「人の子は安息日の主」 加藤智恵牧師

ルカによる福音書 6章1~11節  出エジプト記 20章8~11節

安息日の規定はモーセの十戒の四戒に書かれています。出エジプト記20章8~11節に「安息日を覚えて、聖なる日とせよ」とあります。
安息日は神と共に休む日です。神は天地創造の業を6日で行ない、その創造の業は甚だしく良かったのを見て、7日目には休まれました。安息日とは、神の創造の働きを賛美すると共に、神が造られた物を喜んで受ける日です。それは神が人に与えられた賜物ですから、イスラエルばかりでなく、全人類に与えられた物です。ところが、イスラエルの人々の中から、この安息日の意義と精神が何時とはなしに失われてゆきました。安息日を守るもろもろの規定が、人間の手によって造られました。これをしてはならない、というような消極的な規定が沢山造られました。そのため、人々は息をひそめて暮らすのが安息日だと理解していたのです。パウロは「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義があります」と言っています(フィリピ3:9)。そのように神中心の生活こそが信仰共同体にとって大切な事なのです。
本日の聖書箇所であるルカによる福音書には、主イエスがユダヤ人に安息日に2つの違反をしたと思われる行為を行なったことが書いてあります。最初は、安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたという事です。ファリサイ派のある人々は、「何故、あなたたちは安息日にしてはならない事をするのか」と言って、その行為を責めました。イエスは空腹だったダビデが祭司しか食べてはならない主の御前から取り下げたパンを食べた故事をあげました。そして彼らに「人の子は安息日の主である」と言われたのです。人の子とは主イエス自身の事です。ですから「私こそが救い主である」という事を言われたのです。第2には、別の安息日の出来事が書いてあります。会堂で、右手の萎えた人に対し、癒しの業を行なったという事です。主イエスは「安息日に律法で赦されているのは、善を行うことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と訊ねました。皆が黙っていたので、主イエスは一同を見渡して、右手の萎えた人に「手をのばしなさい」と言われました。主イエスのお言葉一つで、手の萎えた人は癒されたのです。安息日は、主の憐れみと恵みを賛美するための日です。

説教要旨(2月10日)