2022年10月2日礼拝 説教要旨

感謝できることを(マルコ14:10~25)

松田聖一牧師

 

水戸黄門という時代劇がありました。その中で、悪代官と商人とが、ある夜、旅館で、ほの暗い行燈の中で、やり取りをしているシーンがありました。あんどんの薄暗い光の中で、あれこれとお互いにしゃべっているうちに、商人の袖の下から、小判がすっと差し出されていく。そして悪代官は、にやっ、とうす笑いを浮かべて、ひと言「そちもワルよの~」と言うと、「お代官様こそ~」お互いに笑いを浮かべてやり取りしています。そうして何かしらの商談、取引が成立して、物事が、そこから動き出すのです。そういう意味で、物事が動き出す最初は、表に出るまでに、いろいろな水面下でのやり取りがあるということですね。最初から何もかもが出るのではなくて、まずは表に出てこないところ、周りからは見えない所でのやり取りから始まります。

 

それは、イスカリオテのユダが、イエスさまを祭司長たちに引き渡すということも同じです。というのは(10)の、「12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」という出来事になるまでには、ユダと祭司長たちの、それまでのやりとりがいろいろあるからです。いきなり一足飛びに、ユダが祭司長たちのところへ出かけて行ったのではなくて、そこに至るまでに、まずはユダと祭司長たちの接触があり、そしてユダを弟子たちから引き抜き、弟子たちから切り崩して、ユダを祭司長たちの手先、スパイにしたい、弟子たちを一枚岩でなくしたいという願いと働きかけがあったことでしょう。その過程で、それぞれがほしいもの、すなわちユダはお金、祭司長たちはイエスさま、という取引が成立するためにどうするか?ということが、動き出しているからです。

 

そしてユダにお金をあげるということが、祭司長側でまとまり、そのためにユダは、イエスさまが欲しいという祭司長たちの側について、祭司長たちのところに出かけて行き、祭司長たちは「それを聞いて喜び、金を与える約束をした」時、ユダは「どうすれば折よく引き渡せるかとねらっていた。」すなわち、イエスさまを、祭司長たちに、どうすれば、折よく引き渡せるかを、捜し求め、研究し、吟味して、熱望するのです。それは、「金を与える約束」をユダに与えたからです。ユダは、イエスさまを引き渡せば、お金がもらえるという約束を受けたので、いよいよイエスさまを狙っていくという、恐ろしい出来事が、他の弟子たちの知らないところで、動いていくのです。

 

そういう意味で、ユダを「12人の1人」とある意味は、ただ単にユダが12人いた弟子の一人であるということだけではなくて、12人の1人のユダのこの行動によって、これまで家族のように過ごしていた関係から、ユダが離れ、その中心におられたイエスさまも、弟子たちとの関係、家族のような関係を奪われ、引き離されていくことです。それはまたイエスさまを十字架に付けていく引き金となっていくのです。そういう意味で、1人のユダのしたことが、どれほど大きいことか!ということを表しているのではないでしょうか?

 

そうなったことを、祭司長たちは、喜んでいるのです。彼らのその喜びは、イエスさまを手に入れることができた、喜びであり、イエスさまを家族から、弟子たちから奪うことができた喜びです。ユダが自分たちの仲間になったことを喜んでいる喜びではありません。ユダは最終的には、どうなったかというと、この祭司長たちから、切り離されて見捨てられていきます。使うだけ使っておいて、あとはもう知らないと、さっさと切り捨てていくのです。そういう祭司長たちの喜びとはまるで反対に、イエスさまの家族、弟子たちにとっては、喜べることではあるはずがありません。イエスさまが、自分たちから奪われていくのですから。しかし祭司長たちにとっては、イエスさまを奪うことができる、手に入れることができる喜びです。だから喜んでいるのです。しかしその一方では、切り離され、奪われた悲しみがあります。そういう意味で、喜びと悲しみというのは、表裏一体です。

 

ウクライナでの戦争について様々に報道などがなされています。その中で、今召集令状が届き始めているということが、起こっています。でも一部の方々は、兵隊にはなりたくないということで、国外に脱出される方がいらっしゃいますが、しかし一方で、もうすでに徴兵が始まっています。そのために、いよいよ出発ということになり、家族との別れの場面がありました。その中で、お父さんをいよいよ送り出すという時、一人の子供が、叫びました。「パパ!」「パパ!お父さん!」と泣きわめく子どもがいました。パパ!と泣き叫ぶその声を聞きながら、お父さんはバスに乗って行かれました。どんな思いだったか?家族から奪われ、引き離され、引き裂かれていく、それはその当事者、本人じゃないと分かりません。今まで一緒だったお父さんが、いなくなるのです。家族から無理やり引き離されていくということは、その時の思いも含めて、生活はどうなっていくのか?その場に置かれた者しか分からないことです。

