2022年2月27日礼拝説教要旨

向こう岸に渡ろう(マルコ4:35~41)

松田聖一牧師

ドイツの神学者で第2次大戦中に獄中で亡くなられたボンフェッファーという方がいらっしゃいました。その彼が書いた本の中の1つに「主に従う」という著書があります。「主に従う」ということ・・・を受け止めようとする時、主に従う、主イエスさまに従うということを、私たちはどう受け取るのでしょうか?主に従うことは素晴らしい!こんなに素晴らしいことはない!そう受け止めます。それは本当にその通りですね。イエスさまに従っていくことは、喜びです。素晴らしいです。ただその従うという時に、私たちにとって、自分にとって喜べることだけがあるのかというと、そういう美談的な武勇伝的なことばかりではないと言えます。というのは、主に従うという時、それは主の前にしゃしゃり出るのではなくて、イエスさまが進んで行かれるその後ろについていくということですから、それは間違いのない道であると同時に、究極の理想の道についていくということです。これ以上の真理はない道、全く混じりけのない、純粋で100%完全な道に、そのまま従うということですから、見方を変えれば、純粋であればあるほど、また純粋だからこそ、その反対の力、抵抗も起こるということです。

 

その理由は、理想を追い求めれば追い求めるほど、理想とは真逆の世界に真正面からつっこんでいくことになるからです。それは丁度、例えば、この板に直角90度でまともにぶつかるということと似ています。その板にはまともにぶつかっていくと、ものすごい衝撃がかかります。逆風がまともに来ます。それが人に、あるいは考え方にまともにぶつかると、ぶつかる人も大きな衝撃を受けますが、ぶつかられる側にとっても、大変な衝撃です。それが理想を貫こうとすることで、まともに来られたら、また究極の理想が実現すると、困る方々が出てきますね。なぜならその方々にとっては、そうなっては困るからです。自分たちが脅かされるし、自分たちの世界が壊れてしまうし、自由にできなくなるし・・ということで、そうならないように必死に抵抗します。

 

それはイエスさまが、向こう岸に渡ろうと言われた時、その呼びかけに従った弟子たちが遭遇した「激しい突風」であり、「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」という経験と重なります。それは、先ほど触れた内容はもちろん違いますが、イエスさまに従おうとして向こう岸に向かって渡ろうとしたとき、向こう岸に順調に進めるどころか、大変な抵抗があるということによって、それがイエスさまに従おうとしている一つの証拠でもあるのです。

 

そうなるということを前提として、イエスさまは、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃられるのです。それは弟子たちだけに向こう岸に渡らせようとして、渡ろうと言われたのではなくて「渡ろう」という言葉そのものの意味は「私たちは一緒に渡ろうじゃないか!一緒に行こう!」とイエスさまはおっしゃっておられるのです。

 

弟子たちに、だけじゃない。一緒に行こうとおっしゃっておられるのです。そこには困難なことが何一つないとか、順調に向こう岸に行けるということではなくて、向こう岸に渡ろうとすればするほど、いろいろが起こるということでもあります。それを弟子たちが見通すことができていたら、出来なかったかもしれません。現状で満足して、ここから動こうという選択肢はなかったかもしれない。でも、何が起こるかは分からないけれども、イエスさまから、私たちは向こう岸に行こうじゃないか!と言われた時、弟子たちは「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」のです。

 

主に従う、イエスさまがおっしゃられたことに従おうとすることとは、そういうことです。先の見通しがあるからとか、何かしか確実なこと、自分たちにとって何もかもが心地良いものばかりが前にあるから従おうとするというよりも、分からないからこそ、従うしかない!分からないけれども、イエスさまが向こう岸に渡ろうとおっしゃっているから、だから不安になりながらも、それでも従おうとするのではないでしょうか?

 

教会の会堂建築という一大事業が昨年、献堂式をもって一つの区切りとなりました。2020年に建築が具体的に着工する時、先立つものがあれば、安心してスタートできたことでしょうが、実際には先立つものがない状態でのスタートでした。あるものがあればある程度安心ですが、用意しなければならないはずのものが、まだ手元にないという状態は、特に関わられた方々にとっては不安だったと思います。そんなスタートの中で全国の諸教会からのささげものが与えられ、いろいろと呼びかけていく中で必要なものが与えられていったことも含めて、本当に紆余曲折、行きつ戻りつの歩みであったと思います。それでも神さまが本当に会堂を与えて下さったこと、建て上げられていったことを改めて思います。そしてもう一つの事は、少し遅れて牧師館が着工されましたが、それもまだ後任牧師が決まっていない時に着工をしていきました。つまり先のことがまだ何も決まっていない中で、物事がこれからのために用意されていったということです。

それは、イエスさまの向こう岸に一緒に渡ろうじゃないか!と言う呼びかけに答えて、それに同意していったことによって、見えるものが与えられていったこととに繋がるのではないでしょうか?

