2021年12月24日クリスマス燭火讃美礼拝説教

あなたと呼んでくださるお方がいる(ルカ2:11)

松田聖一牧師

 

タイ北部にある小さな村を訪ねたことがありました。ミャンマーと国境を接するところでした。ボークルーア村という小さな村で電気がまだ来ていないところでした。村に住んでおられる方々にとって、地球が丸いということも知りませんでしたし、地球が丸いということを伝えると、下にいる人たちは落ちてしまうと本当に思っておられる方もいらっしゃいました。そんな村に、教会が建てられ、そこに毎週日曜日に集まり、礼拝をささげていましたが、その教会は柱と屋根だけの教会で、壁がありませんでした。壁がないというのは、熱帯の国だからできることですし、もちろん十分な資金がないということもあるでしょう。でも壁がないというのは、いいなあと思いました。壁がないというのは、何もかもは吹き抜けです。風も通りますし、教会の中でしていること、讃美歌も、お祈りも、立ったまま礼拝をささげていく、その姿も全部見えます。オープンです。

 

そんな教会に集まられる方々の中には、戸籍がない方もおられました。でもそこにいます。でも届け出ていない、届けられないいろいろな理由があったからと思われます。

 

今日のクリスマスに登場します羊飼いもそうでした。名前がありませんでした。戸籍もありませんでした。ですから、そこにいて羊の番をするという仕事をしていますが、戸籍上はそこにはいない方々です。ということは、今でいう福利厚生にあずかることはできませんし、そういうことすら思い描けなかったし、そういうものがあるということも知らなかったかもしれません。そして何よりも、名前で呼んでくれる人、あなた!と言ってくれる人がいたのかというと、人として認められ、人として受け入れてもらえるような、機会があったのかというと、おそらくなかったと言えるでしょう。なぜなら、羊飼いという世界しか、彼らにはなかったし、羊飼いという世界以外の方々との接点もなかったからです。そしてそれ以上に、わたしを、あなたと呼んでくれる出会いがなかったからです。

 

そんな彼らに、救い主誕生の知らせがもたらされたこと、しかもその救い主イエス・キリスト、イエスさまというお方が、どこか別世界における救い主ではなくて、「あなたがたのために」生まれたという知らせは、驚きしかなかったのではないでしょうか?

 

今まで、あなたのために、あなたがたのために何て言われたこともなかった、そういう関係がなかった、人間関係と言う考え方、すらもなかった、羊飼いにとって、自分たちのことを、「あなたがた」と呼んでもらえたということは、人として、人となれた、人間として認められ、受け入れられた、自分たちが、この世界にいるんだ、自分たちはここで確かに生きているんだということを、初めて知った出会いではなかったでしょうか?

 

人間というのは、人という漢字を見る時、ひとりで人となれるのではなくて、二人いて、初めて人と言う字になりますね。その通り、あなたがたと呼んでもらえて、初めて、人間になれた!という出来事と出会いではなかったでしょうか?

 

私が私だと認められるためには、私以外の誰かが、あなたと呼んで、受け入れて、あなたのためにと言ってくださるお方がいてこそ、初めて、私は私だと言えるのではないでしょうか?私が私になれるという出来事です。

 

それがなかったから、大変ですよね。いてもいなくても、どっちもいいということであれば、これは大変です。人でなくなってしまいますし、人としてやってられなくなりますね。誰からもあなたを言ってもらえない、誰からもあなたと認めてもらえなかったら、自分の居場所も、自分の価値も何もかも見つけることはできません。

 

物理的に生きている状態であっても、それはもう死んだような状態です。

 

イエスさまは、そこに生まれてくださいました。誰からも認められないでいる、私を、あなたであると受け入れて、「あなた」と呼んでくださるために、イエスさまは生まれてくださいました。そしてそのイエスさまはわたしにとっての「あなた」となり、「あなた」と呼べるお方となりました。その知らせを聞いた羊飼いたちは、そこで初めて、「話し合った」のです。その意味は、「互いに向かって語り合った」ということです。つまり、私が私として神さまから、お互いに受け入れ合えた時初めて、お互いに向き合って、話し合うことができるようになったんです。それまで羊飼い同士、お互いに、関心も何もない状態でした。お互いに目の前にいたかもしれない、でもお互いに、相手をあなたと意識し、受け取ることすらなかったのではないでしょうか?でも、わたしをあなたと呼んで受け入れて下さるお方がいることに、気づけたとき、お互いに向き合って、語り合えた出会いとなりました。

 

その出会いは、何かすごい宝物がやってくるようなものではないかもしれません。小さな出会いの中で、わたしをあなたと呼んでくださる方がいる!わたしは、わたしがわたしと呼べるようになったから、わたしになるのではなくて、わたしをあなたを呼んでくださるお方がいてこそ、初めて、わたしはわたしになれます。「わたし」になれたら、「わたし」になれた者同士の輪が広がっていきます。

 

ある時に、スーパーにお昼のご飯を買いに行った時の事でした。確かカツどんだったと思いますが、それを手に取って、かごに入れてレジに進もうとしていた時の事でした。お店の方が、たぶん総菜コーナーで働いておられる方だと思いますが、かつ丼を手に取って、こうおっしゃってくださいました。「こっちのカツどんが出来立てだから、温かいよ~」それで自分が手に取ったカツどんとそのお店の方がこれどうぞと言ってくださったものを、交換してそれをいただくことになりました。すごく心が温かくなった瞬間でした。「こっちのカツどんが出来立てだから、温かいよ~」温かい言葉でしたし、どこの誰だかわからないお客に、出来立ての方を手渡して下さる必要もなかったかもしれません。最初に作ったものから、売れた方がお店としては良かったと思います。でもそのおばさんは、私のために、こっちの方が温かいよ~と差し出してくれました。

 

そのお店の方と、それ以来会うことはもうありません。今、どこでどうしておられるのかは分かりません。でも冷たくなっていたものではなくて、温かいカツどんをどうぞと言ってくださった、その温かさは、私をその他大勢の一人、どこのだれでもいいということではなくて、あなたのために、このカツどんどうぞと言ってくださったと今でも思います。

 

あなたがたのために救い主がお生まれになった。

 

羊飼いたちは、新しく生き始めました。新しい行動を起こしていきました。それは、あなたがたのために生まれたイエスさまを見に行くことでした。

 

変えられていくんですね。人は人として認められた時、生き方が新しくされていきます。クリスマスはその出会いと出来事です。

 

祈りましょう。

説教要旨(12月24日)