2026年11月1日 永眠者記念礼拝要旨
いのちの輝き(ルカ11:33~41)
松田聖一牧師
京都に、深夜喫茶のお店があります。このお店は京都大学の1人の学生さんが、開店したお店で、夜8時から翌日の午前3時まで営業の喫茶店です。その名前ひらがなで「しんしんしん」。しんしんしん、町が寝静まった夜中に開けると言う意味があるのでしょうか?その名前の由来は分かりませんが、そのお店は、コロナ禍で開店したお店です。今から6年前のことになりますが、当時は、外に出かけるとか、人に会うことや、教会であれば讃美歌を歌うことも、はばかられたことでしたね。コロナ禍というのは、そういう日常でしたが、そんな中で、店、しんしんしんを開け続けていました。ですので、夜、周りのお店が真っ暗な中、この「しんしんしん」だけは、明かりがともっているんです。そこに来られたお客さんのお一人も、真っ暗な中、道を歩いていた時、ただ一つだけ明かりがついていたので、自然に足が向き、中に入りました。とても気に入られたようで、何度も足を運び、気が付けば、そのお店のマスターの方と、結婚されて、今は、ご夫婦となっています。人生どこで、どんな出会いがあるか、分からないものだなと思いますが、そのきっかけは、辺りが真っ暗な中、ただ一つだけ明かりがともっていたからでした。
ともし火とは、そういう光です。決して明るくはありません。字も読めないほど、暗いほのかな明かりです。でも周りが真っ暗な中では、どんなに小さな光であっても、むしろ周りが暗ければ暗いほど、明るく輝いているのが見えるんです。
そのともし火を置く場所について、イエスさまは、「それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。」すなわち、隠れた場所や、約8,7リットルの升の下に置く者はいないとおっしゃるのは、穴蔵の中や、升の下に、ともし火を置くと、ともし火が消えてしまうからです。それには理由があります。まずは穴蔵の中のことですが、穴蔵の大きさにもよりますが、穴蔵の中にともし火を置くと、ともし火から、二酸化炭素が出ます。二酸化炭素というのは、酸素よりも重たい気体ですから、そのままにしておくと、穴蔵の中に二酸化炭素がたまってしまい、ともし火が消えてしまいます。また升も、約8,7リットルの升でモディオス升と呼ばれる量り升のことですが、その下に、ともし火を置くと、その下敷きになってしまいますから、ともし火を燃やすための酸素が、遮断されてしまいます。例えば、火を消す時に、水をかけて消す方法と、燃えているその場所に、ピンポイントで、布などでたたく方法があります。大きな火ですと、それは難しいですが、ある程度の大きさまでは、火元を布などでたたくと、その瞬間、空気、酸素と遮断されますから、火は消えるんです。それと同じようなことが、升の下にともし火を置くということですから、火は消えてしまうんです。その結果、ともし火は、本来24時間ともし続けるものですから、ともし火ではなくなってしまいます。だからこそ、途中で消えてしまわないように、「升の下に置く者はいない」ということになるんです。
また、この「升の下に置く者はいない」という言葉を、訳、翻訳という視点で見るのも、興味深いです。というのは、塚本虎二という学者でいらっしゃった方ですが、こう訳しました。「枡をかぶせる者はいない」すなわち、編んだ籠で作った枡を、ともし火にかぶせて、ともし火を覆ってしまう者はいないということなのですが、確かに籠で編んだ枡をかぶせてしまうと、ともし火本来の、人や、周りを照らすという役割を果たすことができません。だから、籠で覆われて見えなくなってしまうようなことをする者はいない、すなわち「置く者はいない」ということになるんです。
さて、この「燭台」とは、神さまを礼拝する場所である、幕屋の中にあるものです。その材料や、作り方について、旧約聖書の民数記というところに、こうあります。「金の打ち出し作りで、その台座から花弁まで同じ打ち出し作りであった」。ということは、この燭台は、金メッキや、金箔で覆われたものではなくて、金そのもので作られているということなんです。台座から花弁、はなびらの装飾まで、メッキがはがれれば、別のものが出て来るというのではなくて、どこをひっくり返しても、出て来るのは1つの同じ純粋な金であり、表裏のない燭台がそこにあるということなんです。
