「平和に暮らす」  加藤 智恵牧師
ローマの信徒への手紙 12章9~21節
出エジプト記 22章20~26節

ローマの信徒への手紙 12章9~21節の小見出しには、「キリスト教的生活の規範」とあります。このように書かれると、私は何か縛られるような感じがしてしまい、ここをどのように福音として語ったらいいのだろうと思いました。しかしイエス・キリストの生涯がどのようであったかを思いながらこの規範を読むならば、それは福音であると思いました。
最初の規範は愛です。コリントの信徒への手紙13章に書かれている愛はなんでも包み込んでしまう感情でしたが、この部分の愛は、悪を憎み、善から離れずという一定の方向性を持つものです。一例として、兄弟愛が述べられています。この兄弟愛を行なうのは容易なことではなく、謙遜な気持ちと他者を認めて尊敬する気持ちが無ければ決して出来ることではありません。続く規範は希望と苦難と祈りの3つが結び合わされています。苦難に遭う時には祈りが大切です。たゆまず祈ることによって、苦難の中にあっても平安が与えられ、希望を持つことが出来るのです。
迫害する者のために祈るという規範は実行の難かしい所です。自分を絶えず敵視し、攻撃を加えて来る人のために祈ることは至難です。その場に立ち続けるならば、心の病にかかってしまいます。イエス様は罪ある人間、自分を裏切る兄弟のために死んでくださいました。これはイエス様が神から与えられた使命でした。イエス様が自分をののしる者の為に死なれなければ、人は救われることが出来ません。人を救うために十字架に掛かって死なれたのです。イエス様は「成し遂げられた」という言葉を残して死なれました。迫害する者のために祈ることは、なかなか出来ない事ですが、迫害する人に報復しないことはできます。『愛する人たち、復讐はわたしのすること、わたしが報復する』とあるように、自分で復讐せずに、神の怒りに任せなさい、と書いてあります。
教会における交わりと一致も大切です。教会の兄弟たちに対して、真の関心を持ち、兄弟が喜んでいる時には共に喜び、泣いている時には共に泣き、力になれる事があったらそれを実行することです。互いに思いを一つにし、自分を賢い者とうぬぼれることなく、身分の低い者の側に付くことが求められています。教会の中にあっては、皆が同じ兄弟姉妹なのです。そして善を行なって、全ての人と平和に暮らすことが神の願いなのです。
旧約の出エジプト記には人道的律法が書かれています。イスラエルの民と共にエジプトを出た人々の中に、イスラエルの民ではない寄留者がいました。けれども寄留者であるという理由で彼らを虐待したり、圧迫してはならない。なぜなら、イスラエルの民はエジプトでは寄留者だったからです。また、身寄りの無い寡婦や孤児は社会的に弱い立場にあります。そのような人たちを苦しめてはならない。もし、苦しみのあえぎを彼らが叫ぶなら、神は必ずその叫びを聞かれます。神の怒りは燃え上がり、寡婦や孤児を苦しめた者を剣で殺すと言われます。
私たちが神の前に、神の言われるキリスト教としての規範に心を留め、努力をし、旧約の人道的律法に従って、社会的弱者に親切にするならば、私たちの生活は安定し、互いに平和に過ごせるのではないでしょうか。

説教要旨(8月18日)