 

それが引き離され、自分たちから奪われるということです。それを、ここでイエスさまの弟子たち、イエスさまの家族が受けるのです。悲しみであり、苦しみです。憤りを感じることです。イエスさまもまたそれ以上です。共に生活し、神さまを信じていくことの喜びと、素晴らしさを一緒に体験し、神さまに祈った弟子たちや、家族と離れ離れになること、その関係が奪われ、失われていくのですから、イエスさまと、その家族、また弟子たちにとって、その思いはいかばかりだったことでしょうか。そしてイエスさまは、十字架刑に処せられ、十字架の上で見せつけとして、はりつけにされ、命を失うのです。死んでしまうのです。でもそんなことを、どうしてするのか?どうしてできるのか?その引き金は何か?というと、欲望です。お金がほしい、イエスさまが欲しい、欲しいという欲望が、イエスさまを奪うのです。そういう欲望は、お金だけではなくて、どんなもの、どんなことに対しても、ちょっとから、もっと、もっとになっていきます。そういう欲望は、誰にもありますし、なくなりません。なくそうとしてもなくなりません。でもそれが引き離し、奪うということに繋がるのです。

 

でもその時、イエスさまは、ご自分に対して、欲望がどれほど渦巻いているかということを、知っていながらも、そこから逃げようとしたり、欲望に駆られている人に立ち向かったり、怒りなどをぶつけたり全くしようとしていないのです。むしろ、彼らのしようとすることも、彼らの、その喜びも、そのまま受け取っていかれるのです。それだけではありません。自分を奪おう、引き渡そうとするユダや、祭司長たちに、ご自分をどうぞと差し出し、彼らのなすままにしていかれるのです。

 

それが、過越しの食事にあらわされていくのです。「除酵祭の第1日、すなわち過越しの小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、2人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた2階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越しの食事を準備した。』

 

この過越しの食事とは、除酵祭という祭りに合わせてなされるものですが、その意味は、一言で言えば、神さまから与えられた赦しと救いを思い起こしながら、それを、食事を食べるということを通して受け取るということです。その時に傷のない、最上の小羊を屠り、食べられるようにして、その他に葡萄酒とか、種を入れないパンといったものを、みんなで一緒に戴きます。そしてこの時、食事が一度に全部出されるのではなくて、順番に出されるのです。出される順番が決まったものが、順番に出されます。そしての順番に食べる度ごとに、聖書の言葉を聞きながら、一品ずつ皆で一斉にいただきます。この食事も、その食べる順番も今日も行われます聖餐式に繋がります。聖餐式は、パン、ぶどうジュースを配っていきますが、配り終えたところで、それでは皆さんでいただきましょうということをしていますね。そこに繋がります。

 

この聖餐式について1つの思い出があります。それは1995年に結婚式を終えまして、出かけた先で、式の翌日が日曜日に、大阪にある扇町教会に出席しました。その日は第一主日でしたので、聖餐式がありました。その時、これまででの聖餐式のいただき方が、受け取ったらすぐにいただくやり方でしたし、そういうものだと思っていましたので、この教会でも同じだと思い込んでしまい、配られた聖餐を、すぐにいただいてしまいました。ところが、周りを見ると、皆さんがじっと待っているんです。そして全員に行きわたった後、その先生が、「それではみなさんいただきましょう」とおっしゃられて、皆さんが戴かれるのですが、私の手元にはもうないんです。でも何となくいただいているような恰好をして、聖餐式を終え、礼拝後に玄関先に先生方が、ニコニコしながら立って見送ってくださったことでした。

 

そういう思い出がありますが、その聖餐の意味は、赦しを与えて下さるイエスさまから、赦しをいただくということです。その赦しをイエスさまは、自分を引き渡すために、すでにいろいろしていたユダも含めて、その「食事の場所に一緒」です。一緒にその食事をするところに、招いて、その食事を与えようとされるんです。でもこの時、いろいろ欲望に駆られ、その欲望が大切な人を奪い、なきものとしていく、そういうことを起こしています。しかしそういう中で、でさえも、欲望をそのまま受け取っていかれるイエスさまの与えられる赦しは、どうして赦しになるのかというと、お金がほしい、イエスさまがほしいという欲望をそのまま受け取り、十字架にかかってくださった、イエスさまそのものを、イエスさまが、この聖餐において、差し出してくださっているからです。「これはわたしの体である。これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」との御言葉と共にある、イエスさまを、イエスさまが、自ら差し出し、与えていてくださるからこそ、私たちは、実際の体、実際の血を受け取るということではなくて、イエスさまが十字架に於いて成し遂げて下さった、赦しを受け取れるのです。

