2026年5月3日礼拝 説教要旨

いよいよ豊かに(ヨハネ15:1~11)

松田聖一牧師

 

聖書を学びたい、神さまのことを知りたい、そして、信じていきたいと願われた方がいらっしゃると、一緒に聖書を学んでいきます。膝を交えて、ああでもない、こうでもないと、あれこれ脱線しながら、繰りかえし学んでいきますが、大体3年くらいかかります。また3年はかけないといけないなと、いつも感じます。3年と言うと、丁度イエスさまが弟子たちと共に過ごした年数ですね。その学びの、一番最初に触れる内容は、神さまが、ご自分が神さまであるということを、自己紹介するところから始まります。それが十戒という、神さまがモーセに与えた10の戒めの一番最初にあります、「わたしはあなたの神、主である」、すなわち、わたしは、あなたと関係がある神さまだ!わたしは、あなたの神、主だ!です。

 

その神さまが、いつ、どのように、私はあなたの神、主であることを現されるのかというと、「あってあるもの」「わたしはあるというもの」です。その意味は、私たちにとって、目に見える形で、目の前に存在として現れてほしいという、私たちの希望に、神さまが応えてくださって、神さまがおられるということを現し、与えて下さるとか、自分が努力して、良いことをたくさんしたから、そのご褒美として、いうことではないんです。あくまでも神さまのイニシアチブで、神さまの望まれる時、また神さまにとって、必要とされる時に、神さまがいつもおられることを、私たちに現し与えて下さると言う意味です。そういうことですから、それが私たちに分かる時もあれば、分からない時もあると思います。分からないままになっていることもあるかもしれません。しかし神さまは、私たちには分からない時があっても、私たち側のいろいろなことに左右されることなく、神さまが望まれ、必要とされる時に、神さまだということを、現し、与えて下さり、分かるようにして下さるんです。

 

それは、神さまであるイエスさまがおっしゃられた「わたしはまことのぶどうの木」も、そうです。というのは、「わたしは」の言葉の中に、「わたしはあってあるもの」「わたしはあるというもの」が、あるからです。ということは、イエスさまが、おっしゃられた、わたしはまことのぶどうの木であるということも、私たちに、今すぐに分かるように、まことのぶどうの木を、目の前に、見える形で与えて下さるわけではありません。となると、私たちには、まことのぶどうの木とは、何か?どういうものなのか?いつ、どんな形で、私たちに見せてくださるのか?分かるようになるのか?も、私たちの側では分かりません。

 

それはその通りです。なぜかというと、現実に、神さまであるイエスさまは、私たちの目の前に、目に見える姿で現れてくださるとか、私たちに分かるように触れたり、話しかけて下さるお方ではないからです。では反対に、いつも神さまが、24時間、目の前に見えるようになれば、触れることが出来たら、その方がいいのかというと、というと、いかがでしょうか?例えば、朝起きた時に、この辺りに神さまの顔が出ていて、「おはよう!」とか、「これからどうするの?」「何を考えているの?」「何をしようとしているの?」と、24時間いつも聴かれたら、どうですか?求道者会で同じ質問をした時、相手のその方からは、「困るわ~」「今日はどこへ行くの?」なんて毎回聞かれたら、どこにも出られなくなる!怖いわ~と素直な感想を頂いたことがありました。

 

それは私たちにも、そのまま当てはまります。いろいろ思いますよね。でも実際には、イエスさまは目には見えませんし、触れることもできません。しかし、イエスさまは、いつも「わたしはあってあるもの」「わたしはある」なんです。「わたしはまことのぶどうの木」なんです。

 

ではその「まことのぶどうの木」ということを、どのようにして分かるようにして下さるのかというと、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」にある、実を結ばない枝に、現されるんです。実を結ばないというのは、結果が出ないということでもあるでしょう。あるいは、本来、実を結ぶ枝であるはずなのに、実態が伴っていないとも言えるでしょう。いろいろな理由があると思います。病気になってしまったとか、何かの理由で弱ってしまったとか、特定はできませんが、いずれにしても、実を結ばないという、結果が出なかった枝、実態が伴わない枝になっているんです。

 

