2026年5月10日礼拝 説教要旨

少しずつ(ヨハネ16:12~24)

松田聖一牧師

 

私たちにとって、言いたいことが、たくさんあっても、言えないこと、ここまで出かかっていても、それでも言えないことがありますね。それは、本音が出せないということでもありますから、内容によっては、辛くて、苦しくて、我慢を強いられることかもしれません。その時、理由はいろいろあると思います。本当のことを、言ってしまうと、逆に、相手を追い込んでしまうのではないか?相手を落ち込ませ、悲しませてしまうのではないか?と同時に、そこまで言ってしまうと、逆に相手が切れてしまって、自分が傷ついて、嫌な思いをすることになるのではないか?とあれこれ考えてしまい、ますます言えなくなることもあるでしょう。他にもいろいろあると思いますが、共通していることは、自分が言おうとしている相手のことを、思っているということと、自分のことも考えてしまうということではないでしょうか?だからもやもやしますし、内容によって、悶々としてしまうと思います。

 

言いたいのに、言えない…このことは、別の見方をすれば、私たちの中に、お互いに全く正反対の思い、お互いに相反する思いが同居しているということです。つまり、自分の中に、あっちとこっち、プラスとマイナスといった、方向性の違うものが一緒にあるということですから、これは大変ですし、大きなストレスです。

 

イエスさまにおいてもそうです。というのは、弟子たちにおっしゃられた「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、あなたがたには理解できない」を見ると、イエスさまの中には、弟子たちに言いたいことはたくさんあるのに、弟子たちに、それが言えないでいるということ、理解してほしいのに、理解出来ないという弟子たちであるという、イエスさまの思いと実際とが、全く正反対になっているからです。それでもイエスさまは、弟子たちに「理解できない」と、弟子たちの本当の姿を、はっきり指し示しながら、本当は、たくさん言っておきたいのに、それが出来ないでいる、イエスさまの苦しさ、矛盾を、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、あなたがたには理解できない」に現わしておられるのではないでしょうか?

 

そして、その矛盾は、イエスさまご自身にも向けられていきます。それは、ご自分が罪なき、神さまであるにも関わらず、また十字架につけられるような罪は全くないのに、捕らえられ、鞭打たれ、周りからは侮辱され、十字架につけろと言われ、十字架に手と足を釘で打ち付けられ、十字架に張りつけされ、死んでしまうという、いわゆる冤罪で、殺されてしまうということは、神さまとしてありえない、神さまであるということと、相反する矛盾そのものです。またその時、弟子たちが、イエスさまから離れて行ってしまうこと、弟子の一人ペテロは、イエスさまを知らないと3度も言ってしまうこと、ユダがイエスさまをお金で売ってしまうことも、イエスさまにとって、3年の間、手塩にかけて育てて来た弟子たちから受ける、あり得ないほどの矛盾です。同時に、弟子たちにとっても、弟子としての本来の姿とは、まるで正反対のことをしていくのですから、弟子であることからも、全く相反し、大いに矛盾する出来事です。

 

そういう弟子たちを、イエスさまは、責めたり、ないがしろにしているのではありません。むしろ弟子たちの側に立って、弟子たち自身が、自分達のしていること、これからしてしまうことも含めて、どうしてそんなことをしてしまうのか、自分たちでも理解できないということにまで踏み込んで、イエスさまは、おもんばかっておられるんです。

 

そういう意味で、イエスさまの、「あなたがたには理解できない」は、弟子たちが理解できないこと、理解出来ない弟子たちであることを、そのまま受け入れておられる言葉でもあるんです。

 

同時にそれは、弟子たちが、イエスさまのおっしゃることを、理解する力や能力がないと言う、弟子たちの側のことをどうこう言っているというよりも、そもそもイエスさまがおっしゃられることは、神さまがおっしゃる内容であり、神さまのご計画だからこそ、弟子たちの、能力、理性、理解を遥かに越えたものである、ということを、指し示しておられるのではないでしょうか?

 

というのは、神さまがおっしゃること、神さまのご計画というのは、そもそも弟子たちも含めて、すべての人が、全部、今すぐに、理解できるものではないからです。なぜかというと、神さまが、語られた時、どんな内容でも、すぐに分かるようになれば、私たちの理解が、神さまのレベルと、同じになります。でも実際にはそうではありません。その結果、一体どういう意味?と思うものばかりになっていくんです。しかし逆に言えば、分からない、理解出来ない、ということであるからこそ、語られたイエスさまが、神さまだ、ということが、またその言葉も神さまの言葉であるということが、逆に証明されていくのではないでしょうか?

