「主の栄光」   加藤智恵牧師
マタイによる福音書 28章16~20節   エゼキエル書 43章1~7a節

11人の弟子たちはエルサレムからガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登りました。そこはかつて山上の説教をされたガリラヤ湖畔の山です。弟子たちはそこで主イエスに出会いひれ伏しました。かつて主イエスが山上の説教を話された時は、12弟子たちは主イエスの傍に座っていましたが、復活の主イエスは死に勝利されたお方です。主イエスにひれ伏すということは、主イエスを神として礼拝することです。復活という事は、それほどに驚くべきことでした。しかし、主イエスは弟子たちに近づいて来て言われました。主イエスの方から弟子たちに近づいて来られたことによって、物理的な距離が次第に無くなるばかりか、心理的な距離も取り除かれようとしています。そして主イエスは、「わたしは天においても、地においても一切の権能を授けられた」と言われました。それだから、あなた方は行きなさい、と言われます。行くと言う言葉の中に、生きて活動しなさい、という躍動感が込められています。そして、「すべての民をわたしの弟子としなさい」と言われます。主イエスは全世界への宣教を命じられました。弟子とするとは、福音を信じさせ、悔い改めさせ、洗礼を授け、そして教えることを意味しています。
全世界に福音をもたらす力は、人間のものではありません。栄光の座に着かれた主イエス・キリストは信じる者と共に世の終りまで常にいて下さるのです。だから、私たちは主の示された事を聞き分けて、自分が自分がではなく、いつもいて下さる神様に従って行くことが大切です。東海教区総会の開会礼拝説教で宮本義弘議長は、自分が神様の前に立ってはいけない。また遅れてもならないと説教されました。教会員の高齢化、信徒の減少と教会財政の低下が心配されていますが、私たちは目を主に向ければ、主イエスは決して教会が消滅することなど有り得ない事を教えてくれています。
次にエゼキエル書から主の言葉を聞きたいと思います。エゼキエルは捕囚の地で、主の栄光がエルサレムの神殿を離れた夢を見ましたが、本日の聖書箇所では、主の栄光が主の神殿に戻ってくる幻を見せられます。そして神ご自身がこの神殿を神の住まいとなし、永久にイスラエルの人々の中に住まわれると語られる神の声を聞きます。主の栄光は東の方に向いている門から神殿に入ります。主の栄光が神殿を満たしていました。神殿は神の王座のあるべき場所です。そして神は神殿でご自分の民の間に永遠に住むと言われました。
神殿の中に主の栄光が宿っていなければ、そこには本当の神殿とはなりません。私たちは会堂建築を目指して、その歩みを進めて行こうとしています。会堂は主の栄光を現すためにふさわしい建物でなければならないと思います。そして私たちは会堂から主の栄光が去ることが決して無いように、心掛けなければならないと思います。聖書に聞き、主の御心を知り、祈り、従い、互いに愛し合う共同体を建て上げて行きたいと願います。

説教要旨(6月2日)