「受難の予告」 加藤 智恵牧師
ヨハネによる福音書 6章60~70節
イエス様がカファルナウムの会堂で教えておられた言葉を聞いて、多くの弟子たちはつまずきを覚えました。この様な言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまた、その人の内にいる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに、死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」この言葉だけを聞くとドキッとします。このわたしの肉を食べ、わたしの血を飲むという言葉は、イエス様の死後の聖餐の意味を共にみることが出来ます。けれどユダヤ人にとって、血を飲むことは禁じられていました。主イエスの肉を食べるなどという言葉は、ユダヤ人には全くおかしな言葉でした。
イエス様は神様から示された言葉を話されたために、弟子たちはつまずいたのです。これは人間イエスにとってはとても辛いことでした。人間の顔色を見て人々が喜ぶことを話す方が主イエスにとっては、心地よいものであったかもしれません。しかし、主イエスは神の言葉を語ることによって、誰が信じないか、また、誰が自分を裏切るかを最初から知っておられて話されたのです。神の言葉を語ることが、どれ程勇気がいるか、そして人々が離れて行くことを知って話されたということは辛いことです。主イエスは真実を話して、ご自分は十字架に掛からなければならない事を知っておられたのです。主イエスの生涯は、ご自分が十字架に付けられて、罪ある人間を救うためでした。
多くの弟子たちは離れ去って行きました。主イエスは12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられました。シモンペトロは「主よ、私たちは誰の所にいきましょうか。あなたは永遠の命の事葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であるとわたしたちは信じ、また知っています」と答えます。12人の弟子たちは主イエスが直接に選んだ弟子であったので、ほかの弟子たちが去ってしまっても、決して主イエスから離れようとはしませんでした。しかし、12人の中には、イエスを裏切るユダが入っていました。何故ユダを選ばれたのかと思います。内部事情にくわしい裏切るユダが12弟子の中にいたから、主イエスを敵に引き渡すことができたのです。私たちには神の御心が人間の思いを越えていることを知り苦しみます。
けれどここに神のご計画である、イエスが罪人の為に十字架に掛かって死なれ、人類の救い主となられる道があるのです。12弟子は完全無欠だったのではありません。イエス様が十字架に掛かり、復活されて聖霊を受けた時に、弟子たちは変えられて、命を惜しむことなく、神の言葉を語ったのです。上からの力に覆われなければ、変えられなかったのです。
一人主イエスは十字架の道を歩まれました。40日40夜、断食した後のサタンの誘惑に勝利された主イエスは、十字架の上でも完全に勝利され「成し遂げられた」と言って、息を引き取られたのです。