 

それは、分からないことが分かると言うことでもあると思います。分からないと言うことが、分かること、これは大切なポイントです。

 

ある先生が、分からないと言うことが分かったというのは、いいことです、とおっしゃっていました。なるほどそうだと思います。分からないことが分かるということは、これから、分からないことについて、調べたり、学んだりすることができるからです。しかし反対に、分からないと言うことが、分からないままだと、何が分からないのか、結局は分からないままです。

 

しかしイエスさまが「あなたがたには理解できない」というのは、「今」理解できないとおっしゃられるんです。今は、確かに分からないんだということなんです。ということは、分からないことが、これから先も、ずっと続くということではないんです。今は、確かに理解できないけれども、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」すなわち、時が来れば、真理の霊である神さまが、弟子たちを神さまの真理の中に導き、神さまの真理に道案内をし、すべてを悟らせてくださるということなんです。

 

ではその時、何もかも一度にすべて分かるようになるのかというと、ということではなくて、「ことごとく」なんです。この「ことごとく」とは、全部、すべて、あらゆる点でと言う意味ですが、そのすべてを、一度にすべてなのかというと、一度に全部ということになれば、頭が一杯になってしまうのではないでしょうか?それは他のいろいろなことにおいても、そうです。一度に全部言われても、すぐに理解できるかというと、その内容が大きければ大きいほど、1つ1つ理解を重ねて、1つ1つ、順番に少しずつ分かっていくものではないでしょうか?

 

初めてのところに車で行くということが、これまでもしばしばありました。ある時には、カーナビを使って行くこともありました。今から20年ほど前に、カーナビを使って、出かけた時のことです。この時代のカーナビは、目的地を入力して、道案内をしてもらうと、目的地の近くまではちゃんと、右だ、左だと、少しずつ、ポイントポイントで、案内してくれるのですが、いよいよ目的地近くに来ると、こんなアナウンスがありました。「目的地に近づきましたので、これで案内を終了させていただきます。」そうなると、困るんです。あともう少しという、少しのことが分からないと、その家まで辿り着けません。本当に困りまして、1軒、1軒、家の前にちょっと止まって、表札を見ながら捜して捜して、ようやくたどり着いたことがありました。あともう少しのところが、分からないと、ほんの少しのことでも、困るんです。最近では、飯田にある教会を訪ねる時もそうです。今では、飯田にある4つの教会、入舟、知久町、吾妻町、馬場町それぞれの教会の場所が、分かるようになりましたが、飯田にある教会は、それぞれがお互いにご近所です。なので、近くには来ているんだけれども、その先が分からないんです。それで最初は、本当に迷って迷って、教会があった!と思ったら、別の教会だったとか、いろいろそれで飯田の駅から、ぐるぐる回って、また飯田の駅に引き返して、それからようやくたどり着いたこともしばしばでした。でも迷いながら、間違いを繰り返しながらも、それでも、土地勘が何となく出来て来るんですね。そうして知久町教会は、飯田病院の近くだとか、馬場町は、飯田駅からまっすぐ下り坂を下りたところだとか、入舟は、吾妻町は、ここだ~という具合に、次第に分かってくるように、今は、ようやくなっています。

 

神さまの言葉を理解すること、イエスさまがおっしゃっておられることが分かると言うのも、それと似ています。最初はさっぱりわからなくても、迷って迷って、間違いを繰り返していくうちに、それこそ理解できない、ということを、何度も何度も繰り返していく中で、だんだん分かってくるのではないでしょうか?

 

ことごとくというのは、そういうことなんです。だからイエスさまが「ことごとく悟らせる」とおっしゃられるとき、最初から何もかも理解できるものではなくて、ことごとく理解できるように、神さまが、徐々に、少しずつ悟らせてくださると言う約束でもあるんです。そして、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」と、これから起こることを、未来のことを、イエスさまは告げられるんです。

 

それが16節以下に、イエスさまがおっしゃっている言葉「あなたがたはもうわたしを見なくなる」、「わたしを見るようになる」、「父のもとに行く」ということなんです。これらは、未来のこと、将来のことです。ですから、今、それを聴いても、未来のことであり、将来のことですから、「何のことだろう」になるんです。だから弟子たちが「何を話しておられるのか分からない」というのも、当然です。

 

ところが、その未来について、分からないのに、弟子たちは「何のことだろう」「何を話しておられるのか分からない」のに、弟子たちがお互いに「論じ合っている」と、イエスさまはおっしゃるんです。それもまた大きな矛盾です。分からない者同士が、分からないことについて、お互いに論じ合うというのは、どういう論じ合い方になるでしょうか?その論じ合うことが、そもそも成り立つのでしょうか?結論から言うと、何が何だか分からなくなってしまうのではないでしょうか?

