2022年1月30日礼拝説教要旨

手を差し伸べて(マルコ1:40~45)

松田聖一牧師

今日の聖書の御言葉は40節からですが、実は(40)から始まる箇所ではなくて、39節「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」というところから始まっています。なぜそう言えるのかというと、もともとの聖書、ギリシャ語で書かれているものを見ると、40節から新しい段落が始まるのではなくて、39節から新しい段落が始まり、そして40節に繋がっています。ということは、イエスさまがガリラヤ中の会堂に行き、神さまを宣べ伝えたこと、そして悪霊を追い出すということを、されているその中で、重い皮膚病を患っている方が、ガリラヤ中のどこかの会堂にいたイエスさまの所にやってくるということなのです。

 

でもこの皮膚病を患っておられる方は、本当によく会堂にはいられたな~と思います。思い切った行動です。なぜなら、本当は入ってはいけないのに、イエスさまのおられる会堂に入っていったからです。

 

本来、重い皮膚病を患っている人は、会堂には入れません。この人は重い皮膚病が治るまで隔離されなければならないからです。それは旧約聖書にちゃんと決まりとして定められていますし、治った、癒されたと祭司に証明してもらわないと、隔離を解かれないのです。理由はいろいろあります。隔離をしないと、周りの人々に移ってしまい、場合によっては大変なことになるからです。ですから、この人は、人のそばに来ることなんてできません。何かを話そう、何かを伝えようとしても、近くまで来ることができませんから、遠くから、叫ぶように話すしかないのです。

 

聖書の中で、重い皮膚病を患っていた10人の人たちが、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて叫ぶ場面がありますが、あれはどこから叫んでいるかというと、イエスさまからはるか遠く離れたところから、大声をあげて、「憐れんでください」と声を張り上げて、叫ぶのです。それが当時の決まりに沿ったやり方です。

 

ところが、ここでは重い皮膚病を患っているのに、「イエスのところに来てひさまずいて願」うのです。イエスさまの所にまで来て、イエスさまから離れたところで、ではなくて、イエスさまの近くにまで来て、イエスさまに願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言うことができたのは、どうしてか?それは、イエスさまがこの人を、そばに来るように招いて下さったからです。彼らがイエスさまに願うというこの言葉には、彼らがイエスさまに願う言葉だけではなくて、その同じ言葉には、イエスさまが彼らを傍へ呼ぶとか、呼び寄せるとか、招く、そして慰める、慰めを与えるという意味もあるからです。

 

つまりこの人はイエスさまのところに来て、イエスさまに願い、助けを求めることができたのは、イエスさまが、この人を傍に招き、呼び寄せ、近くに来るように呼び掛けてくださっていたからです。それがあるからこそ、初めて彼は、イエスさまに願うことができたのではないでしょうか?傍らに呼んでくれなければ、イエスさまのところに来ることも、願うことも全くできません。でもそれができた、願うことが出来たのは、そこにイエスさまの招きがあったからです。

 

あるテレビ番組で、人生やり直し請負人として、元ワル社長が、刑務所から出所されてきた方々を自分の会社に雇っていく協力雇用主という立場で奮闘しておられる社長さんです。いろいろな前科のある社員に全力で、家族として受け入れていかれるというドキュメンタリーです。

 

問題を起こしながらも、それでも、かつての自分のようになってほしくないという強い思いで、一人一人を迎えて、叱咤激励もし、時には一緒にご飯を食べという手鳥足取りの毎日です。そんなある時、刑務所に社長さんは出かけました。面会室で、一人の服役中の人に会い、出所した時には、うちの会社へ来い!家族として受け入れるという思いを伝えながら、最後にひと言窓越しにこうおっしゃいました。

 

「早くここを出てうちに来い!早くここから出てこい!」彼をもうすでに受け入れていました。彼に手を差し伸べていました。何があってもつかまえ続ける!共にいようという強い思いがありました。しかしその思いとは裏腹に、手を差し伸べ、捕まえ続けることには、覚悟がいります。受け入れたら問題がなくなるのかというと、決してそんなことはなく、むしろ問題も受け入れることになりますから、人に手を差し伸べて助けられて良かった!という万事OKだけではとんでもなくて、手を差し伸べ、つかまえ続ける側の人にとって本当に大変です。時には、命がけになります。

 

例えば、おぼれかけている人を助ける時、一つの国際ルールがあります。それはおぼれかけている人は、助けに来た人、手を差し伸べた人に、しがみつこうとしますから、手を差し伸べた人も一緒に溺れてしまうことになります。すごい力です。ですからそういう時には、場合によっては、おぼれかけている人を、気絶させてもいいんです。気絶させないと、ものすごい力でしがみついて、まとわりついてくるので、助けようとしている人も、動き取れなくなって、おぼれてしまうからです。だから、時には、気絶させてもいいのです。そしてつかまえて岸に引っ張っていったり、船に引っ張っていくのです。もちろんいつも気絶させていいわけではありませんが、それほどに人を助けること、人に手を差し伸べることは、差し伸べる側にも大きなリスクが伴います。

 

イエスさまはそれをされるのです。しかもイエスさまは、その人に手を差し伸べただけでなく、「その人に触れ」るんです。これは、そうっと触れているのではなくて、手を付けてつかむのです。イエスさまの手がぴったりとくっつくんです。すがりつくのです。ということは、しっかりとつかんでいないと、この思い皮膚病を患っていた人がどこかに行ってしまうかもしれない、あるいはつかんでいないといけない何かがあったからではないでしょうか?やさしくそうっと触ったような感覚であれば、取り逃がしてしまいます。それはこの人が、自分は会堂に入ってはいけないし、隔離されなければならないこと、イエスさまの所に来てひざまずくなんていることをしてはいけないと分かっていたから、それですぐにでもここから離れないと、という思いであったかもしれません。だからこそ、イエスさまは、そんな彼をつかむのです。しっかりとつかんで、この人がどこかに行ってしまわないように、引き留めてくださり、そして「よろしい。清くなれ」と宣言すること、そしてこの人の皮膚病が癒され、清くなったところまでイエスさまはしようとしているのではないでしょうか?

