2022年10月30日礼拝 説教要旨

シンプルに(ルカ11:33~41)

松田聖一牧師

 

お料理に使われるおだしがありますね。関西でよく使われるおだしは、こんぶと、かつお節です。こんぶと、かつお節とから出る、それぞれのうまみが、その時々に使われるお料理そのものの味をより奥深く、よりおいしくしていきます。時には、こんぶと、かつお節を両方加えると、よりおいしくなりますので、そのお出しを使って、汁物、煮物などを作ります。1番だし、2番だしと、それぞれに合ったお料理がありますが、このうまみという言葉は、国際語にもなりました。日本食、和食ブームにもつながりましたが、そのお出しは、シンプルです。あれこれ加えていません。それはシンプルという言葉にある意味、むだな点や複雑さなどのないさま。良い意味で、単純なさま。簡素であるということによって、お出しだけではなくて、いろいろな物事にも、その物事の良さを引き出し、より良いものになります。つまり、そのものの持つものを生かすためには、あれもこれも、と付け加えたり、考えすぎたり、やりすぎたりしないで、シンプルに、単純すれば、また単純に受け取っていけば、そんなにややこしくはならないですね。反対に、あれも、これもと付け加えてしまうと、複雑にしてしまって、本来その物事が持っているものの良さが失われてしまうことになります。

 

それはイエスさまがおっしゃられたともし火を置く場所においても、同じです。と同時に、私たちの体、心にも同じことが当てはまるともおっしゃっておられるのです。

 

それがこの言葉「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」この内容は、当然と言えば当然のことです。なぜなら、ともし火を穴蔵という隠れたところでともしても、その穴蔵の中だけは、ともし火の照らすところとなりますが、他は照らすものとはなりません。また升の下に置く者はいないということですが、この升はどれくらいの大きさかというと、8、7リットルの油が入る、ますですから、一升1、8リットルの、4倍以上の大きさになります。かなり大きいですね。その下に置く者はいないという意味は、位置的に、その下に置く者はいないということだけではなくて、ともし火をどこに置けば一番いいか?ともし火そのものが、周りをてらすという本来の目的を果たすために、どこに置けばいいかということを、ともし火をともす、この人は知っているということを指して「燭台の上に置く」と言っているのではないでしょうか?

 

そこにはもう一つの理由があります。ともし火というのは、本当に、ほの暗いです。聖書の他の箇所、詩編というところにこんな言葉があります。「あなたの御言葉はわが足の灯」。そのようにこの灯には、遠くを照らす明るさはないです。足元をほのかに照らすものでしかありませんから、部屋の電気のスイッチを入れた途端に、ぱあっと明るく照らす光ではなくて、本当に暗い、ほの暗い光です。そういう光ですから、ただでさえ暗いのに、穴蔵の中や升の下に置けば、ほとんど光が見えなくなります。そんなところに置いたらダメだということを、ともし火を灯す人は知っているということではないでしょうか?

 

知っていないと、「置く者はいない」とはならないです。そういう意味で、「あなたの体」にもともし火があるということ、そしてそれは目であり、目が澄んでいればという意味そのものにある通り、物事を単純に見るということ、複雑に見るのではなくて、単純に見ていくということで、ともし火本来が持つ明るさが用いられる方向に行くということが、他のいろいろなものにも当てはまるということなのです。

 

例えば、絡まった糸がありますね。毛糸など、何かのことで、からまりますね。その時、そのからまった糸をどう見るか?という視点も同じです。その時、絡まっているということだけを見てしまうと、絡まっているから、もう無理だ~とか、絡まっていることは、複雑だ~ともう自分には手にはおえないとなります。でも絡まった状態というのは、確かに絡まってはいますが、そもそも絡まっている糸は、何本もあるのではなくて、たった一本の糸の中で絡まってますね。だからその一本の糸を、一本になるように、少しずつでもいいですから、ほどいていけば、それでいいわけです。確かにほどくときには、結び目のようになっているところもあります。でもそれを一本の糸に、少しずつでいいからしていけば、最初は絡まって、たまになっていても、もうこの毛糸は使えないと思っていても、一本の糸にしていけば、又使えます。単純作業です。ほどくという作業は。

 

それが単純に見ること、目が澄んでいるということです。単純に見ると、そんなに難しくありません。だからああほどける、絡まっていてもどんなに絡まっていても、一本の糸にすればそれでいい、となりますから、物事が明るくなります。つまり、物事をどう見るか?どう受け止めるか?は、それらのことをどう単純にみることができるか、ということに繋がるのではないでしょうか?

