2021年6月27日礼拝説教要旨

思い悩むとき(マタイ6:22~34)

松田聖一牧師

 

中央線で名古屋から向かった折、確か中津川を過ぎて、長野県に入ってからだったと思いますが、木曽川に沿ってずっと電車が走っていたその時、窓から木曽川が見えました。本当に水が透き通って、美しく輝いて、太陽の光に照らされて、エメラルドグリーンでした。透明度が全然違いました。川底が電車からも、きれいに見えました。そういう水が澄んでいる時、美しく、輝いています。その輝きは比べることができないほどです。そのように、澄んでいる状態では、太陽の光が川底まで照らします。太陽の光に照らされて、水の中も明るいです。水の中にあるものも、魚も、石も、いろいろなものが奇麗に見えます。その理由として、光がまっすぐに水の中に入っていけるからです。光はそもそもまっすぐです。その時、水の中に、ほこりやごみ、小さなものから大きなものまで、いろいろとあると、一直線にまっすぐに、射し込む光が川の水を照らしても、その光がそこにあるいろいろなものに光が当たって、それらに反射してしまい、それらのものに当たった光が、あっちやこっちに行ってしまうので、その結果、川底に光が一直線に、まっすぐ届かなくなります。それで光がまっすぐにならないので、輝かなくなります。そして水の中にある、いろんなものに反射したものも、こちらの目に入りますから、水だけではなくて、他にいろんなものが混ざってしまいます。つまり単に水がきたなくて、汚れているから、美しくない、輝いていないということではなくて、もちろんそれは要因の一つですが、いろんなものが水の中にある結果、ものが邪魔をしてしまい、光がまっすぐにならないので、美しく、輝かないということです。

今日の聖書のみ言葉において、イエスさまがおっしゃられる「目が澄んでいれば」という目が澄んでいることも、水が澄むことと似ています。というのは、目が澄んでいれば、にある「澄んでいれば」の本来の意味は、一途な、とか、単純な、あるいは一つのものに集中しているということです。つまり、目が澄んでいる時、目がただ単に奇麗とか、透明ということだけではなくて、まっすぐに一つのものに向かっている時、集中している時、一途なその時の、目を示していると言えるからです。

確かにそうですね。何かに集中しているとき、一途な時の目は違います。目力があると言いますか、何かにまっすぐな時の目には目の輝きが違います。そのとき、イエスさまが「あなたの全身が明るい」とおっしゃられるのは、あなたの体は光って、輝いていて、明るいということです。何かに一途になっているとき、輝いています。明るいです。それが伝わりますし、それが何かしら周りの方々にも響いていきます。

では(23)にある「濁っていれば」という時とは、どういう時でしょうか?この濁っていればの、濁るとは、白内障のように目が白く濁るという意味ではなくて、「労苦によって圧迫されていることを表す言葉、苦痛の、激しい、苦しい、辛い、悪性の」といった意味があります。つまり、苦しみとか、労苦によって圧迫されていること、辛いこと、がそこにあるからこそ、目が濁ることが起こるわけです。そうすると、「全身が暗い」とイエスさまのおっしゃられる通り、そうなるのではないでしょうか?

年に1回程度、ぎっくり腰になります。重い荷物を持ったわけではないのに、ただ座っているだけで、ぎっくり腰になったこともありました。そういう時、痛いですね。痛くて、動けないか、動こうとしても、なかなか動けないことが多いです。寝返りを打つことも、立ったり座ったりすることも、扉の開け閉めも、何かにしがみつきながら、せざるを得ないです。階段の上り下りも、恰好が悪いほどの動きしかできません。本当に痛いですので、くしゃみすることから、何から何まで、何をしても、何もしなくても、痛いときは痛い!そういうことが起こり得ます。

痛みがあるとき、それは苦痛でしかありませんね。労苦です。何をするにも辛いことです。そういう時には、やる気も何も起きません。心も暗くなります。どんなに明るくふるまっていても、暗いです。それが体全体にも及びます。そういうことは、身体的なことだけではなくて、精神的なことからも、起こり得ることではないでしょうか?精神的に大きなストレスを抱え込んでしまうような出来事が、起きた時、心も体も大変です。目もうつろになり、目も暗くなり、それが全身、全部に及びます。そして「光が消えれば」暗黒です。真っ暗です。真っ暗と言う暗黒の中にある時には、光が消えた状態ですから、恐ろしいですね。暗闇に襲われる時というのは、希望も何も見えてきませんし、希望を持てるようなことも感じられません。

そういう中で、私たちは何に直面し、何と向き合っているかと言うと、そういう労苦、苦しみとか、圧迫といった辛いことに、目が向いているのではないでしょうか?忘れたいこともあるでしょう。忘れようとしていることもあるでしょうが、しかし辛かったこと、全身を暗くさせたことに、目が向き、心が向き、全身が向く時、でも本当はそんな方向に、向きたくはないことでありながら、本当は、すっきりと、さっぱりと流してしまいたいものなのに、しかし、圧迫され、労苦と感じる時、それを感じさせたものに向かうのです。

なぜでしょうか?とらわれてしまうからです。あるいは辛いなと感じさせたことを、忘れられないからです。忘れられないということは、それらのことを自分が赦せていないことだと言えるでしょう。だから思い出されますし、どこかで気になっているのです。

それらのことは、命をいただいて、生かされて生きている自分自身に起こることです。つまりいろいろな労苦、圧迫は、それ自身は、労苦であり、圧迫であるということです。それはその通りです。ただ、そこから離れられないでいるというとき、1つのことから始まるいろいろなことが、私たちの命に対する労苦であり、圧迫として、受け止めているからではないでしょうか?つまり、自分の命に対する脅威と言いますか、自分自身を責めて、自分自身を縛っていくものとして、受け止めているし、そこから離れられないでいる状態になってしまうのではないでしょうか?

イエスさまが「だから言っておく」とおっしゃられるのは、労苦がなくなるとか、思い悩むことがなくなるとか、そういうことをおっしゃっておられるのではなくて、そういう労苦、思い悩むこと、辛いこと、悲しいこと、いろいろなことがある、けれども、それらのものがあるからと言って、あなたの命を奪うことにはならないということ、寿命に関わることではない、とおっしゃっておられるんです。

でも本当は辛いことや、悲しいことや、労苦と感じることはない方がいいです。なくなってほしいものです。しかしそれがあるということ、あるという意味は、私たちを苦しめるために、命を脅かすために、寿命に関わることとして与えられているのではなくて、「これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」天の父なる神さまから、いろいろな、その時々の思いはあるけれども、それらのものを、神さまは、あなたがたに必要だから、必要なことをご存じだから、与えられるし、あるということへと導こうとされるのです。同時に、与えておられる神さまであるイエスさまが、その中でも一緒に生きて下さる、一緒に生きて歩んでくださるという約束と、その事実も一緒に与えてくださるのです。

思い悩むとき、自分を苦しめるものに、縛られています。それにコントロールされているからです。もちろん、そうさせてしまう労苦、濁らせるものはなくなりません。その時々に、心を支配してしまう気持ちもなくなりません。でも、そんな私であっても、十字架の上で全部を引き受けて、赦して、愛してくださったイエスさまと一緒に生きることができる、思い悩むなとおっしゃってくださるお方が、一緒に生きて下さいます。

イエスさまは、今日を一緒に歩いてくださり、今日の労苦は、今日一緒に歩いてくださるイエスさまが全部背負ってくださいます。そして明日の労苦は、明日を造られ、明日を与えて下さるイエスさまが、明日を生きる私たちと一緒に、生きてくださいます。

説教要旨(6月27日)