その燭台の上に、ともし火を置く時、その金の燭台も、ともし火に照らされて、まさに黄金色に輝きます。それはまた神さまがそこにおられ、神さまが光であり、その光で礼拝の場を照らしているということでもあるんです。そこに「入って来る人」がいるということは、神さまを礼拝し、礼拝を守り、礼拝をささげるために入って来る人がいると言うことと同時に、神さまが、いらっしゃいと人を招いて下さっているということなんです。つまり礼拝の基本、礼拝を礼拝たらしめるものは、神さまが礼拝に招いて下さっているという、神さまの招きがあるからこそ、礼拝となっているんです。
それが、礼拝の意味と目的です。今日は永眠者記念礼拝ですが、この礼拝も含めて、一般的に礼拝というと、礼拝に行くとか、出かけるとか、詣でるという言い方があります。その通り、礼拝に行くと言う時、家から一歩出て教会に出かけますね。そのための私たちの行動があります。具体的には車を運転して来たとか、車で送ってもらったとか、あるいは他の手段を使ったりとか、いろいろと教会の礼拝に出かけるための行為があります。その結果、今ここに来ています。しかしそれ以上に、今ここで神さまが招いて下さった礼拝を守り、ささげているのは、礼拝がサービスであるということからも、確認できるんです。というのは日曜日の礼拝のことをサンデーサービスとも言いますね。サービスというと、仕えるとか、給仕するとか、お世話するという意味がありますが、そのサービスを、誰が誰にするのか?というと、私たちが神さまにサービスすると言う意味で、サービス、礼拝があるのではなくて、神さまが、私たちにサービスしてくださっているからこそ、サービス、礼拝となるんです。その礼拝を通して、神さまである光が、入ってくる人に見えるように、してくださるということを、神さまは、聖書の言葉、聖書の御言葉を通して、して下さるんです。
聖書の言葉は、この1冊に収められています。言葉ばかりで、絵もイラストもありませんが、その言葉の中から、時々教会の表看板に記されているのを目にすることがあります。ある時、こんな言葉がありました。「すべて重荷を負うて、苦労している者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」この意味は、神さまであるイエスさまが、どんなに苦しい中にあっても、休ませて下さる、安らぎを与えて下さると言う言葉なのですが、その言葉が、通りすがりの女子高校生の一団の目に触れたのでしょう。その時、1人の女の子がこう言いました。「えらっそ!」それはどういうことかというと、「休ませてあげよう」という言葉を、上から目線のように、彼女は受け取ったからです。確かにそう言われれば、「休ませてあげよう」を、それだけ見れば、本当に上から目線、休んでいって下さいではなくて、良かったら休みませんかでもなく、「休ませてあげよう」ですから、一体何様という感覚になったんだと思います。もちろん、「休ませてあげよう」は、イエスさまの上から目線の言葉ではなくて、いらっしゃいと招いて下さっている言葉ですから、それまでどんなに教会に行こうと誘われても、「わたしは絶対に行かない」と豪語していた方が、「休ませてあげよう」との言葉に触れた時、すっと教会に入られたと言うこともあるんです。そんないろいろある聖書の言葉の説き明かしが、説教と呼ばれますが、この説教についても、こんな反応があります。「教会に来られる皆さんはえらいですね~叱られに来るんですよね~説教をされるところに行くんだから偉いと思いますよ~」説教を叱られると受け取っておられる方は、案外多いんです。確かに、それだけを見れば、叱られるとか、とがめられ、何が良くなかったのか?どうすればよかったのか?などなど、そういう性質と内容があります。もちろん教会の礼拝における説教の意味は、神さまが何を願い、何を伝えたいかを、説教者が説き明かすと言う意味で、説教ですから、叱られに来ると言った意味とは、もちろん違います。でも、あながち外れていない側面もあるのではないでしょうか?というのは、神さまが聖書の言葉を通して語られる時、神さまである「光が見えるように」と言うことと同時に、語られた言葉によって、自分自身の姿、今どんな姿であるか?どんな私であるか?ということが、外側だけではなくて、内面も照らされるからです。それは、自分の思っていること、感じていることも全部神さまに知られているということですので、自分にとって都合がいいことは、どうぞどうぞですが、その反対の内容は、明らかにしてほしくない、勘弁して~とか、それはやめて…という思いになるのではないでしょうか?