 

だから、入って来る人に、光が見える、認識し、見分けるように、ともし火を燭台、ともし火をその燭台に置く、とおっしゃられることは、至極当然のことですし、そうすればいいんだということです。でもそれを複雑に見てしまうと、ともし火をどこに置くかということが分からなくなってしまいます。明るく照らすことのできる場所に置けば、それでいいんだということが見えてくれば、それで明るくなります。

 

イエスさまは、私たちの生活の中にあるいろいろなことを、単純に見ることができるように、その見る目、単純さ、シンプルさを与えて下さっています。そして、そのシンプルさは、物事を、神さまのご計画の中で見ていくことでもあるのではないでしょうか?

 

ところが、物事がうまくいかず、思ったようにいかないときには、それは神さまが、その与えられたことが、あなたにとって、そこではないということ、あるいは別の方法、道があるということを教えておられることでもあります。もっといい道があるということを、教えて下さっているということでもあります。

 

ところが、うまくいかない時には、うまくいかないということだけが目に入ってしまい、それ以外のことがなかなか見えてきません。その中で、うまくいかないということを、誰かのせいにしたがります。誰かの責任にしたいものです。自分の責任か、ほかの誰かの責任にしたがります。もちろん顧みる事は大切ですし、それをこれからどう生かすか、ということのために振り返ることは必要です。でもそれで誰かの責任という方向にもっていけばいくほど、物事を複雑にしてしまうのではないでしょうか?その姿を、招かれた食事の席で出会うファリサイ派と呼ばれている方々にも、イエスさまは見ておられるのです。

 

それが食事の前にまず身を清められなかったイエスさまに対しての思い「不審に思った」という姿に具体的に表わされるのです。この不審に思った、は、信じられないという意味の不信とは違いますね。不審とは驚き怪しむとか、不思議に思うとか、びっくりするという意味があります。不審者と言う言葉もありますが、そういう目でイエスさまを見てしまっているのは、イエスさまが、食事の前に、まず身を清められなかったということからです。しかしそもそも身を清めるという行為は、例えば、皮膚病になった場合に、水で洗い清めるということがなされていました。食事の前に手を洗うということもそこから来ていると言えますが、身を清めるという本来の目的は、その体を癒すこと、元通りに奇麗な体にするということのために、水で全身を洗い清めるのです。食事の前にそうしなかったら、ダメだということは、本来の目的にはないわけです。ところが、ファリサイ派の人々にとっては、身を清めるということをしなかったら、食事が食べられないと判断しているので、不審に思ったことです。そのために、ファリサイ派の人々は、そうしなければ食事を食べてはいけないという決まりを作っていきました。本来の身を清めるという意味と目的から離れて、それに、彼らなりの考えを付け加えてしまったことで、複雑になっていくのです。

 

イエスさまは、そういうことを見ておられるのです。そういう意味で「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側がきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と、複雑にする人の内側に、複雑にしようとする目的、動機が、強欲と悪意であるとはっきりおっしゃられるのです。強欲と悪意と言う言葉は、強烈ですが、この2つの言葉に共通する者は、本来の目的、意味に、どんどん自分のやりたいこと、自分にとって利益となるようなことを、どんどん付け加えて行くということです。

 

本来のものは、すごくシンプルなのに、そこにあれこれと条件など、こうしなくちゃいけないといったことを、付け加えれば付け加えるほど、複雑にしてしまうのです。それは、問題と受け取ることにおいてもそうです。問題を大きくしてしまおうとすること、問題を大きくすることもそうです。その結果、その問題の原因は何かとか、だれかの責任とか、誰かに責任を負わせたいということを付け加えてしまうので、問題をまくしたてていくことに繋がることを見ておられるのです。

 

例えば、ここにゴミが落ちている時、それをどう受け止めるか?です。誰がここにゴミを落とした!となると、誰かの責任を追及していきますよね。でもそのゴミを受け取ったその人が、それをごみと考えるかどうかによっても全く違ってきます。必要なものと受け止めていったら、どうでしょうか?

 

小学校の1・2年生を担任してくださった先生が図工の時間に、折り紙を使った工作をしてくださいました。そして思い思いに折り紙を使って、工作を終えて、どんなものを作ったか?ということをお互いに評価し合いながら、授業が進んでいきました。すると先生は、教室にあったゴミ箱を、みんなの前に持ってこられました。そのゴミ箱から、一枚一枚、ごみとして捨てられた折り紙の切れはしを、一枚一枚、みんなに、こうやって見せ始められたのでした。先生は言われました。「これはどう?ここがまだ使えるんじゃない?」ちょっと使ってゴミ箱にいれている折り紙の切れ端を紹介して、「まだまだここが使えるよね~」といった具合に、あれこれとゴミ箱から取り出して、紹介し始めました。すると子供たちは、それに気づいて、乗ってくるのです。「これもまだ使える~もったいない~まだまだ使える~」どんどん盛り上がってきました。そして最後に、「そうでしょう~みんながゴミ箱に捨てた折り紙はゴミじゃないね~まだまだ使えるね~」と言って、もう一度子どもたちに返してくれたのでした。今思うと、先生はすごい授業をしてくださったんだなと思います。大正生まれの先生で、いろいろな経験をお持ちだったことと思いますが、ゴミと評されるものを、ゴミじゃなくて、まだまだ使えること、工夫すればいいということを教えてくださった授業でした。そうですね。ゴミと受け取って、誰が捨てたんだ~と複雑にしてしまうことがあります。誰かの責任、誰かのせいにしたがります。そして捨てた人と、捨てていない人を区別したり、捨てた人を傷つけたり、捨てたということを、すごく大きな問題として取り上げ、まくしたてていくということにもなるのではないでしょうか?

