「永遠の住み家」

加藤 智恵 牧師  コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節

 

私たちの肉体は唯ひと時の間、地上に存在するだけで、やがては滅びてしまいます。モーセの時代、カナンの地を目指して旅していたイスラエルの民は、幕屋で寝泊りしていました。私たちの肉体は幕屋のような物です。この世は仮の宿で、衣服を着ているような物です。私たちの本国は、天にある永遠の住み家です。

私たちはこの世にあって、重荷を負って苦しみ悶えています。しかし、私たちは死にたいから嘆き、悶えているのではありません。誰も生きたいと思っています。では、何故嘆き悶えているのでしょうか。それはこの世のひと時の幕屋のような体が、天から与えられる栄光の体をもって覆われたいからです。言い換えれば、死ぬべきものが命に呑み込まれることを願っているからです。命の源である主イエスが来られて、永遠の体を与えて下さることを願っているのです。

 この世の人は自己実現することを望み、それに向かって努力しています。その努力には教えられることがありますが、私たちは自己実現のために努力をするのではなく、主に喜ばれるために努力しているのです。死ぬべきものが命に呑み込まれてしまうことを可能にして下さるのは神です。主イエスも洗礼を受けられました。私たちも洗礼によって、死ぬべき身から罪赦されて命に生きる者となりました。そして、その保証として、聖霊を与えられました。

 私たちは世間一般の人たちのように、ただ、この目で見える世界だけに生きているのではなくて、目に見えない世界を信じています。その目に見えない天上の世界を理解させてくれるのは信仰です。主によって救われたクリスチャンは心から主を喜ばせ、主の栄光のみをひたすら願いながら生きるのです。

 人間はなにも正しいことを持ち合わせていません。パウロは、人は裁きの座に立たされる運命を持っていると語っています。この世の裁判には間違いがあっても、主の裁きには間違いはありません。その裁きを受けなければならないのです。

 私たちは信仰をもって、裁きの日に備えなければならないのです。ひたすらに主に喜ばれるために、信仰の道を歩み続けるのです。信仰をもって神の者とされたわたしたちが、どの様な歩みをしたかが問われるのです。

説教要旨(10月11日)