先月、お隣の町では選挙がありました。最初は無投票か?と思われていましたが、立候補される方が、定員より1名多くなったので、やっと選挙戦になりました。少数激戦となったのですが、そういう選挙に立候補するために必要なことの1つは、その選挙がある町に、ちゃんと住んで、生活しているという実態が必要です。その証明としては、書類では住民票ですね。ですから住民票があるということは、書類の上では、確かにこの人は、ここの住民ですという証明になります。じゃあそれだけでいいのか?というと、そこに住んで、生活しているという生活実態がないと、そこに住んでいるとは言い切れません。どこか別の町に住んでいて、時々、住民票がある、その家に帰ってくると言う、通いのようなかたちでは、それは生活実態があるとは言えないんです。つまり、住民票は確かにそこに住んでいる証明となってはいても、そこに住んで、毎日生活しているということで初めて、住民票が生きた証明書になっていくんです。その結果、ああこの人は、ここに住んでいるという事実になるんです。

 

それが、まことのぶどうの木であるイエスさまに、つながっているけれども、実を結ばない枝ことと同じではないでしょうか?つまり、イエスさまにつながっているということが、本当にその通りであるというのは、繋がっているという証明書があれば、後は実態がなくてもいいのかというと、そうではありません。ぶどうの木に繋がっている枝であるからこそ、どんな実であっても、どんなかたちであっても、どんな大きさであっても、どんなに小さくても、形がでこぼこしていても、実がつくということで、繋がっている実態になるんです。でもそれがないということは、証明書はあっても、実態が伴っていないということになるのではないでしょうか?

 

それはイエスさまを信じて歩むということも同じです。具体的には、イエスさまを信じる信仰には、生活が、伴っているんです。普段の生活と、信仰とがバラバラではなくて、つながっているんです。平たく言えば、日曜日だけ、信仰して、他の日はイエスさまと関係ないというのではないんです。ところが、信仰と生活とがばらばらになってしまうことがあるのではないでしょうか?その結果、ぶどうの木に繋がった枝なのに、実を結ばない枝と同じになってしまいます。それでも、その枝が、そのぶどうの木につながったままであれば、その木は、まことのぶどうの木ではなくなってしまうのではないでしょうか?では、信仰と生活とがいつも、100%繋がっている人が、どれだけいるのかというと、100%繋がっている人は、実は誰もいないんです。なぜかというと、100%完全な人は誰もいないからです。だから、完全にイエスさまと自分と、また自分の生活とが繋がっている人も、誰もいないんです。

 

ということは、父なる神さまが農夫として、実を結ばない枝は「みな」全部、取り除かれる時、それは全員を取り除くということになるのではないでしょうか?そうなると、ぶどうの木は、ぶどうの木であり続けられるのかというと、ぶどうの木はそもそも、リンゴやミカンの木とは違い、つるがドンドン伸びで、大きくなっていくものですから、そもそもぶどうの木と言っているものは、すべてつるが大きくなって、太くなったものです。枝もそうです。そういう意味で、そもそも木があって、そこに枝が伸びてぶどうの実が出来るものではないですね。ということは、「わたしはまことのぶどうの木」であるイエスさまから、実を結ばない枝を「みな」取り除いてしまうことは、イエスさまそのものを、神さまが取り除かれるということにもなるんです。

 

それが、イエスさまの十字架の死を現し、指し示すのですが、具体的に、イエスさまから、実を結ばない枝は「みな」取り除かれる時、取り除こうとしている枝と、ぶどうの木の間に、のこぎりか、大きなはさみを入れられます。あるいはイエスさまの内から、えぐりだされます。それによって実を結ばない枝は、ぶどうの木からなくなり、実を結ぶ枝だけが残ります。その時、見た目には、ぶどうの木も、剪定される植木などと同じように、綺麗に整います。しかし、取り除かれる時、枝が切られたり、切り離される時、イエスさまから、切られ、切り離され、えぐり出されますから、切り取られる枝も、その枝と切り離されるイエスさまも、傷ついてしまうのではないでしょうか?

 

それで、もうよかった、良かったで終わるのかというと、綺麗に取り除かれたから、それでもう終わりではなくて、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」すなわち、実を結ぶものになったから、それで終わりではなくて、またぶどうの木を手入れするのですから、イエスさまは、また傷だらけになってしまうんです。

 

つまり、イエスさまは、実を結ばない枝をみな、全部取り除かれ、イエスさまから何もかも奪われ、身も心も引き裂かれるだけではなくて、手入れによってもまた、ズタズタになるんです。それは、実を結ばない枝がみな、実を結ぶものへと新しく造り変えるためであり、いよいよ豊かに実を結ぶために、です。そのためにイエスさまは、ご自分を全て犠牲にして、何もない、亡き者とされ、そうなることをも赦して、受け入れておられるんです。その結果、ぶどうの木は、風通しが良くなり、その枝に、またその枝にできたぶどうの実に、風が当たるようになるんです。さらに言えば、風は指し示すものは、イエスさまの言葉であり、イエスさまの命です。つまり神さまが、イエスさまを、取り除かれ、イエスさまを、手入れすることで、イエスさまの言葉、命が、実を結ぶものすべてに、豊かに与えられるということに繋がっていくんです。