 

弟子たちにとっても、そうです。一緒に行こうじゃないかと言われたイエスさまに言われて、漕ぎ出した時、順調に進むどころか(37)「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」と言う大変な出来事に見舞われるんです。突風に翻弄され、舟には水がいっぱいになっている状態です。舟に水がいっぱいたまっている状態は、いつ沈んでもおかしくない状態です。そんな中ですから、もうだめだ!もう無理だ!というところを通らされていくんです。しかもその時、イエスさまはどこにおられたかと言うと、「艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」すやすやと気持ちよく眠っていたというのではなくて、イエスさまは疲れ切って、全く起きることが出来ない状態の中で、眠っておられたということですし、その場所も艫というところは、舟の尾、船尾であり舳先です。ということは、舟は突風のために波をかぶって、水で一杯になっている状態の中で、一番波をかぶっておられるのは誰か?というと、舟の一番低いところに、疲れ切って起きることができないでいるイエスさまなのです。

 

そのイエスさまを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」死んでも、だめになっても構わないのですかと、先生!と言った時、彼らよりもはるかに、イエスさまが波をかぶり、おぼれかけている状態ではないでしょうか?舟尾で動けないのです。一番低いところにおられて、おぼれかけているイエスさまを、彼らは助けようとしないで、自分たちがおぼれても構わないのですか。と自分のことしか考えられていません。

 

切羽詰まった時、緊急事態の時には、人間ってそうなるように思います。いざと言う時に、自分だけ何とかなったらそれでいいという身勝手さ、自分本位なところがありますし、それが思わず出てきてしまうのではないでしょうか?これは誰かのことではなくて、誰もがそうなる可能性を持っていると言えます。誰もが、自分をまず守ろう、自分が助かること、自分が守られること、自分がおぼれないで済むことを思うのではないでしょうか?それが言葉になって思わず顔を出してしまうことがあるのではないでしょうか?

 

本当はイエスさまを誰よりも先に助けようとしなければならないのに、弟子たちは自分たちが助かることしか考えていません。それでもイエスさまは、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」ということに、(39)イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

 

とありますが、ここでイエスさまは、風を叱るのです。この叱るという言葉には非難するとか、叱責する、怒鳴りつける、と言った意味の他に、尊敬するという意味もあるんです。風を尊敬するとはどういうことか?それはただ単に相手をやっつけてやろうとか、相手を亡き者にしようという意味で、叱るのではなくて、実はその叱る時には、相手に対する尊敬があるのです。尊敬があるからこそ、イエスさまは風を尊敬して、風を叱るのです。尊敬するということは、優しくするということよりも、相手をしっかりと認めて、相手に直接向かっていくということではないでしょうか?

 

相手の胸を借りるという言葉があります。まともにぶつかっていくとき、それはそのぶつかっていく相手をちゃんと認めているし、それは尊敬に繋がるのではないでしょうか?認めようとせず、尊敬していなかったら、まともにぶつかってはいきません。イエスさまは風も支配される神さまでありながら、同時に、その風を尊敬し、本当に向き合っているからこそ、風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まれ」です。

 

それは風に対することだけなのかというと、イエスさまは弟子たちに向かっても「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とまともに向かう事でもあるのではないでしょうか?単刀直入です。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。これも弟子たちに向かっての、厳しい言葉です。なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。まだあなたがたは信頼、信仰をまだ持たないのか!持つことじゃないか!何をやっているんだ!という叱責です。でもそれはイエスさまの、弟子たちへの尊敬と、信頼があってこそ、初めて言える言葉ではないでしょうか?これを言っても大丈夫!という信頼がなければ、こんなこと単刀直入には言えないです。それで初めて、弟子たちは、自分たちが信じていなかったということに気づけたのではないでしょうか?

 

そのように、まともに立ち向かっていくイエスさま、尊敬もし、しかりつけていくイエスさまが、時には不安になり、もたもたしてしまうこともある、私たちに向こう岸に一緒に渡ろう、私たちは一緒にいこう!と言葉をかけ、促してくださるのです。何をぼやぼやしているんだ!一緒に行こうじゃないか!

 

ホスピスで働いておられた一人のチャプレンの方が、駆け出しのころに出会った出会いの中で、大部屋で入院されていたお年を召された方々との出会いがありました。ある時その部屋におられた6人のおばあさん全員が、ベットの上に正座をして、じっと黙って手を合わせていました。しばらくして一人一人またベットに静かに横になっていかれました。その様子をみたチャプレンは何か異様な光景を見たように感じました。それで傍にいた一人の方に尋ねました。「何をしておられたのですか?」「早く死んで土にならんといかんと思いました。だから早くお迎えが来るように拝んでいました。生きていても何の楽しみも希望もないです。かえって周りのみんなに迷惑をかけるだけや」その言葉に周りの方々も、「そうやそうや、あんたの言う通りや」と言い出されました。そしてそれぞれにやるせのない思いを初めて語り出したのでした。その時チャプレンはショックでした。「喜びも希望もないのに、今日も生きなければならない人の苦しみがあなたには分かりますか」そのことを突き付けられました。生きていること自体辛いのだ!その苦しみがあなたに分かりますか?でもそれに対して、何も答えることができませんでした。病室に立ち尽くしていまいました。

 

そのまともにぶつかってきた言葉「喜びも希望もないのに、今日を生きなければならない人の苦しみがあなたには分かりますか」に初めて、気づかされたことがありました。それは一日でもいい状態で長く生きていただくことがその方の幸せだと確信していたことが、がらがらと崩れ去ったことでした。でもそのことによって、一日でも長く生きていただくための医療行為も必要だけれども、希望を支える心のケア、生かされている喜びを感じていただく助けも必要じゃないかと、思うようになりました。

 

はっきりと言ってもらって、初めて気づかされることがありますね。イエスさまは、曖昧な、何とでも取れるような事をおっしゃいません。単刀直入です。でもそれは叱るというやり方であったとしても、それは風だけでなく、私たちへの尊敬と信頼があってこそ、言葉となって届けられた出会いであり、その時イエスさまも私たち以上に、一番波をかぶりながら、あるいは泥をかぶりながら、一番助けを必要としているのにもかかわらず、私たちにまともに関わってくださるイエスさまとなっているのです。

 

それが向こう岸へ渡ろう、一緒に行こうじゃないか!一緒に渡ろう!というお言葉の意味と、目的なのです。

説教要旨(2月27日)