「宣教の開始」 加藤智恵牧師

ルカによる福音書 4章16~30節

 

イエス様はご自身がお育ちになったナザレの村に来て、安息日に会堂に入られました。会堂の管理者からイザヤ書が手渡され、61章を読まれました。読み終えると、イエス様は会堂の人の目がご自分に注がれているのを見て、「この聖書の言葉は、今日あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われました。つまりご自分が約束される救い主であることを宣言されたのです。

イエス様の話す恵み深い言葉に人々は驚き称賛しました。今まで彼らが法律の教師に教えられて来た事は、救いを獲得するためには、自力で行わなければならないということでした。しかし、イエス様の口からは、神がその民に与えようとしておられる恵みが語られたからです。しかし、彼らは本当にイエス様を理解してはいませんでした。もし本当にイエス様を理解していたならば、ペトロのように「主よ」と言って、イエス様の前に跪き神を崇めたはずです。幼いころからのイエス様を知っていた者にとっては、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉しか出てきませんでした。イエス様は優れた人物とは思えても、救い主とは思えませんでした。こうした彼らの思いに対して、イエス様は預言者エリヤとエリシャを例としてあげます。二人は神の預言者として北イスラエルに遣わされますが、イスラエルの人々は彼らの言葉に耳を傾けず、彼らを尊ぼうともしませんでした。北イスラエルに大飢饉が襲ったとき、イスラエルには多くのやもめがいて困っていましたが、エリヤは異邦人であるシドンのサレプタに住むやもめに遣わされ、その親子を養うことになりました。また、イスラエルには多くの重い皮膚病を患っている人がいましたが、エリシャはシリヤ人の将軍ナオマンの重い皮膚病だけを癒されました。こうして神の救いは、イスラエルの上を通り過ぎてしまったのです。

「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は自分を受け入れたもの、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」(ヨハネによる福音書1:11~12)と書いてあります。イエス様の語る救いの言葉は、イスラエルの選民意識によって阻まれ、救いはむしろ異邦人へと伝えられていく傾向がすでにこの時点からあったことが示されます。今もイエス様は恵みに満ちた威厳を持って、私たちを招いておられます。イエス様の前にひれ伏す謙遜な心を、忘れてはならないと言っています。

説教要旨(1月20日)