2026年9月20日礼拝 説教要旨

準備の方向(マルコ14:10~25)

松田聖一牧師

 

ボタンの掛け違いということがありますね。それは服などにあるボタンをかけているうちに、合わなくなってしまうことを指しますが、そのことに気付いた時、あらあらと思いながら、掛け違ったところに戻って、もう一度ボタンを外して、かけ直しますね。でも、最初から掛け違おうと思っているわけではなくて、ボタンをかけているうちに、どこかで間違ってしまい、そのまま掛け違いになってしまうんです。それは、ボタンだけのことではありません。私たちにとって、思っていたことをやろうとした時にも、あるいは自分の人生においても、掛け違いが起こりますね。その時、こんなはずじゃなかったのに…とか、どうしてこんなことに…と言った思いにもなるでしょう。

 

その掛け違いは弟子の一人ユダにも起きているんです。というのは、ユダには、「イスカリオテ」という名前も付けられていますが、このイスカリオテと言う言葉の意味は、神さまに感謝する、神さまに感謝をささげるということなんです。ということは、ユダはそもそも、神さまに感謝し、感謝をささげるユダなんです。ところが、今や、神さまに感謝をするどころか、イエスさまを裏切り、しかもお金でイエスさまを、祭司長たちに売るという人身売買を行い、イエスさまを十字架につけていくという、弟子として、あるまじき行為をする、そういうユダに変わってしまっています。ですから、イスカリオテという名前に値しませんので、イスカリオテを省いたらいいのではないかと思います。ところが、イスカリオテが落ちてはいない、イスカリオテのユダのままなんです。それは、どんなにイエスさまを祭司長たちに引き渡し、イエスさまを裏切る行為をしようとしていても、それでも神さまであるイエスさまにとっては、ユダは、なおも神さまに感謝するユダ、神さまに感謝をささげるユダだからです。しかし現実は、その名前の通りではなく、ボタンの掛け違いが起きているんです。

 

どうしてそうなってしまったのでしょうか?それは、この時のユダの感謝の向かう方向が、神さまから、祭司長たちや、お金に変わってしまったからではないでしょうか?それは目に見えないものから、目に見えるものに変わってしまったということでもあるでしょう。

 

さらには、お金への感謝に繋がる出来事として、聖書の他のところでは、ユダが、「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」ということと、「彼は盗人」だとも、書かれています。つまり、ユダは、確かに信用されて、金入れを預かって、イエスさまのされる神さまの働きのために、お金を管理していた中で、いつの頃からか、何に使っていたのかは分かりませんが、お金を使い込んでしまい、預かっていたお金が足りなくなっていたんです。その結果、今で言う、使途不明金が出てしまっていたと思います。そのことを、祭司長たちが知っていたかどうかは分かりませんが、ユダにとっては、そのお金の穴埋めをしなければならない、そのために必要なお金を求めていたところに、祭司長たちがなにかしら、かんできて、イエスさまを自分たちに引き渡したら、それなりのものをするという、約束まではいきませんが、そういうことを取り付けていたと思います。だから祭司長から金を与える約束をもらえた時、ユダにとっては、そのお金が、大きな助けになりましたし、そのお金を与えると約束した祭司長たちに、ユダの感謝が向いてしまうんです。同時に、イエスさまを引き渡そうとしてやって来たユダを、祭司長たちは、それを聞いて喜び、とありますが、この喜びは、「おめでとう」とか「ようこそ」という意味ですから、祭司長たちは、ユダを歓迎して、自分たちの仲間として受け入れていくんです。それもまた祭司長たちへの感謝になっていくんです。

 

そこから、「そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」イエスさまを、祭司長たちに引き渡すために、「どうすれば折よく」丁度良い時が、いつなのか?どのようにしたらいいか、をユダは、捜し求め、得ようと努めていた、欲しがっていた、とあるほどに、ますますとんでもない方向へと大きくなっていくんです。

 

こうしたユダの裏切りには、単にイエスさまを裏切ったということだけがあるのではなくて、感謝が、神さまへの感謝ではなくて、神さま以外の方向に向かって行ったことに始まるんです。その結果、イスカリオテという与えられた名前からも離れ、イエスさまをお金で売り渡すと言う人身売買となり、最後は殺してしまうという、とんでもないことへと暴走し、拡大していくのではないでしょうか?