 

このことは、弟子たちだけのことなのかというと、私たちにも当てはまりますね。例えば、明日どうなるだろう?明日はどんなことが起こるのだろう?と、お互いに論じ合っていたら、どうでしょうか?明日のことは、今は、誰にも、お互いに分かりません。明日にならないと分からないです。でもその分からない明日について、分からない者同士が、論じ合っていたら、余計に分からなくなってしまうのではないでしょうか?それはお天気もそうですね。明日のお天気がどうなるか?それは、明日にならないと、誰にも分かりません。もちろん天気予報がありますので、大体予想はつくかもしれませんが、でも実際には、明日どうなるかは、誰にも分からないものです。台風もそうですね。台風は、台風自身で、動くことができません。風が吹けば、動けます。だから風が吹かないと、台風は、動けないんです。その台風も、これから夏、秋と季節が巡ってきますと、日本にやってきますが、台風の予報を見ると、予報円というのがありますが、台風がどのあたりにいるのかを、天気予報で発表しています。でも時々、凄い予報円がありますね。それは、台風の中心から、何百キロの範囲の中の、どこかに進みますという予報です。だから予報官もだいたいこうおっしゃいます。「台風の予報が難しいので、私たちにもまだ分かりません」と。風の向きや、強さによって、予報円から外れる場合もあるということも、紹介しながら、でも、厳重に警戒してくださいと言うわけです。それは、その通りです。台風も、正確にここに行くとは、誰にも分からないんです。

 

そういう分からないことを、分からない者同士が、あれこれ論じあっていくと、ますます分からなくなってしまいます。そして論じ合っていく中で、明日は何があるのか?明日のお天気はどうか?台風はどうか?ということについて、論じ合っていく過程では、お互いに、矛盾することが出て来るのではないでしょうか?そうですよね。明日は晴れと言う人もあれば、雨と言う人も出て来るでしょう。明日は、元気に過ごせる!という人もいれば、明日はケガをすると言う人も出て来るかもしれません。間を取って、明日はケガをするかもしれないと、明日は元気になれるかもしれないといったことが出て来るかもしれません。でもそれもまた曖昧と言いますか、本当にそうなるかどうかわからない中で、どちらとも取れるような内容は、明日起こることと、矛盾するものになってしまうこともあるでしょう。

 

イエスさまは、その矛盾を抱えて、お互いに相反する内容を、私たちも持っている、ということを分かっておられるんです。だからこそ、「あなたがたは泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、世の悲しみは喜びに変わる」と、悲しみと喜び苦しみと喜び、というお互いに矛盾することを、次々と語るのです。それは苦痛を思い出さないこともそうです。わたしを見なくなることと、わたしを見るようになることも、あなたがたは泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶこと、もそうです。しかしそうであっても、その矛盾の中で、イエスさまは、十字架に向かって、進んで行かれ、十字架において、神さまの赦しをあらわされ、神さまの赦しの計画を、イエスさまにおいて、実現されるのです。その道案内、十字架の赦しへの道を、イエスさまは、どんなに理解されなくても、イエスさまご自身が、自ら現し、指し示し続けておられるんです。

 

ある牧師先生がご病気で入院された時のことです。そこに、いろいろな方がお見舞いに来られていました。ある時、お一人の方が、病室を訪ねられました。その時先生は、声を出すことができませんでした。でも、メモ用紙にひと言書いて、それを、その方に手渡されたのでした。

 

そこには、こう書かれていました。「十字架」

 

「十字架」ただそれだけでした。でもそれで、十分でした。十字架のイエスさまを見上げ、十字架のイエスさまといつも共にしっかりと歩みなさい、との思いが溢れていました。

 

十字架の赦し、それは私たちにとっても、神さまにとっても、神さまであるイエスさまにとっても、とほうもなく大きなものです。同時に、途方もなく大きな矛盾そのものです。だから一度に何もかも、全部分かるものではありません。しかしそうであっても、イエスさまは、今は理解できないと語りながらも、大きな矛盾の中で、少しずつ私たちにも分かるように、語り続け、与え続けておられます。だから大いに矛盾を感じたり、迷ったり、間違ったりしても、それでもイエスさまが、その中でこそ、神さまの赦しの道、真理であることを、語り続けるのです。

 

祈りましょう。

説教要旨(5月10日)少しずつ(ヨハネ16:12~24)