それが、礼拝を通して、聖書を通して、私たちに神さまが、光そのものである神さまを「見えるように」して下さった時に、私たちに起こる出来事なんです。その時、その姿を、私たちが本当に見ようとしているのか?時と場合によっては、嫌だと拒んだり、そういう自分自身であることを認めたくないといった、いろいろなことが出て来るんです。そのことをイエスさまは、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」つまり、燭台の上に置くともし火、光である神さまが照らされる時、あなたの体、体のともし火としての目、また全身が、明るいのか、あるいは暗いのか、澄んでいるのか、濁っているのか、またあなたの中にある火がどうなっているのか?ついているのか?消えているのか?という変化があることも、明らかにされるんです。
そういう意味で「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」は、あなたの中のことを、自分の問題として、調べるようにと、返して下さっている言葉なんです。そのために、神さまは、神さまである光で、その人自身を照らし、顔も、体も、外側だけではなく、内面にあるすべてのことを、照らされるんです。その時、えらっそ!も出て来るし、叱られに来るも、出て来るんです。その反応の内容は正しくないこともあります。しかし反応が出ると言うのは、良い証拠なんです。なぜなら、神さまに知られているように、私は、私自身を知ることができたからです。そして見ることによって、神さまの前にあるあるがままの私自身も見ることができたからです。それは私たちに対しても、です。神さまは聖書の言葉を通して、自分自身がどういう人間であるか?外側だけではなく、内側にも光が射し込み、その姿を明らかにされます。その時、その姿を、受け入れるか、どうするか?逃げようとするのか?避けようとするのか?といった中で、私たち自身も、目も、体も、心も、その時々の自分を見ているんです。場合によっては、自分を見過ぎてしまって、自分はダメだダメだと、自分を否定してしまいそうになるかもしれません。自分の情けなさ、自分の不甲斐なさに、打ちのめされてしまうこともあるでしょう。あの時、そんなことをしなければよかったとか、なぜ自分に、なのかと問い詰めてしまうこともあった、こんな私だから駄目なんだと、自分を責めてしまうこともあるでしょう。でもそれは、自分をしっかりと見ている証拠です。見ているからこそ、自分の本当の姿に、気づかされ、時に愕然としてしまうんです。しかし、それで終わりではありません。イエスさまは、その時の、全身を見て下さり、照らしてくださっています。そしてその光、ともし火が、黄金の金に照らされて、どんな小さな光でも、ますます大きく輝きながら、その光で、私たちを包んでくださるんです。自分のダメなところも、その光に覆われていくんです。だからそういう自分を隠そうとか、消そうとしなくてもいいんです。神さまは、消えることのないともしびの光で、包み、覆って下さるんです。
そのことが、37節から41節に出て来る、ファリサイ派と呼ばれる人と、イエスさまとの対話においても、現れているんです。ここでもポイントも、人の外側と内側のことです。そのことをイエスさまは「杯や皿の外側は奇麗にするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」とか、「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」と、はっきりおっしゃっている通り、神さまの言葉に照らされた時には、外側だけではなく、内側も照らします。そして、その内側をどう受け止め、何を見るのか?によって、外側にもそれが出て来るんです。その時出て来るものは、様々です。いろんなものが出て来るでしょう。しかし神さまは、それらのものを抱えながらも、時には自分で蓋をしようとしても、それをはるかに越えた神さまの光で、神さまが照らし、受け入れ、包んでくださるんです。
「たったひとつのたからもの」ある会社のコマーシャルで全国にも放映された一人の6歳で神さまのもとに召された男の子と、そのご家族のことが、本にまとめられています。その中で、男の子、秋雪くんという子が、亡くなられた後、お母さんが、ある医学雑誌に載っていた言葉に、支えられていたことについての下りがあります。
「人の幸せは、命の長さではないのです」これは、ある医学雑誌に載っていた小児心臓病専門医の言葉である。私はこの言葉にずっと支えられてきた。そして、生まれてすぐに短命であるとの宣告を受けた秋雪の人生を堂々と肯定してもらった気がしている。得体のしれない将来のことをあれこれ悩む前に、今、このときの1分1秒を秋雪が楽しく過ごすことができるように。それだけを願っていたから。1日の生活の中で何度笑った?何が楽しかった?と、夜眠る前に1つでも2つでもほほえみと共に思い出せることがあれば、人生それで十分だ。秋雪と過ごした6年2か月プラス10カ月(お腹の中にいた時期)、毎日そんなふうに思っていた。「生きる」ことは大変だし、辛いこともたくさんあるけれど、それ以上に、幸せに気づかされる瞬間は毎日の生活の中にあふれていた。朝、目覚めた時、秋雪の穏やかな寝息に、上下する胸の動きにほっとする。今日も秋雪に会えた・・・と。ごはんを食べる、トイレに行く、怒る、泣く、笑う、眠る…その砂の数ほど、星の数ほどの幸せのかけらを、秋雪はいつも握っていた。そして常に全力疾走していた秋雪の命が「精一杯」を教えてくれた。秋雪は、私たちに抱えきれないくらいたくさんの幸せを残してくれた。これからの人生を、十分支えてくれるほどの大きな大きな幸せを。でも、秋雪にとって6年間の人生は、どんなものだったのだろうか。思い切り遊べない悲しさもあっただろう。体が苦しくて、辛い気持ちでいっぱいだった時もあっただろう。それでも、自分の体の限界を探りながら、毎日の生活を楽しむことにも一生懸命だった。きっと私が感じた幸せと同じくらいの幸せな気持ちで、秋雪が短い人生を謳歌(おうか)していたと信じている。だって秋雪はあんなに頑張ったのだから。
人の幸せは、命の長さではないのです。神さまが私たちに与えて下さった命の中で、生きると言うことの中で、たといどんなことであっても、すべてを照らしながら、受け入れ、包み込んで下さいます。その神さまの光に照らされて、一人の人は、どんなに小さな命も、どんなに表裏があっても、輝いているんです。その輝きは、今もなお、神さまと共にあるそのところで、消えてなくなることは決してありません。その輝きはますます大きくなり、残された私たちにも、神さまが招いて下さった礼拝で、こんなに輝いているんだということを、私たちにも見せてくださっています。そしていつも先に召された方々は、残された者に、こんなに輝いているよ~ということを、礼拝の度毎に見せてくれているんです。
祈りましょう。