 

今、戦が世界各地で起きています。そういう戦争状態にあるどの国においても、兵士たちが足りていません。自分の国の若者を徴兵できているかというと、そうでもないんです。でも足りませんから、どこかからか集めて来ないといけません。そこで今、その国以外の、小さな、貧しい国の若者に向けて、表向きは、出稼ぎ労働者希望という、就職あっせんをしていくんです。表示されている給与はかなりいいです。ですので、生活も大変ですし、ご家族を養わないといけないという、背に腹は代えられないいろいろな事情を抱えておられる方々は、応募していくんです。しかし実際には、斡旋業者は、表向きは、出稼ぎ労働と言いながら、実際には言っている内容とは全然違う、戦場に兵士として斡旋していくんです。その結果、出稼ぎのつもりで応募した人たちは、労働にではなく、戦場に運ばれていくんです。そして約束していた給与も十分に支払われることなく、もののように扱われ、そこで亡くなっていかれる方々が、未だに続いています。しかし、そういうことが起きていても、なおも斡旋する人、戦場に兵士として送り込もうとする人がいて、お金のやり取りがあり、お金を渡す人、お金をもらえる人といった、取引が行われています。その時お互いに、お金を儲けていますから、お互いが、お金に、また儲けさせてくれた相手に、ありがとうが向かっていくんです。

 

そこにあるものは、感謝なんです。感謝そのものは悪いことではありません。素晴らしいことです。しかし、その感謝、ありがとうが、自分たちだけのために、利益を得ることだけに、向けられてしまうと、人を人とも思わなくなるんです。それはまた「神を愛すること」「自分を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」すなわち神さまを大切にすること、自分を大切にすること、隣人を自分のように大切にすることからも、離れてしまうことなんです。

 

これが罪の姿です。神さまが語り示される罪とは、犯罪を犯したということだけを指していません。人間の根っこにある神さまから離れ、神さまに逆らおうとすること、言うことを聞こうとしない姿を、指すんです。たとい、どんなに感謝することはあっても、神さまに向かっていないところでの、感謝は、人をもののように、利用できたことへの感謝、これでお金が儲かる事への感謝に向かっているんです。ですから、その感謝は、神さまが与え、指し示す感謝ではありません。

 

じゃあ、イエスさまは、そのままでいいと思っておられるのかというと、決してそうではありません。何とかして、神さまに向かうことができるように、感謝も、大切にすることも、神さまに向かっていけるようにと、心から願っておられるんです。そのために、あれこれといろんな方法を、時を用いて、神さまのもとに向きを変えるようにと、諦めることなく、そっちではなく、こっちだと御言葉を通して、語り続けておられるんです。では、そのことに、いつも、すぐに気付けるのか?というと、語り続けてくださっているにもかかわらず、気づけないことが多いのではないでしょうか?

 

ある聖書を学ぶ学校に、入学されました。そして授業が始まって、学んでおられたんですが、授業の内容になかなかついていけませんでした。先生が言っておられる内容も分からないので、集中できずにいました。それでどうしたかという、授業中に、思わず、窓の外に見える、山を見ていました。すると、その時、先生からこんな声がありました。「〇〇さん、どこ見てる?」注意されて、それでハッとさせられたんですが、この出来事、「どこ見てる?」と注意されたことを、授業の内容よりも、そちらの方を、何十年経っても覚えておられました。それほどに印象に残ったということかもしれませんが、ああ、あの時、先生は、山をぼうっと見ていた私をじっと見てくれていたんだ~そして気づかせてくださったんだと、感謝しながら、振り返っておられました。

 

そういうことは、私たちにもあります。イエスさまのおっしゃっておられる内容を、理解出来ないこともあります。他のことを考えてしまったり、自分のやりたいことにだけ、熱中してしまうこともあります。イエスさまは、そのことをちゃんと見ておられるんです。どこを向いているかも、分かっておられるんです。分かっておられる上で、イエスさまは、「どこ見てる?」どこを向いているのか?神さまに向いているのか?いや、神さま以外の方向に向いてしまっているのではないか?と、問いかけ、神さまの方に向くように、目に見えるものではなく、見えない神さまに向かうようにと、いつも声を掛け続けておられるんです。

 

その1つの言葉が、二人の弟子に語られたこの言葉です。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と尋ねています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」この言葉に、二人の弟子たちは従って行くんです。ただ喜んで言われた通りにしたのかというと、そうでもありません。なぜかというと、「都へ行きなさい」というこの言葉を見ると、都へ帰れ、退け、去れ!という命令なんです。命令ということは、絶対に守らなければならないものですが、同時に、命令されないと、動かない、動きたくない、が、この二人にはあったのではないでしょうか?それはイエスさまが、おっしゃられることは、二人にとっては、まだ見ていないことですし、その通りかどうかも、見えませんから、分かりません。そういう時に、優しく、丁寧に、言ってくれないか?では、なかなか動こうとはしないのではないでしょうか?むしろ、「行きなさい」と命令されると、行かざるを得ないという気持ちにもなると思います。だからこそ、イエスさまは、行きたくなかったら、帰りたくなかったから、動きたくないんだったら、そのままでいいよではなくて、無理やりにでも、イエスさまの言葉、神さまの言葉に向かっていくようにと、動かして下さるんです。そのために、水がめを運んでいる男に出会うから、その人について行きなさいとか、その人についていくと、今度は家の主人にも会えること、二階の広間を見せてくれること、といったこれから起こることを、具体的に話されるんです。