 

でも折り紙の本来の目的に注目して、ゴミと一旦なったものでも、その折り紙本来が持っているものを、その方向で指し示していけば、何かに使えるということを発見できますし、その発見が喜びになります。本当にそれが使えなくなっているものであれば、それがゴミとなっている時には、それを見つけた人が、拾えばそれでいいんじゃないでしょうか?物事を単純に見るということは、そういうことではないでしょうか?

 

それがイエスさまを食事に招待したファリサイ派の人々の、陥ってしまうことです。物事を複雑に、複雑にしてしまい、そんなに問題にしなくてもいいことなのに、問題にするために、まくしたてていく、その姿を見て、「ただ器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とおっしゃれるのです。その意味は、食事の席で出された食事の時に、身を清めたか、清めていないか?体を洗ったか、洗わなかったか?ということが、食事に触接関係あるのではなくて、一緒にご飯を食べることが食事の目的なんだから、その食事、食べるものが入っているその器にあるものは、人が食べるためにあり、そのために用いられる器だということ、人に施すという本来の目的に合わせて、使うという方向に目を向けさせてくださるのです。だから、イエスさまは、「ただ器の中にあるものを、人に施せ」なんです。食事に招かれた人のために、それを出していけばそれでいいということ、単純にそうすればいい、それによって、「あなたたちにはすべてのものが清くなる」ということへと、導いてくださるのです。

 

問題じゃないのに、問題とまくしたてていくことじゃない。問題とするのは、その物事が問題だからではなくて、その物事の持っているもの、目的と意味から離れたものを、本来の目的と意味に、どんどん付け加えて作り出してしまう、私たちの内面にあるということを示しておられるのです。

 

先週、礼拝にこられた教会学校で教えて下さった先生のご主人も、教会学校の先生でした。もう召されて今年で10年になります。その先生は、ギターを抱えてよくみんなと讃美してくださいました。いろいろな歌を一緒に歌いました。その先生がご自分の手記を残しておられ、いろいろな仕事の中でリストラに遭ったりと、大変な経験もなさっていたんだということに初めて気づかされました。その手記のタイトルが「リストラ西遊記」(自分育て日記)となっていました。そのいろいろな出来事、教会に導かれ、洗礼を受けられ、教会学校のご奉仕、仕事であったいろいろなことを紹介しながら、最後に、こう記しておられました。

 

いろんな時、いろんなところで様々な人と出会い、苦しくとも楽しく仕事を進めて行くためには、行く道をいつも憂いていては、明るい未来はやって来ない。行く道を賢く予想するのではなく、共に苦しむ人々と共に、自分のアイデアだけでなく、多くの人々と共に、考え学び、職人家業を邁進することが、わたしに与えられた細いまがりくねった、再構築の連続リストラ西遊記として、いろんなことを学ばせてくれている。

物事の感性を大切にして、〇✕を明確にすること。物事を単純化すること、明確に分類し解析する。方向性を定めて最終顧客のニーズ、取引先の事情ではなく最終のお客様の動向に感性を傾け、その最終結果についても素直に受け入れ反省することが、次の一歩を正しい方向に据える。最大の間違いのない道ではないか。

子どもの頃に帰って自分を見直してください。世の中のへつらいごと、金の論理、サラリーマン論理、そんなものがいっぱいごちゃごちゃに整理されないまま、皆さんの周りに在ると思います。また嫌な方向の選択に強いられるかもしれません。しかし、そのくじを引きながらも、最後まで、自分の心に素直に行動を、保とうと思うそのことが、人間をある知らず望む方向へと、進められているのではないでしょうか。

 

イエスさまが与えて下さることは、複雑じゃないです。単純です。それは必要なものは与え、必要でないものは与えないということ。それも意味と目的があるということです。悪いようにされるのではなくて、もっと素晴らしい道を指し示すために、いろいろと与えて下さるということです。それはいつもシンプルです。付け加えるものはありません。

説教要旨(10月30日)