2021年12月19日 礼拝説教要旨

出会い(ルカ1:39~56)

松田聖一牧師

立ち上がることが出来ない時があります。挫折であったり、大きなショックを受ける出来事であったり、いろいろあると言えますが、そのショックが大きければ大きいほど、人はなかなか立ち上がれません。どうすることもできない状態であると言えるでしょう。マリアもそうです。イエスさまを身ごもるという知らせを受けた彼女は、大きなショックの中にありました。とても喜ぶなんてできない状況がありました。赤ちゃんを身ごもること、新しい命が宿ることは、本来は喜べる出来事です。でもこの時マリアにとって、イエスさまを神さまによって身ごもるという知らせは、喜んで受け入れられない知らせでした。それでも、彼女の身には確かに新しい命があります。身ごもっています。同時に、これから先、どう生きていけばいいのか?どうやって育てていけばいいのか?全く分からない中にあったと言えるでしょう。

 

そんな立ち上がれない日々の中から、マリアは、ようやく立ち上がって、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入って、エリザベトに挨拶した」のです。ここで、彼女はイエスさまを身ごもるという知らせを聞いてからすぐに出かけたわけではありません。立ち上がれない日々が、数日あった、一日だけではなくて、何日もあったということですから、その立ち上がれない日々、彼女はどうしていたのだろうか?どう過ごしていたのだろうか?生きた心地がしなかったのではないか?死にかけていたと言えるほどに、立ち上がれなかった状態が、何日もあった、そういう日々を経て、彼女は、立ち上がって、急いでユダの町にいる、ザカリアの家に向かい、親類のエリザベトに会って挨拶するんです。この時「挨拶した」のは、マリアの方ですから、お邪魔する側からの挨拶になります。

 

一般的に、家に伺う時、尋ねる時には、訪問する側の人は、迎えいれてくださるそのお家の方々に、気遣いをするという意味での「挨拶」をしますね。「こんにちは、おじゃまします」とかこちらが訪ねていく時には、迎えいれてくれるその方に対して、挨拶します。立場が上の方であればなおさら、うやうやしくなります。ところが、ここでマリアが、エリザベトに挨拶した」と言う意味は、エリザベトの家に訪ねたマリアが、エリザベトを、歓迎し、いらっしゃいと言う言葉、歓迎、招きの言葉となっているのです。

 

不思議ですね。エリザベトのところに向かい、訪ねてきたマリアを、エリザベトがいらっしゃい、良く来ましたねと迎え入れてくださるかと思いきや、エリザベトのいるザカリアの家に入った時、そこにいたエリザベトを歓迎していくのです。マリアの方から、歓迎するのです。いらっしゃい!迎え入れてくれるのです。

 

この逆転はどういうことでしょうか?

 

この時、マリア自身は本当にいろいろなところを通らされています。渦中にあります。渦中ですから、大変です。それなのに、エリザベトを歓迎していくというのは、マリアのエリザベトへの思いがこもっているのではないでしょうか?というのは、この時マリアは12歳、13歳、少女です。一方でエリザベトは高齢になっていましたから、高齢出産を控えていると言えるでしょう。当時は今とは全く医療体制も異なりますから、高齢出産のリスクは、今とは比べ物にならないほど、非常に高いです。母子ともに危険です。出産には大変なリスクが伴います。そういうことも抱えているエリザベトをマリアもマリアで大変な中で、歓迎し、敬意を表したということなのです。

 

10年ほど前に宮城県の気仙沼というところを訪ねました。そこで東日本大震災により津波で全部流されてしまった、いろいろな方々のための活動をされている方と出会いました。その活動もちゃんとしたものにしないということで、一般社団法人を立ち上げて、いろいろな活動をされていました。いろいろなお話をお聞きしたあと、案内くださいました。ここまで津波が来ました。ここから下は全部流されましたと。それが終わった時に、私の所にきてこう尋ねられました。「どこから来られましたか?」「神戸からです。」「神戸からですか・・・大変でしたね~」しみじみ言ってくださいました。神戸の地震はもちろん大変でしたが、焼けなければ家がまだ残っていました。でも津波で全部流されたところは、本当に何もありません。全部流されています。それなのにこちらがかえってはげまされたような感じでした。

 

このように、人を力づけることが出来る時というのは、どちらかが平和で、安泰で、何不自由ない生活にいる方から、大変な状況に置かれた方への方向だけではなくて、お互いに大変な中にある時にこそ、お互いがお互いを気遣い、相手を歓迎し、相手を受け入れて、そして支え合っていけるようになるのではないでしょうか?同じような立場の方同士であれば、何かしら通じ合えるものがあるように思います。

 

そのマリアの挨拶をエリザベトが聞いた時に、「その胎内の子がおどった」のです。その胎内の子というのは、誰の子どもを指すのか、というと、エリザベトの子です。エリザベトの子ということは、エリザベトのお腹の中で、バプテスマのヨハネがおどり、はねたのです。まだこの世に誕生していないヨハネが、お腹の中で、母となるエリザベトと、その親戚になるマリアがエリザベトを訪ね、エリザベトを歓迎し、互いに、支え合っていけるようになったとき、喜びのあまり、ヨハネがお腹の中で、喜びおどったのでした。どのように飛び跳ねたのか?どのような勢いだったのかという、お腹の中での出来事についてですから、具体的には分かりませんが、エリザベトは、お腹の中の赤ちゃん、ヨハネの喜びが分かったのです。この赤ちゃんは喜んでいる!イエスさまのお母さんになるマリアが自分のところに来てくれたことを、ヨハネは喜び、その赤ちゃんの喜びが、母親となるエリザベトに伝わったのです。