 

具体的に言われるということは、人を動かす1つの方法でもあります。言っていることが、漠然としていたら、なかなか人って動かないし、どう動いていいか分からない面があると思います。しかしイエスさまは、命令しながらも、具体的に、こうなったら、こうなる、とお示しくださっているんです。このことは、車のナビとよく似ていますね。初めてのところに行く時、目的地を入力して、スタートします。そうすると、右に曲がれとか、左に行けとか、何メートル先には、どうとかこうとか、いろいろしゃべってくれます。その案内に従って行くと、ナビが言っていた通りのことが、目の前にあります。ところが、ナビの言う通りにできない時には、ナビは、何度も何度も、指定した方向に戻そう戻そうとするんです。そういう具体的だから、動こうとするんです。だから2人は、イエスさまがおっしゃっれた通りに行けるようになるのではないでしょうか?

 

ただ2人の弟子にとって、イエスさまが行きなさいと言われた時、都に行くということに、喜んで、というわけではなかったでしょう。それでも、2人は、イエスさまの言葉に向かって行った時、その結果、この目で見ることが出来たのではないでしょうか?その具体的なことが、二人の出会った男の人は、水がめを運んでいることを見ることなんです。そして「その人について行きなさい」との通り、男の人は、2人が付いてくることを、受け入れているんです。そして「その人が入って行く家の主人」のところにも、この2人は、ついていけるんです。そして主人にも会うことができましたし、主人に、先生が「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています、ということも、伝えることができたんです。そしてそのイエスさまの言葉を、主人は、ちゃんと受け止めて、二階の広間を見せてくれるんです。

 

でもイエスさまは、2人が出会う男の人に、また主人に直接言ってはいません。しかし、イエスさまが2人に言われたことを、その通りに受け取り、イエスさまの言葉をそのまま受け取って、進んで行った時、イエスさまから直接言われていない男の人も、家の主人も、イエスさまのおっしゃられた通りに、なっていくんです。

 

一方で、弟子たちは反対です。それは、過越しの食事、これは神さまの赦しを意味しますが、その食事の時、イエスさまは、私を裏切ろうとしている、とはっきりおっしゃいます。それは、ユダのことを、具体的に指していますが、しかし実際には、ユダ以外の弟子たちも、イエスさまを裏切っていくんです。ですから、「私を裏切ろうとしている」という言葉は、弟子たちにその通りになっていく言葉です。ところが、その言葉を、聞いた12人の弟子たちは、全員お互いに、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたというのは、その言葉を受け入れようとしない姿なんです。しかしその受け入れようとしない言葉、姿もまた用いられて、イエスさまが十字架に向かって行くのは、その十字架に於いて現わされた神さまの赦しが、神さまの約束の言葉通りになるようにです。その結果、神さまの赦しが、本当にその通りになっているからこそ、イエスさまは、パンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」弟子たちがイエスさまを裏切り、離れて行ってしまうことを、分かっておられても、イエスさまは、神さまの赦しを与えてくださるんです。その赦しを、「取りなさい」受け取りなさいと、おっしゃり、彼らにお渡しになったんです。そして彼らも、イエスさまを裏切る彼らでありながらも、その赦しを受け取ったんです。

 

そういう意味で、ボタンの掛け違い、は、ユダだけではなく、弟子たちにおいても、また私たちにおいても、感謝の向かう方向、神さまから外れ、離れ、目に見えるものに向かって行くことです。でも本当はそうではありません。神さまに向かって行くことです。しかし、また、だからこそ、イエスさまは、掛け間違ったボタンを、神さまの赦しの中で、元の順番に戻そうとしておられるんです。そのための赦しを、「取りなさい」と、与え続けておられるんです。その時、神さまの赦しを、じっと待っているだけでは、取りなさいに答えたことにはなりませんね。取りなさいとおっしゃった、イエスさまに向かっていないと、取り損ねてしまうこともあるでしょう。また赦しを受け取っても、イエスさまから離れ、イエスさまに向かおうとしないことが、繰り返されていくこともあるでしょう。それでも、イエスさまは、神さまの赦しを用意し、「取りなさい」と、与え続けておられるんです。

 

祈りましょう。

説教要旨(9月20日)準備の方向(マルコ14:10~25)