 

そのように、手を差し伸べていかなければ、助からない人がいます。こちらから手を差し伸べなければ、届かない方がいます。相手からの行動を待っているのではなくて、こちらから行動を起こしていくことです。そしてこちらから手を差し伸べていくこと、そしてしっかりとつかんでおくこと、手を離さないこと、引き留めておくことも、必要ではないでしょうか?

 

そして「よろしい、清くなれ」というイエスさまの行動と言葉で、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」のです。

 

しかし、イエスさまは、あれほど手を差し伸べ、しっかりとつかまえていたこの人を、癒された途端、「すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』

と、癒されたこの人を、すぐに立ち去らせようとするというのは、放り投げて、しりぞけて、送り出し、派遣しようとするということです。イエスさまは、厳しく注意して、誰にも何も話さないように気をつけなさい、ただ行って祭司に体を見せて、神さまが定めておられた清めのための献げものをささげて、人々に治ったということを証明せよ、です。

 

イエスさまは豹変したかのように、この癒された人を、投げてしりぞけて、送り出そうとするし、誰にも、何も話すなと、厳しく注意したとは、これは馬が怒って鼻を鳴らすという言葉から来ているんです。鼻息荒く、怒鳴りつけるほどに、イエスさまは、ご自分が今よろしい、清くなれと言ったこと、その時すぐに癒されたことも含めて、誰にも何も言うなと厳しく注意するのです。

 

でもこの人はイエスさまが、これほどまでに厳しく注意されたのに、祭司のところに体を見せに行くことなく、体を見せて、本当に治ったという証明を祭司からもらおうとしたのではなくて、どうして治ったのか、誰が治してくださったのかという、この出来事を、イエスさまから投げ出され、しりぞけられた、そのところから立ち去って、出かけて行って、イエスさまからあれほど厳しく注意されて、誰にも言うなと言われたのに、それなのに人々に告げて、言い広め始めるんです。

 

それは清くなれと言われたらすぐに癒されたことが、あまりにもうれしかったからなのか?驚いたからなのかもしれません。彼はとにかくこのことを人々に言い広めたかったのでしょうか?

 

しかし社会的には、祭司から清いと認められないと、公には清くなった、治ったことにはなりません。治っていても、証明書なし、です。しかし彼は、証明をしてもらうこと、祭司に体を見せること、よりもイエスさまからしりぞけられ、投げ出されても、それでもイエスさまが私を癒して下さったこと、癒して下さったイエスさまを伝えていくのです。つまり、彼にとっては、祭司に体を見せるよりも、イエスさまが癒して下さったこと、イエスさまがきよくなれと言ってくださったことが、祭司に体を見せて、社会的にも治ったという証明をもらえることよりも、はるかに大きなことだったのではないでしょうか?

 

その結果、イエスさまはその町に、公に公然と入れなくなるんです。この人も社会的に癒されたという証明をもらえないままです。それでも、イエスさまがしてくださったことを伝えていった結果、イエスさまがその町の外の人のいない所におられても、イエスさまのところには、人々が四方から集まってくるんです。

 

新潟に敬和学園高校と言う学校があります。その学校の初代校長先生でいらした太田俊雄先生の講演を中学3年生の時に聞いたことで、敬和と言う高校があると知ることになりました。そして先生の書かれた本を手に取るようになり、その中にどうして敬和学園高校が新潟市内の便利なところにではなくて、バスで新潟市内から一時間もかかる所に高校を立てようとされたのかという下りに出会いました。周りの人からも、どうしてあんな不便なところに・・・という声があがりました。もっと便利なところの方が、生徒は集まってくるんじゃないか?どうしてあんな松林に囲まれたところに??という声に、太田先生はこう答えました。「本物の教育をすれば、どんなに不便なところにあっても生徒は集まってくる!日本全国から集まってくる!」そして電車も通るなんておっしゃられましたが、さすがに電車はやってきませんでしたが、それでも全国から生徒が敬和にやってきました。本物の教育をすれば、どんなに不便なところにあっても生徒は集まってくる!

 

不便は不便です。もっと便利なところの方がいいのに、と言う声を聞こうとしませんでした。確かに便利な所に建てたらという声に聴くこともできたでしょう。従うこともできたと思います。でも生徒たちの教育のためには、自然が豊かなここがいい!通学には大変かもしれない。でもここにやってくる!

 

教会もそれと似ていますね。便利なところにあれば、より人が集まってくるのかというとそうとは言い切れません。むしろどんなに不便なところにあっても、そこでイエスさまが語られ、イエスさまが紹介されていけば、必ず人はイエスさまのところに集まってきます。イエスさまが招いて導いてくださいます。イエスさまが手を差し伸べて、しっかりとつかんでくださいます。

 

この男の人は、そのようにしてイエスさまに出会い、イエスさまにきよくなれと癒されたのでした。どんなに町の外にイエスさまがいても、そこに四方から人々が集まってきました。便利か不便かはそこには当てはまりません。どんなに不便であっても、イエスさまがおられるから、人はやってきます。必ずそうなります。

説教要旨(1月30日)