからこそ、その方は、本当に神さまによって、ゆるされているということが、その通りになるのです。

 

ヨハネに与えられた働きはそれなのです。そして、続けて「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と、民衆に向かって言葉を続けていくその内容は、メシア、救い主が、やがて来ること、そのお方は私よりも優れたお方であり、その方の履物のひもを解く値打ちもないほどに、ヨハネ自身がどんなに小さな存在であるかということと、同時に、救い主がどれほどに大きなお方であるかということを語りながら、群集が待ち望んでいるメシア、救い主が、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」お方であることも語るのです。

 

この中にある、脱穀場を隅々まできれいにすること、麦の殻を消えることのない火で焼き払われると語られる意味は何かというと、徹底的に清めるということであり、清めるために、集めた麦の殻は、完全に焼き尽くしてゼロにするということです。それらのことは、神さまに礼拝をささげるという旧約時代の礼拝のやり方である、ささげた献げ物を、どんなに焼き尽くすのが大変であったとしても、完全に煙にするまで焼き続けていくというところから来ているのです。何を焼き尽くすかと言うと、牛や羊などの家畜です。でも完全に焼き尽くして、煙にするということまで定められていることを、その通りにするためには、焼き尽くすところまで、しっかりと待ち続けることが必要です。それは、脱穀場を隅々にまできれいにすること、完全に奇麗にすること、完全に徹底的に清めることにおいても同じです。完全に奇麗にするまで待ち続けないと、そうはなりません。でも待つこと、待ち続けることができなければ、完全に奇麗にはなりませんし、殻も燃えカスが残ってしまいます。そしてもう1つのことは、隅々にまできれいにする時にも、殻を焼き尽くす時には、ちゃんと見ていないと分からなくなってしまうのではないでしょうか?

 

例えば、部屋を奇麗に塵一つない状態になるまできれいに掃除をしようとするとき、塵やほこりがどこにあるかをちゃんと見ないと、きれいなっているようでも、きれいになっていないことがありますね。きれいにしたつもりでも、見る角度によって、ほこりや塵が光に照らされて落ちていることに気づかされます。よく見ると、見つかります。それは焼き尽くすということもそうです。殻が本当に焼き尽くせたかは、ちゃんと見ていないと分かりません。ということは、隅々まできれいにすることも、焼き尽くすことも、ただ待つということだけではなくて、この目でできたかどうかをちゃんと見て、確かめるという必要もあるのではないでしょうか?

 

でもヨハネが民衆に語るそのことは、この時点ではまだ何も実現していないのです。民衆がこの目で見るということには、まだなっていません。しかしヨハネは、何も起きてはいないことを語るという意味は、救い主が来られたその時も、救い主がされるその時にも、ヨハネの手の中にあるのではなくて、すべてにおいて神さまの時の中に委ねたヨハネがそこにいる、ということではないでしょうか?

 

見方を変えれば、いろいろなことを群衆に語った時、語った内容は、ヨハネの手から離れているのです。その通り、それを語り指し示したヨハネは、ヘロデによって、力で監禁されてしまいます。身動きが取れなくなります。力で支配しようとすることに屈した形です。群衆に直接救い主を指し示すということが、できなくなってしまうのです。そしてそのヨハネを、群集は見ることができなくなってしまうのです。けれども、どんなに王という人が、力で支配しようとして、実際に目に見える形で牢に閉じ込めたということがあったとしても、ヨハネを見ることが出来なくなったとしても、救い主が来てくださること、救い主がしてくださるという神さまの約束の言葉、福音は、どんなに閉じ込められていても、閉じ込めることができないし、それらを乗り越えて伝えられ、広がっていくのです。

 

そしてそれは、イエスさまの洗礼の時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」あなたはわたしの愛するわたしの子であること、わたしはあなたを喜ぶという、神さまからイエスさまへの言葉が、神さまから私への言葉となって与えられていくということでもあるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」別の意味では、わたしはあなたを喜ぶ!という言葉を与えて下さる、その時を、神さまが用意してくださるのです。今は、目に見える形で、分かるとか、それらしい片鱗が見えるというわけでもありません。しかし神さまが、その時にかなって、実現させてくださる時には、目に見えるかたちで、分かるように、私たちにも与え、見せて下さるのです。

 

新垣勉さんという沖縄出身のシンガーの方がおられます。父親はメキシコ系のアメリカ人と日本人の母との間に生まれた方ですが、彼は生後間もなく誤って家畜用の劇薬を目薬として点眼され失明してしまわれました。両親はそれから1年もたたずに離婚され、父親はアメリカに帰国、母親はすぐに再婚。母方の祖母に育てられました。けれども、その祖母も彼が12歳の時に亡くなりました。それからずっと彼の中にあった思いは、両親への怒りと恨みでした。

 

“あんな父親なんか許せない。いつか自分もアメリカに行って父を殺すんだ!母も許せない。自分を置いて自分だけ勝手に出ていって再婚し、自分だけ幸せになりやがって‼“―そんな、憎しみ、恨みを、ラジオを通して讃美歌を聞いた彼は、訪れた沖縄にあった教会の牧師に話しました。先生は、何も模範解答的なことも仰らないで、ジ~っと聞いて、涙ぐん聞いてくれました。その雰囲気が伝わってきました。言葉を越えて、自分を受け入れ、自分のような人間のために、そこまで心を砕いて自分のことのように思って下さる…それに感動しました。そこから自分も頑張っていかねばならない。16歳の少年なりに色んなことを考えました。そして、土曜、日曜になると教会に彼を呼んで、一緒に食事をしたり、音楽好きの家庭なのでみんなで合唱したり、誕生会を開いてくれたのでした。そういう中で、だんだんと癒されていくのでした。そんな彼が、洗礼を受け、イエスさまを信じる信仰に導かれ、後に神学部に学び、その教会の副牧師を経て、歌手になっていかれるのですが、その時、レッスンしてくださった先生がこうおっしゃったのでした。

“勉君、君の声は日本人にはないラテン的な明るい響きだ。この声は神さまからのプレゼントだから、この声を1人でも多くの人に、慰めと、励ましになる…そういう歌を歌いなさい。お金がなくてもいいからレッスンにいらっしゃい”と言われた瞬間、「自分の“声”はラテン系の血をもつ父からもらったものだ…神さまからのプレゼントだ」このひと言で父や母への憎しみがす~っと消えていきました。そんな新垣さんが讃美した讃美歌がありました。「救い主は待っておられる」という讃美歌でした。

 

救い主は待っておられる お迎えしなさい

こころをさだめ今すぐ 主にこたえなさい

今まで主は待たれた 今も主はあなたが

こころの戸を開くのを 待っておられる

ひとあし主に近づくなら 受けてくださる

こころのやみは消え去り 愛が湧き出る

今まで主は待たれた 今も主はあなたが

こころの戸を開くのを 待っておられる

 

救い主イエスさまを群衆は待ち望んでいました。本当に待ち焦がれていました。でもそれだけではなくて、救い主イエスさまは、私を、待っていて下さったのでした。「救い主は待っておられる」私が待っていただけではなくて、私をイエスさまは待っていて下さった!わたしをイエスさまは待ち焦がれ、待ち望んでおられたのでした。

 

ヨハネが指し示した救い主イエスさまは、私が待ち望むイエスさまだけではなくて、私を待ち焦がれ、私を待ち望んでおられたイエスさまです。救い主イエスさまは、心の扉を開くことを、待っていて下さるのです。

説教要旨(1月8日)