 

だからこそ「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」神さまによって、聖なるものとされていると、言えるんです。すごいですよね。神さまであるイエスさまの言葉を、そのまま受け取る時、受け取った私たちは、神さまの聖なる者とされているということ、たといどんな実を結んだとしても、大きさがどうであっても、形がどうあっても、それでも、神さまの聖なるものなんです。

 

そんな聖なるものとされ、聖なるものとなったので、イエスさまは、4節以下で、何度も何度も「わたしにつながっていなさい」とおっしゃれるんです。つながっていなさいとある言葉は、とどまっていなさい、あっちに、こっちにふらふらしないで、イエスさまに変わらず、つながるということを、どんなことがあっても、続けなさいと言う意味なんです。

 

どんなことがあっても、変わらずとどまるということ、それは私たちに与えられた、イエスさまを信じて歩む、信仰生活そのものです。しかし時には、変わらず留まろうとしても、変わってしまうこと、自分が変えてしまうことがあるかもしれません。気持ちも、姿勢も変わることがあるかもしれません。あっちにふらふら、こっちにふらふらと、まるで放蕩の限りを尽くした、息子のように、根無し草のように、さ迷い歩いた人生を送って来られたかもしれません。それでも、イエスさまは、あなたがたはもう聖なるものとされたのだから、だから繋がり続けていくことができるものとしてくださっているんです。そのために、イエスさまの方から、手を伸ばし、また捜し求め、見つかる迄、あなたを、捜し続けてくださって、イエスさまにつなげて下さるんです。だからこそ、イエスさまから離れないように、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、イエスさまに繋がり続けていくこと、どんなことがあっても、変わらずイエスさまに、とどまることです。イエスさまではない、他の何かに繋がることではなくて、イエスさまに、つながり、イエスさまに、とどまり続けていくことなんです。

 

ある方が、ご自分の信仰生活を振り返って、こうおっしゃっていました。

 

「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。」グードイ宣教師は、この御言葉を口癖のようにおっしゃった。私は19歳で、このグードイ先生に洗礼を授けられました。まだ若かった私は結婚のこと、神だなや仏壇が同居している日本で、果たしてクリスチャンとして、しっかり生きていけるだろうか、と洗礼を受けるまでは思い煩いました。しかし神は祈り求めるっものに、その時々にかなった道を備えて下さいました。信仰の弱い私にはクリスチャンの夫が与えられ、2人の子どもも堅信礼を受けるまでに神さまが育てて下さいました。思えば青春時代から結婚して19年過ぎた今日まで、この教会によって神さまに出会い、愛され、生かされ、守られて参りました。この30年の間に教会で救われた懐かしい多くの兄弟姉妹は、今、どこの教会で、どのようにお過ごしなのか、その後の消息など話し合えたら素晴らしいのにと思います。さて私の家の玄関わきにネオマスカットの木があります。手入れをおこたる、なまけ者の私たちに毎年夏になると、たくさんの房をつけて目を楽しませてくれます。先日このぶどう棚を見上げていると、ヨハネ15章5節通りのぶどうの木の姿を見ました。すなわち「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに繋がっており、またわたしがその人と繋がっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。」確かに、ぶどうの幹につながった第一の枝にのみ、実がなっています。枝の枝には何も実っていません。イエス・キリストの幹に繋がる枝である牧師、伝道師、信徒につながった枝では実を結ばないことを知りました。不信仰な私ですが、キリストに繋がる第一の枝でいられるように、これからも祈り求めていきたいと願っています。

 

イエスさまは、私たちがどんな実であるかということよりも、とにかく、どんなことがあっても、イエスさまに繋がり続けること、変わらず留まり続けるように、その言葉を通して、私たちに命を与え続けてくださっています。そのことが、今、分からなくとも、イエスさまの望まれる時、必要とされる時に、必ず、分かるようになります。そのために、イエスさまは、繋がっているその枝に出来るその実を、少しずつであっても、育てて下さり、いよいよ豊かに実を結ぶようにしてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(5月3日)いよいよ豊かに(ヨハネ15:1~11)