 

そういう意味で赤ちゃんの存在、お腹の中にいる赤ちゃんであっても、その赤ちゃんがいることは、その母親にとって、すごい存在ですね。生まれてきた赤ちゃんも、すごい存在ですよね。小さな赤ちゃんから、どうしてこんなに大きな叫び声が出るのかと思います。雄叫び越えですね。体全体が響いて、体全体で、全身で、わ~となりますよね。感情も突き抜けていますよね。生命力はとてつもなく大きいです。

 

その赤ちゃんが胎内で喜び踊った時、理屈ではなくて、本当に喜んでいる、イエスさまが生まれることを、この子は本当に喜んでいるということを、エリザベトもそのまま受け取った出来事ではなかったでしょうか?そしてエリザベトの口から出た言葉が、「わたしの主のお母さまがわたしところに来て」くださった、つまりエリザベトにとって、マリアは12、3歳の親戚のマリアではなくて、「わたしの主のお母さま」になっているんです。マリアのお腹に宿したその方は、わたしの主だ!わたしの主だという、信仰告白となっています。イエスさまはわたしの主です!わたしの神さまです、私にとっての主であり、この主はわたしをあなたと呼んでくださり、受け入れて下さるお方だ!ということを、エリザベトは受け取って、告白しているのです。

 

もちろんエリザベトとマリアも、お腹の中の、赤ちゃんの誕生について、あれこれ考え始めたら、いろんな思いが出てきます。無事に生まれるだろうか?いろいろな思いが、わいては消え、わいては消えとなります。それに振り回されたりもするでしょう。これから先の事を考えてしまうと、どうなるのだろうと不安に駆られてしまいます。それは確かにあるし、これからないとは言えないけれども、この時、この瞬間を、エリザベトとその胎内にあるヨハネ、そしてイエスさまの母となるマリアが、この瞬間だけであっても、ヨハネが喜び踊る中で、その喜び踊るその喜びが、マリアの讃歌となっていくのです。

 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」神さまがどんなに大きなことをしてくださったか、神さまが私に目を留めてくださり、神さまが私にして下さったことが、どれほど素晴らしいことであるかということを、マリアは、心から精一杯讃美しました。それはその瞬間だけだったかもしれません。その後のことについては、ベツレヘムへ行くこと、羊飼いが来たこと、博士たちが来たこと、そしてエジプトに逃げなければならないという逃避行が待ち構えていますから、喜び三昧がずっと続いたかというと、そうではありません。でもそれはこの後に起こることですし、この時点でマリアは全然分かりません。知らないからこそ、今、この瞬間に、エリザベトとヨハネと一緒に喜べたとも言えるでしょう。そんなこの一瞬の出会いを通して、エリザベトと一緒に讃美できたこと、一緒に神さまがしてくださったことを喜び祝えた幸せ、讃美できる喜びが、神さまから与えられたのでした。

 

クリスマスキャンドルサービスの前日に、キャロリングと言ってろうそくを手に、教会員の方々の家を訪ねることでした。車で乗り合わせて、どこに行くかということを決めて、それぞれに分担して出かけていきました。そこに一緒に連れて行ってもらいました。家々を回っていきます。讃美歌を歌っていると、玄関の電気がついて、家の中から出て来られて一緒に讃美歌を歌います。途中でろうそくが消えてしまうこともしばしば・・・でしたが、家々を回って讃美歌を歌っていくと最初は寒くて寒くてどうしようもなかったのが、だんだんを温まってきます。燃えてきます。家に迎え入れてくださる方もあり、おいしいデザート、ケーキを焼いて待ってくださる方もありました。そんなキャロリングで忘れられないキャロリングがありました。それは一人のおばあさんの家を訪ねた時の事でした。ご主人の介護で24時間つきっきりでした。今のような介護保険がないときです。おばあさん一人で見ておられましたから、教会にはいくことが出来ない状態が続きました。そのおばあさんの家にクリスマスの前の夜、その家に何人かで行きましょうということになり、出かけました。そして真っ暗な道を進んで、家の前に辿り着いた時、家の前で讃美歌を歌いました。歌っているうちに中から出て来られて、一緒に讃美歌を歌いました。久しぶりに一緒に讃美歌を歌えた喜びがありました。みんなに会えた!教会の方々と一緒に讃美歌を歌いました。毎日の介護でクリスマスどころじゃなかったかもしれません。でも歌い終わってお祈りをしたとき、おばあさんは泣いておられました。ありがとうございました~と深々とお辞儀をされて後にしました。ババロアやプリンやケーキをいただいたところも、印象的です。それ以上に、クリスマス、イエスさまが救い主として生まれました!という知らせは、そこにも確かにありました。

 

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

 

救い主が生まれてきてくださった、私のために生まれた!そのお方はわたしの主です。そのイエスさまとの出会いは、その人の生き方、人生を変えていきます。どんなに絶望の中にあっても、新しく造りかえられていきます。

説教要旨(12月19日)