 

だから聖餐式で毎回語られる御言葉「あなたがたのために」があるのです。あなたがたのために与えられた赦し、私のために与えられた赦しが、この聖餐においても与えられているということなのです。

 

そのための準備をイエスさまは、弟子たちにするようにとおっしゃっていくんです。具体的には、使いに出された2人の弟子に、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。」と、弟子たち2人に都へ行きなさいと命じられ、そこで水がめを運んでいる男に出会うということをおっしゃいますが、ここで水がめという言葉には、日本語には現わされていない言葉が、もう一つあります。それは「洗礼をし、洗礼の水に浸し続けている」と言う言葉が水がめにかかっているのです。つまり、この水がめを運んでいる男、そのお名前は分かりませんが、この水がめの水は、のどが渇いた時に飲む水とか、体などを洗ったりする水ではなくて、もちろん水は水であるけれども、洗礼を施すために用いられる水のことであり、その水がめを運んでいる男性が入っていく家の、その部屋は、その家の主人の家の部屋ではなくて、わたしの部屋、イエスさまの部屋なのです。そしてそのわたしの部屋に招いて、わたしの部屋で、イエスさまが失われてもなお、赦しを与えていかれるのです。だからイエスさまは、おっしゃられるのです。「取りなさい。」「取りなさい」受け取りなさいと。そしてイエスさまはお渡しくださるのです。そういう意味で、この場面も、また私たちにも、与えるとおっしゃってくださり、取りなさい、受け取りなさいとおっしゃってくださることに、そのまま信じて、ただ受け取っていけばそれでいいのです。

 

アンパンマンというアニメがあります。やなせたかしさんという方の作品ですが、ここに登場するアンパンマンは、与え続けていく姿が描かれています。

 

アンパンマンは、お腹がすいた人に、アンパンである自分の顔をどんどんあげていきます。でもそれによって、自分の顔は失われ、その顔は、顔でなくなっていきます。でもアンパンマンは、そうであっても目の前の人を見捨てることはしません。自分を与え続けていくことで、自分自身がますます傷つき、失われてもなお、与え続けていくのです。そのアンパンマンと対極にある悪者のように描かれているキャラクターである「ばいきんまん」という姿がありますが、このばいきんまんが、悪さをする時、「ばいきんまん」に対していきなり攻撃せず、「やめるんだ」とまず説得を試みるのです。場面によっては、アンパンチなどで、ばいきんまんを追い払いますが、それができればそれ以上はしませんし、仮にばいきんまんと出遭っても、ばいきんまんが悪さをしていないのであれば、敵視するようなことは一切ありません。それどころかもしばいきんまんが困っているのであれば手助けすることすら厭わないのです。与え続けていくのです。

 

与え続けるということはそういうことです。そのことをイエスさまが、この聖餐において、与え続けることができたからこそ、感謝の祈りをされたのでした。とてもじゃないけれども感謝できるような状況ではなかったのに、引き渡され、裏切られていくという中にあったのに、イエスさまがされたことは、感謝の祈りでした。

 

それは赦しを与えることができたからです。そして人が赦されたら、どんなにその人が幸せになれるかということを、知っておられるからこそ、感謝できたのです。その赦しは、そのまま受け取るものです。自分から得るために、自分がしたいことをのために、欲を出さなくてもいいし、欲望を使わなくてもいいのです。

 

でもユダは、それができませんでした。それは「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」だからでした。この食べ物を浸しているという意味は、ただ浸しているということではなくて、自分の手でもって浸しているからです。ユダは与えられたものを、イエスさまから受け取るのではなくて、自分でそれをつかみ取ろうとしたのでした。欲望を手放すことができなかったのでした。

 

感謝は与えられたものを、ただ受け取ることで与えられます。自分からつかみに行こうとしなくても、与えられます。欲望を持たなくても、与えて下さるお方から、与えられます。それが感謝できることに繋がっていきます。

説教要旨(10月2日)