2021年6月20日礼拝説教要旨

守るために(マタイ5:21~37) 松田聖一牧師

 

まあまあという曖昧な言葉があります。まあまあというのは、ことが起きても、その場をまあまあ治めていくことであり、交渉事であれば、玉虫色の決着と言ったこともなされます。いわゆる曖昧であり、白か黒か、イエスかノーかという区別ではなくて、何となく終わるのです。そういうまあまあと言うこと、思うこと、その性質は私たちにもありますね。時と内容によっては、意見を持っているのに、意見を言わない、出さない、何事もなく、波風立てないようにと言う思いが先立って、曖昧にしていく、流していくこと、流されていくこともあるでしょう。

そういう曖昧さが、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」といった昔の人が命じられたこと以外に山のようにあります。というのは、決まり事、律法、掟と呼ばれるものには、成文律法と言いまして、ちゃんと文章になっているものと、口伝律法という、口伝えで人から人へと伝えられてきたものがありました。後者のほうが、文章になっているものよりもその数ははるかに多くありました。口伝えで伝えられたものというのは、もともとあった文章になっている決まり事について、人がその時々に考えたり、感じたりしたことが、口になって出てくるものですから、増えていきます。

例えば、料理本には調味料がどれくらいかが、きちんと書いてあります。小さじ一杯とか、大さじ2杯とか、塩、砂糖、しょうゆはどうか・・・といったことが書いてあります。それを見ながらされる方がいらっしゃるでしょう。ただ時々、ありますのは、塩少々、というのがあります。この少々というのは、ご家庭によって、好みによって変わってきます。1杯とあっても、人によっては物足りないということで、2杯にしたり、いろいろ変わっていきます。それが人によって、変わりますから、こうだと書いてあることでも、幾通りも出てきます。幾通りも出てくるということは、それだけやり方、塩少々という書いてあることから、どんどん増えていきます。それは料理本だけのことではなくて、書いてある決まり事は、もちろん書いてありますが、でもそれを受け止めて、運用する側の人が、いろいろ解釈を加えたり、時には、自分の都合の良いように変えていくので、どんどん増えていきます。当然、そこにはお互いに矛盾する内容が出てくることもあるし、だからこそ曖昧になっていきます。まあまあが増えていきます。

それはイエスさまが言われる「あなたがたも聞いているとおり」とあるように、人を殺したら、その人は有罪の宣告を受けること、そのことが曖昧だということではなくて、それ以外のことについて、イエスさまは、曖昧にしようとしているのではないか?と問われます。人を殺したら、それは当然の刑罰を受けます。傷をつけたら、刑罰の対象になります。傷を負わせたり、ましては人の命を奪うようなことは、全く許されないことです。それは厳罰です。そこに曖昧さは全くありません。ではどこに曖昧さがあるのかというと、命に及ぶようなことをしなかったり、心の中のことであったり、口だけのことであれば、罰に相当しないように、曖昧にしようとする人間がいるということです。まあいいよね~これくらいだったらおとがめなしだよね~という、罪に問われないと解釈していいと思っていくこと、そんなつもりで言ったのではありませんという言い訳も含めて、曖昧にしようとしていませんかということを、イエスさまは問うておられるのです。そもそも言い訳があるということには、曖昧にしようということです。罪に問われないものだ、問わなくてもいいものだという解釈を入れようとします。自分にとっての良い解釈です。

それに対して、イエスさまは「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」という、大変厳しいことをおっしゃられるのです。ここで、「わたしは言っておく」とある言葉は、エゴーという「わたしはある」「わたしはあってあるもの」という、神さまご自身を現わされる時に使う非常に強いエゴーという言葉が、使われています。つまりイエスさまが「わたしは」言っておくと言われるとき、それは神さまご自身であること、神さまが神さまであることを明らかにしながら語られる時、使われる言葉を使って、私は、言っておくと、イエスさまは、腹を立てること、馬鹿と言う者、愚か者と言う者についても、決して曖昧にされないのです。

まあまあ、これくらいでいいのではないかということは、イエスさまには全くありません。それは「兄弟が自分に反感を持っている」こともそうです。そのことを「そこで思い出したなら」まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさいということも、「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」といったことも、27節以下の姦淫のことも、他の人の妻、奥さんに対する思いに対しても、曖昧にされないのは、曖昧がダメと言うこと以上に、まあまあという曖昧さが一つ一つに対して、何ら手立てを打たないということであるからです。つまり放っておくこと、そのままにしておくことが、その人にとっても、その人自身と周りの関係、お互いの関係にとっても、良くないからです。腹を立てることも、和解しないことも、自分に反感を持っていることといったことも、曖昧にしていたら、ずるずるずるずる引きずっていくのではないでしょうか?いつまでたっても、それに縛られて、それに心が支配されてしまうのではないでしょうか?そして、時間が経てば経つほど、どんどん大きくなっていくし、どんどん膨らんでいくのではないでしょうか?

ですから、イエスさまが、いろいろなことに対して、はっきりと白黒はっきりとさせようとするのは、そういう曖昧にしていることから、私たちを切り離そうとするためです。そこに縛られていたら、気持ちも、実際のいろいろなことも、そこに捕らえられている状態ですから、そのままだったら良くないと思っておられるからです。そこから切り離されて、今まで自分自身が縛られていたところからも離れることで、イエスさまの愛、イエスさまの赦しに向きを変え、そこに自分自身を降ろして、そしてイエスさまと共に歩みだせるように、第一歩を与えようとしておられるのではないでしょうか?

なぜならば、それらの曖昧にしようとしてしまうことであっても、イエスさまは決して曖昧にはされないからです。見て、内面で感じることも含めて、これらのことがどれほど大きなことかということを、イエスさまは誰よりも知っておられる上で、全部をイエスさまが十字架の上で、受けておられるのです。全部を受けられたので、全ての罪が、イエスさまと共に十字架につけられたのです。そして全部十字架の死と共に、滅ぼされ、葬られ、そしてイエスさまは甦られて、生きておられるのは、あなたがこんなことをしたことを、私は決して忘れませんとか、こんなことをしたあなたは赦されませんということではなくて、もう赦されました。もう赦しました、という事実が、イエスさまが甦られ、生きておられるということの中にあるのです。そういう神さまですから、どんなことも、最終的には全部任せていいのです。もちろん途中ではいろいろあります。いろいろ関係の中で起きます。でもそういうことも含めて、イエスさまに任せていい。委ねていけるのです。

出来事としても、関係の中でも、いろいろあります。人生いろいろです。そのいろいろある、そのことを一つ一つ取り上げて、ああでもない、こうでもないとしてしまいがちです。でもイエスさまは、そういういろいろある中で、「しかし、わたしは言っておく」囚われがちになるし、それが自分を支配してしまうことがあっても、それらを切り離そうとしてくださるのです。力強く切り離すために、えぐり出せとか、切って捨ててしまえとは、こんなことまでイエスさま、おっしゃられるのと思われるような言葉を使ってでも、そこから解放しようとしておられます。それはただ私たちをそれらのことから、守るためにです。そしてイエスさまからあなたはもう赦されています、愛されていますということ、そしてこのお方に任せていいんだということを本当に与えるためです。

説教要旨(6月20日)